「土井たか子」の死去に想う
女性初の衆議院議長、社会党委員長、社民党党首などを務めた土井たか子が2014年9月20日に死去した。公表は昨28日で、享年85歳だった。
「おたかさん」の愛称で知られ、「やるっきゃない」「ダメなものはダメ」「山が動いた」などの名文句は当時の流行語ともなった。
1969年に初当選以来、連続12回当選、38年間党の議席を守り続けた実績は誇れるものといえよう。1980年代後半からは社会党の顔であった。
土井氏が衆議院議長に就任したのは、1993年の非自民連立政権の誕生を受けた1994年である。この当時はまるで熱病のように「選挙制度改革」がさけばれ、土井議長の調停案が「小選挙区制導入」を後押しした。「政党助成金」制度が導入されたのも同じ時期だ。
私は小選挙区制と政党助成金制度は、日本の民主主義を危うくするとして、絶対に反対だった。その信念は今も変わらない。
理由の一つは、議会制民主主義の根幹は、国民の意見ができるだけ忠実に議会に反映することにある。そのためには得票数に応じて議席が配分されねばならず、一人だけ当選で他は全員が落選という制度は民主主義とは合い容れないものだ。
もう一つは、大きな政党だけに議席と資金が集まり、最終的には一党支配の政治体制になってしまう危険性をはらんでいるからだ。
しかし熱病に浮かされた当時の連立政権は、小沢一郎の主導のもとにこの制度を導入し、土井たか子もこれを追認する結果となった。
皮肉にも、選挙制度改革が社会党凋落の引き金を引いてしまった。直後の選挙で惨敗し、一時は自民党と組んで連立するなど迷走を続けたあげく党も分裂。社民党と衣替えしたものの、土井氏本人も新しい選挙制度のもとで落選、党の退潮はとどまらず今や風前の灯となった。
土井たか子は終生、護憲を訴え続けた。その精神は高く評価できる。
しかし非自民連立から自社連立にいたる時期の行動、特に小選挙区制導入への関与を見るとき、民主主義の根幹をどれだけ理解していたのだろうかという疑問が残る。
いまや私の憂慮していた通りに自民党の一党支配が強化された。かつては幅広い人材のいたその自民党も、小選挙区制と政党助成金の影響で執行部の意のままに動く議員だけが増え、すっかりモノトーンの党に変質してしまった。
護憲をさけび続けた土井氏の主張とは逆に、国会は改憲勢力が大勢を占めた。
私が、土井たか子という政治家の功績とともに限界を感じるのは、そのためだ。
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