若き日の桂小金治の高座に出会う
11月3日に桂小金治が亡くなった。享年88歳だった。
私は若き日の小金治の高座を一度だけみたことがある。1951-52年(小学校2-3年生)の間、JR信濃町駅から徒歩で200mほどの所、今では創価学会の施設が立ち並んでいる辺りに社宅があり、そこで暮していた。同じ社宅に若林さんというオールドミス-当時は結婚適齢期を過ぎた独身女性をそうよんでいた-が住んでいて、この人が大の落語好きだった。場所が近いこともあって休みというと彼女は私の母と私を連れて新宿末広亭に通った。当時は寄席へ女性一人では行きにくかったんだろう。
当時の名だたる名人上手の高座に出あえたのは、ひとえに若林さんのお蔭だ。
小学校低学年だったが、寄席に足を運んでいるうちに上手い人下手な人、売れる人売れない人の見分けがつくようになってくる。この時の経験が役に立ち、後に自分が落語家になろうというのを断念することになった(正解!)。
桂小金治の高座をみたのもこの当時だった。
経歴をみると、
1949年 - 二つ目昇進、「小金治」を名乗る。
1952年 - 映画デビュー。松竹大船と専属契約を結び売れっ子となる。
とあるので、その間の僅かな期間だったことになる。
ネタは『禁酒番屋』だったが、ひっくり返って笑いましたね。面白かったし上手かった。経歴からすれば二ツ目だが、そんな気がしなかった。この人上手かったねなどと若林さんとも話した記憶がある。
当時の若手で面白かったのは小金治と桂伸治(後の10代目桂文治)だった。
しかし小金治はアッという間に売り出して映画の世界に、更にはTVの世界へと行ってしまった。
落語好きとしては残念としか言いようがない。もし落語家を続けていたら、芸協を背負う大看板になっていたに違いない。
談志が「小金治は上手いと思いました。(中略)やはり小金治さんだな。軽くて、うまくて、人気もあったから、扱いもよくて若手なのに寄席でもいいところに上がってましたよ」「軽くていい口調で、親しみやすい顔で、声もおれみたいに悪くなくて中音でよくて」「芸風やあの強情な性格から言って、啖呵なら啖呵はこうだと、崩すことを許さず、きちんとした古典落語を伝えていけたのに」と語っていたようだが、正にその通りだと思う。
小金治さん、永い間お疲れ様でした。
合掌。
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