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2015/04/30

「産めよ殖やせよ」は誤用 (書評『熱風の日本史』2回目)

井上亮(著)『熱風の日本史』(日本経済新聞社刊 2014/11/20初版)
書評の1回目は主に明治から大正にいたる項目を採りあげたが、2回目は戦前の「優性政策」について述べる。
この本は現代史に関しても、私たちは間違ったことをそのまま認識していることに気付かされる。一例が戦前の「産めよ殖やせよ国のため」というスローガンで、ネットの事典でもこの標語が引用されている。
元のスローガンは昭和14年9月30日に厚生省が掲げた次の「結婚十訓」に書かれたものだ。

1.一生の伴侶に信頼できる人を選べ。
2.心身ともに健康な人を選べ。
3.悪い遺伝のない人を選べ。
4.お互に健康証明書を交換せよ。
5.近親結婚はなるべく避けよ。
6.晩婚を避けよ。
7.迷信や因襲に捉われるな。
8.父母長上の指導を受けて熟慮断行。
9.式は質素に届けは当日。
10.生めよ育てよ國の為。

人口に膾炙している「産めよ殖やせよ国のため」は誤りで、正しくは「生めよ育てよ國の為」だ。
この「結婚十訓」を見れば、単純にとにかく子供を作れと言ってるわけではなく、「質」を重視し国家に役立つ子供を生み育てることが奨励されていたことが分かる。

「国民の体力向上=強兵養成」という陸軍の主張を受けて昭和15年3月には「国民優性法」が成立する。この法律の第1条には「本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加を防遏」することが明記された。
同時に悪質なる遺伝子を持つ者への優性手術「断種」の規定が設けられた。
対象は「遺伝性精神病者、遺伝性精神薄弱、強度かつ悪質な遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患、強度なる遺伝性奇形」とされた。
本人たちが患者でなくとも、四親等以内の上記の患者がいて子供に疾患が発生する可能性の高い場合は「断種」の対象となった。
さらに厚生省は「優性結婚」を唱え、本人や祖先に遺伝的な障害や疾患を持つ者の結婚を規制した。逆に優秀な資質と認められた者には結婚を勧め、貸付金を斡旋したり、出産奨励金などを給付した。
但し、断種手術は強制ではなく任意だったので、実際に行われたのは538件だったとされる。これは祖先を崇拝し子孫を連綿とつないでいく家族制度と断種が相容れなかったことが主な理由だったようだ。
例外はハンセン病患者で、昭和6年の「癩予防法」と昭和22年の「優性保護法」によりハンセン病患者に対しては半ば強制的な断種手術が行われた。その数は戦後だけでも1万8000件に及ぶ。

こうして見ると、戦前の出産奨励のスローガンは「産めよ、産ますな」がより正確だったといえよう。
全ては「高度国防国家ニ於ケル兵力及労力ノ必要ヲ確保スル」ために「増殖力及資質ニ於テ他国ヲ凌駕スル」(昭和16年「人口政策確立綱項」閣議決定)ことを目指していたわけだ。
現在政府が進めている少子化対策がその轍を踏まねば良いのだが。

2015/04/28

「ART」(2015/4/28)

「ART」
日時:2015年4月28日(火)14時
会場:サンシャイン劇場
作/ヤスミナ・レザ
演出/パトリス・ケルブラ
美術/エドゥアール・ローグ
<出演者>
市村正親
平田満
益岡徹

3人の中年男、マーク・セルジュ・イワンは親友同士で、もう15年のつきあいだ。
彼らの友情にヒビが入り出したきっかけは、セルジュ(益岡徹)が現代アートの高い絵画を買ったこと。その絵は白を背景に白い線が入っただけの作品で、セルジュは気に入って500万円も出して買ったのだ。しかし友人のマーク(市村正親)にはその作品の良さも価値も全く理解できないで、「クソの様な絵」と罵倒したため二人は険悪に。
もう一人の友人であるイワン(平田満)がそれを聞いてセルジュを訪ね絵を見て、「何かがある」と批評。セルジュはすっかり機嫌を直す。
収まらないのはマークで、イワンに向かって適当に調子を合わせているだけだろうと非難する。結婚を目前に控え準備に追われるイワンはそれどこじゃない。
仲直りのために3人が集まって会食しようという運びになったが、またまたセルジュの絵の問題が蒸し返される。挙げ句の果てにお互いの恋人や婚約者への非難、罵倒が飛び交い、取っ組み合いの喧嘩まではじまる始末。
果たして3人の友情は取り戻せるのか、イワンは無事に結婚式を挙げられるか。そして白い絵の結末は・・・。

永年の友情がちょっとしたことで崩れるというのは、ままあることだ。傍から見てると何でこんなことでいがみ合ってと思えるのだが、当人たちは引くに引けない。
そういう行き違いも今度はまたちょっとした切っ掛けで仲直りすることもある。
多少、芸術論や哲学的な会話も飛び交うが、要は落語の『笠碁』みたいなストーリーだ。
16年ぶりの再演で、出演者もスタッフも初演と同じメンバーという事で話題になった。16年前は中年だった俳優も今や初老、役柄とのギャプも隠せない。
芸達者な3人の俳優による90分の舞台は楽しく飽きさせないが、(高い入場料の割には)物足りなさが残った。

公演は5月10日まで。

2015/04/26

#37三田落語会「志ん輔・正蔵」(2015/4/25昼)

第37回三田落語会・昼席「古今亭志ん輔・林家正蔵」
日時:2015年4月25日(土)13時30分
<   番組   >
前座・柳家さん坊『饅頭こわい』
古今亭志ん輔『替り目』
林家正蔵『一文笛』
~仲入り~
林家正蔵『雛鍔』
古今亭志ん輔『三枚起請』

4月中旬までの寒さがウソのようになった様な暖かさで、T-シャツの若い人も見られる今日この頃、皆さまはいかがお過ごしでしょうか、って、オレはさん喬か。
昼席は次回の整理券を正午から配布するが、少し前に行くと行列の最後尾が6階や7階になることもある。階段で待つのは辛いのでせめて1階のロビーでと思い1時間前に着いたらヤッパリ階段になってしまった。皆さんはいつごろから来てるんだろう。用意の良い人は折り畳み椅子を持参していた。
アタシ同様に次回のチケット欲しさにこの会に来た人もいたんだろうと推測する。

さん坊『饅頭こわい』、今年二ツ目に昇進の予定とか。達者そうだし若い頃の喬太郎に語り口が似ているが、アタシにはどうもピンと来ない。この辺りは好みの問題かも。

志ん輔『替り目』、マクラで触れてたが、例の官邸屋上へのドローン落下、世間の人は結構面白がってる所もあるのでは。まあカメラ付きの飛行物体が自由に上空を飛んでいるというのも気持ちの悪い面もあることはあるのだが。
漫才の「昭和 こいる」が幼少時にバイオリンを習っていたという。ヘエー、良いとこのボンボンだったんだ。
これもマクラの話題だが、近ごろ立ち飲み屋に女性客が増えたとか。
そう言えばアタシの娘も勤め帰りに立ち飲み屋に寄ることがあると言っていた。親父の血を引いてか酒飲みで困ったもんだ。二人の孫も揃って好物がアタリメ、それもゲソが好きというんだから酒好きになるんだろうね。こうなりゃ、孫娘と一緒に酒を呑むのを楽しみに長生きしようっと。
志ん輔は酔態の描写、特に目付きが上手い。このネタの亭主は女房に「真綿で包むような」応対を要求する。それに対して女房の方は「真綿で首を絞めるような」言葉づかい。その対比が面白い。

正蔵『一文笛』、マクラでスリの親分に会って話を聞いた経験を紹介、風貌が喜多八みたいだったとか。腕の良いスリは掏った財布から現金だけを取り出し、財布を元に戻すのだそうだ。
ネタは亡くなった桂米朝の創作だが、今では古典並みの扱いになった。冒頭の金持ち風の旦那とスリとの軽妙な掛け合い、このスリが貧しい子供を見かねて店から一文笛を抜き取りその子に与えた事による悲劇、そして最後はスリが病気になっていた子供を救う人情噺だ。正蔵の高座はそれぞれの人物像をしっかりと演じ分けていて良い出来だった。

正蔵『雛鍔』、3代目金馬が得意としていて、これを継いだ志ん朝の名演が印象に残っている。正蔵は志ん朝の型を基本に演じていたようだ。上昇志向の強い植木職人とその女房、そして小生意気な8歳の男の子が主役だ。仕事先の武家の屋敷で偶然見かけた息子と同じ8歳の若君、拾った硬貨がお金であるのを知らず、「お雛様の刀の鍔」だという。その奥ゆかしさにすっかり感心した植木職人、家に勝ってからこのエピソードを女房に話し、我が家の息子もこう育てたいと言い出す。しかし現実主義の女房は若君は周囲の家来が遊ばせてくれるが家の子はお金が遊ばせてくれるのだから事情が違うと反論する。
そうこうしている内に父親の代から出入りしている商家の大旦那が植木屋の家を訪ね、商家の屋敷の庭の手入れに行き違いがあり、植木屋の誤解を与えた詫びを言って謝る。一見、本筋とは関係が無いこの場面を挟む事によりネタの奥行きが出てくる。大旦那に出す茶菓子の羊羹の出し方に職人は細かな注文を付けるのだが、このヤリトリを通して植木屋夫婦の性格の違いを際立たせる。8歳の息子は見栄っ張りな父親の意向を素早く汲んだのだろう、硬貨を手にして「こんなもの拾った」と言いながら家に戻り「これはお雛様の刀の鍔かな」と若様と同じセリフをはく。戸惑う父親に対し、これを見た商家の大旦那はすっかり感心して、ご褒美に手習い道具一式を提供すると申し出る。見栄っ張りの職人は大喜び、息子に「そんな不浄なもの捨てちまえ」と命じると、息子は「やだい、これで焼き芋を買って食うんだい」でサゲ。
「付け焼刃は剥げ易い」という教訓的な噺だが、武士、商家、職人といった様々な階層の人間を出し、その職人一家にしても亭主と女房との間の違いや、子供ながらに父親の意図を汲んで行動する息子を対比させている実に良く出来た演目だと思う。
正蔵の高座では職人の息子が上手く描かれていた。
当代の正蔵については今も色々な批判の声を聞くが、こぶ平時代を知っている者としてよくここまで修練したなという感慨の方が深い。名跡襲名を機にステップアップした典型例としてとらえるべきかと思う。

志ん輔『三枚起請』、マクラで起請文についての説明があり、特に熊野三山の牛王宝印(熊野牛王符)がよく用いられ、熊野の牛王宝印に書いた起請文の約束を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に地獄に堕ちると信じられていた。この事と高杉晋作が作ったといわれる都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝(朝寝)がしてみたい」の両方を知らないと、このネタのサゲが分からない。
浪花節のひとつに、篠田実の「紺屋高尾」の歌い出しに「遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来るという、嘘と嘘との色里で」というのがあるが、色里は遊女と客の騙し合いの世界だ。そう承知して楽しんでくればいいんだが、えてして客である男たちが騙されるケースが多い。
この演目に出て来る花魁は同時に3枚の起請文を男3人に渡していたのだから相当な者だ。だから男たちが集まって懲らしめてやろうと一計を案じてもビクともせず、開き直って啖呵を切る始末。
志ん輔の高座は人の良い男たちと厚顔の女郎との対比が巧みに描かれていた。

2015/04/25

#5まいどおおきに露の新治です(2015/4/24)

第5回「まいどおおきに露の新治です」
日時:2015年4月24日(金)19時
会場:内幸町ホール

前座・露の新幸『東の旅 発端〜奈良名所』
<  番組  >
柳家さん喬『天狗裁き』
露の新治『宿屋仇』
~仲入り~
露の新治『狼講釈』
笑福亭べ瓶『いらち俥(反対俥)』
露の新治『中村仲蔵』

【4月25日追記】
前座の新幸『東の旅 発端〜奈良名所』は初見。おそらく新治の弟子なんだろうが40歳位に見える。上方落語の見習いはみなこのネタで修練するのだそうだ。「語り」のリズムを身に着けるのだとか。

いきなりゲストのさん喬が上がり得意の『天狗裁き』を。詳しい経緯は知らないが、新治が東京の寄席や落語会に出演してこれだけの評判を得るには(今回も前売り完売だった)、さん喬の力が大きかったものと推察される。そういう意味では、さん喬は功労者だ。亡くなった笑福亭松喬とも長く二人会をやってきた。芸協の方は以前から上方落語会との結びつきが強いが、落語協会ではさん喬が窓口の役割を果たしているかに見える。

新治『宿屋仇』、このネタのキモはテンポだ。トントントンと進めて運びの良さと、場面転換の鮮やかさが生命だ。唐紙1枚隔てて片や侍一人、もう片方が威勢の良い兵庫っ子の三人連れ。この双方の部屋を「イハチー」が右往左往する所から、源兵衛の真に迫った告白から一転して仇討話に転換してゆく所を新治は小気味よく演じた。東京の3代目桂三木助の高座(東京では『宿屋の仇討ち』)に匹敵する高座だった。

新治『狼講釈』、このネタは3回目になると思うが、何度聴いても面白い。まず新治自身が楽しそうに演じている。確かに「今年の阪神もうアカン」だ。

べ瓶『いらち俥』、過去に色々不祥事を起こし師匠から3度破門された経歴の持ち主のようだが、逆に言えば3回も復帰を許されているんだから、どこか見込みがあったのだろう。「新治師匠の着替えの間の時間つなぎ」などと殊勝な事を言ってたが、受ける気マンマン。病み上がりで足を踏み出す度に「カーッ!」と痰を切りながらノロノロ歩く人力俥夫と、対照的に「いらち」な韋駄天俥夫との対比を面白く描き客席を沸かせていた。

新治『中村仲蔵』、師匠の露の五郎兵衛が彦六の正蔵から教わって上方に移した噺で、これを東京の高座に掛けるに当たってはそれだけ思い入れがあった事だろう。ストーリーは東京のオリジナルと同様だが、上方版は仲蔵の夫婦愛に焦点が置かれている。せっかく名題に昇進しながら「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎一役を割り振られ腐る仲蔵に、女房がきっと座頭が仲蔵に自分で役作りをしろという暗示だと亭主を説き伏せる。妙見様に日参しての帰り、雨に降られて立ち寄った蕎麦屋で偶然見かけた浪人の姿に衝撃を受け、これをモデルに定九郎の役作りをする。新治の浪人の描写が細かい。途中で、浪人が名前を訊き「仲蔵と申します」と答えると、「あの酒場で殴られたヤツか」「それは海老蔵でございます」といったクスグリを挟んで客席に一息入れさせた。
仲蔵の舞台の場面は芝居の所作を丁寧に演じて、仲蔵の意気込みが客席にも伝わった。最後は再び夫婦愛の場面で締めた。
新治の動きの美しさ、粋さが十分に活かされた上出来の高座だった。

満足度の高い落語会、結構でした。

2015/04/23

【書評】『熱風の日本史』(1回目)

井上亮(著)『熱風の日本史』(日本経済新聞社刊 2014/11/20初版)
本書は日経新聞に連載されて記事を本にまとめたものであり、著者は日経の記者で現在は社会部編集委員。
本書は日本が近代化を果たした明治維新から現在までの近代の歴史の中でおきた様々な「熱風」(同調)現象を時代系列に採りあげ、そのことで日本人の自画像を浮かび上がらせようと試みたものだ。
近ごろ過去を美化し今の社会を否定するような言説がはびこっているが、著者によればこうした風潮は先人の改革・改革の成果への敬意を欠いたものだという。人間の歴史は美醜ない交ぜになったもので、清らかな成功体験が後世のアダとなり、醜き体験こそが有益な教訓となるとしている。
本書に紹介されているエピソードのほとんどは「暗部」といってよい。自画像を正視できるのが成熟した人間であり国家である、美しき日本だけしか見たくないというならそれはピーターパン国家でしかない、というのが著者の見解だ。
本書に描かれた日本人の自画像について特に印象に残った点を2回にわたって紹介したいと思う。

「欧化という熱病」では明治初めの日本人が西洋人に対し異常な憧れを抱いていたという事が明らかにされている。庶民の間にも英語熱が高まり、商店の小僧でも夕方に暇を貰って英語の私塾に通うようになるほどだったとある。英語崇拝のあまり、英語を国語にしようと主張する人まで現れる。当時の文部大臣であった森有礼(ありのり)も日本語の不備を説いて英語を国語にせよと主張していた。
この辺りは現在の日本の教育でもやれ国際化だとかグローバルだとかいうと、先ずは英語教育が主張される点が酷似している。
こうした熱病はやがて、劣等民族である日本人は優等民族である西洋人と積極的に国際結婚することにより優れた子孫を残すべしという、「人種改良論」が主張されるようになる。代表的な論者は時事新報の記者だった高橋義雄で、日本人は「人力をもって淘汰の作用を施し」優等民族とならあねばあならぬと説いた。
実は、高橋は福沢諭吉門下だった。福沢諭吉というと人間は平等であると主張した人物と思われがちだが実際は「人種改良」論者で、「(人間の)優劣は既に先天に定まりて決して動かざるものなり」と書いている。そして「体質の弱くして愚なる者には結婚を禁ずる」か避妊させ、「繁殖を防ぐべき」と説いた。
こうした行き過ぎた欧化熱はやがてアジア諸国に対する蔑視思想や、西洋崇拝への反動としての「国粋主義」を生んでいく。
この点も現在とあまり変わらないようだ。

「恐露病と露探の幻影」では、明治24年に来日中のロシア・ニコライ皇太子が日本人の巡査に襲われ重傷を負うという事件が発生する。これを契機にロシアが怒って日本に攻めてくるという風聞がひろがる。また日清戦争後の三国干渉でロシア憎しの感情が爆発してロシアを恐れる「恐露病」が国内に蔓延するようになる。時を同じくして「露探(ロシアのスパイ)狩り」が始まり、本来はロシアとは何にも関係の無いニコライ堂襲撃やニコライ主教の暗殺計画などが発覚する。
「露探」は本国のロシア人以上に憎しみをかっていた。
これも最近のネットの世界などで、日本政府を批判すると直ぐに「反日」「在日」「工作員」などと罵られる風潮と似ている。

次は今年の教科書検定でも問題にされた関東大震災における朝鮮人虐殺問題である。
「関東大震災、人間性の焦土」でこの件が採りあげられている。
大震災の発生直後からの流言飛語と自警団や軍隊による過剰警備による暴走により朝鮮人、中国人、社会主義者らが、ゆえなく殺害された。
仏文学者で当時一高生だった田辺貞之助の証言によると「四、五百坪の空き地に、裸体に等しい約二百五十体の朝鮮人の遺骸が遺棄されていた」「なんという残酷さ、あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」と語っている。
墨田区と葛飾区の間を流れる荒川付近での浅岡茂蔵の証言では「10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路上に並べて石油をかけて焼いたですね」と述べている。
兵士の証言もある。「将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。朝鮮人はみな引きずりおろされた。そして、白刃と銃剣下に次々と倒れていった。」
作家の保坂正康は父親の思い出としてこう語っている。当時横浜の中学生だった保坂の父が「がれきの下敷きになっていた中国人が『水をください』と懇願していたので、水をやろうとしていたところ、自警団の男たちに『なんでこんな奴に水をやる』と棒で殴打され、右耳が聞こえなくなった。その中国人は父の目の前で惨殺された」。
被害は朝鮮人や中国人だけではなかった。千葉県野田市では香川県から来た行商人の一行が朝鮮人と間違われ、女性や幼児を含む9人が惨殺されている。このように朝鮮人と間違われ殺害された日本人は57人に達したという。
社会主義者の関係では、大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一の3名が憲兵隊により殺害されている「甘粕事件」。
また「亀戸事件」では川合義虎、平沢計七ら10名が亀戸警察署の中で習志野騎兵第13連隊によって刺殺された。これとは別に同じ亀戸で、警察に反抗的な自警団員4名が軍に殺されている。

これら一連の事件は大震災の混乱という事態があったにせよ、ここまで拡大した背景が存在すると考えるべきだろう。
大震災の4年前の1919年に朝鮮で初めての人民蜂起「三・一独立運動」が起きる。これを日本の新聞は「不逞鮮人」という名で恐怖心と憎しみを煽っていた。日韓併合後の土地政策により耕作地を奪われた朝鮮の零細農民が労働者として日本へ流入しており、1923年の震災発生時には約8万人の朝鮮人が日本に在住していたと見られる。これが一つ。
もう一つは、大震災時の治安の最高責任者が、「三・一独立運動」当時に朝鮮総督府の政務長官であった水野錬太郎内相と、同じく警務局長だった赤池濃(あつし)警視総監だった事も大きく影響したものと思われる。
二人は震災の混乱の中で朝鮮人と社会主義者が革命や暴動を起こすことを恐れていた。彼らの建言により大震災の2日後に戒厳令が施行されるのだが、これによって流言飛語が「お墨付き」を得てしまった。
この結果、被害のなかった関東各県にも虐殺事件が飛び火した。後に虐殺に参加した人々は、「一人でも多く殺せば国のためになる」などと証言している。
政府や軍、警察などによる隠蔽工作で正確な被害者の数が明確になっていないが、朝鮮人は少なくとも2600人以上、6000人という説もある。中国人も700人以上殺害されたと見られている。
この項は山岸秀の次の言葉で結ばれている。
「事実を事実として正視しない人間に誇りはない。過去を正視することを自虐として否定することは、現在の自分や国家や民族にまだ自信の持てない人たちの卑屈な態度である」。
まさにその通り。

2015/04/21

どうにも止まらない安倍政権の横暴

ここの所、政権や自民党が腕づくで反対意見を抑え込もうとする動きが目立つ。
4月17日に自民党がNHKとテレビ朝日の幹部から聴取を行ったが、個別の番組について自民党がTV局の幹部を聴取するというのは異例だ。問題となった番組についてはテレ朝は早河社長が会見で謝罪しているし、NHKでは現在調査を行っているなかで、敢えて聴取を行ったことには特別の意図があるとしか思えない。
自民党情報通信戦略調査会の川崎二郎会長は両者からの聴取後、「(政府には)テレビ局に対する停波(放送停止)の権限まである」と語っている。これこそズバリ脅しである。
さらに自民党はNHKと日本民間放送連盟でつくる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)について、政府が関与する仕組みの創設を含めて組織のあり方を検討する方針を固めた。
日本は欧米と異なり、放送事業そのものが総務相の免許制となっており、いわば放送の元栓は政府が握っている。だからこそ番組のチェックは放送局の自主規制によるBPOという形を採っている。
こうした動きは放送に対する圧力ではないと言っているが、免許制をちらつかせた放送への牽制であり介入であることは明らかだろう。

これとは別に、3月24日の衆院総務委員会で自民党の鬼木誠議員はNHKの放送内容について、否応なく国民から徴収さえた受信料をもとに、日本をおとしめる反日自虐番組が多々つくられていると批判し、「籾井会長にはNHK改革をがんばっていただきたいと期待している」と述べた。
また公私混同として問題となった籾井会長のハイヤー代問題については、「内部からの情報リークなのではないか。内部から足を引っ張られているように見受けられる」として、籾井の会長としての資質よりも「NHKのガバナンスやコンプライアンスの問題」だと指摘した。
こうした発言からも今の自民党のメディアに対する姿勢が窺われる。

4月1日の参院予算委員会で社民党の福島瑞穂議員が、政府の提出する安全保障関連法案を「戦争法案」と述べた事に対して自民党が修正を求めている。安倍晋三首相は同じ予算委で「レッテルを貼って議論を矮小化するのは断じて甘受できない」と反論し、自民党の岸宏一予算委員長も「不適切と認められるような言辞があった」と応じた。その後、自民党の理事が福島に発言の修正を求めた。
福島はこれを「議員の質問権を抑え込むもので、表現の自由に係わる」として拒否した。
福島の発言が一方的だのレッテル貼りだのとするなら、先の鬼木によるNHKの放送内容が反日自虐番組であるとか、会長のハイヤー代不正問題を社内リークにすり替えた発言も同様ではないか。

政府の提出した安全保障関連法案に対して野党議員から「戦争法案」だという発言は過去にもあったが、与党が修正を求めるような事はなかった。
例えば1999年の周辺事態法案の審議で共産党議員が「戦争法案」だと指摘したのに対し、当時の小渕恵三首相は「御党からいえば、戦争法案ということであると思うが」と答弁している。
つまりかつての自民党は相手側の意見の相違はそれとして受け容れてきていたのだ。
しかし現在の安倍政権では、自分たちの主張に沿わないものは拒否し、これを排除するという姿勢が顕著である。
我が国のの自由と民主主義が危うい。

2015/04/20

名作浪曲の歌い出し(外題付け)

戦後の娯楽といえばラジオだ。最初はNHKだけだったが1951年から民間放送が始まると、落語や漫才、浪曲(浪花節)などの大衆芸能が電波にのって家庭に流される。なかでも浪曲は今では想像もつかない程の人気で、子どもでも虎造の清水次郎長伝の一節ぐらいは唸ることが出来た。銭湯に行けばどこかのお兄さんやオジサンが湯船で浪曲を唸る声が聞こえていた、そんな時代だった。
当時、一世を風靡した名作の歌い出し(外題付け)を以下に紹介する。

2代目広沢虎造「清水次郎長伝~森の石松」
浪曲師として決して美声とはいえないし何より声が小さいという欠点がありながら、独特の「虎造節」と清水次郎長伝で大当たりした。浪曲といえば虎造であり、虎造を1ヶ月呼んで興行を打てばその興行師は家が一軒建つといわれた程の人気者。私もラジオの連続口演(「虎造アワー」)を熱心に聴いたものだ。

旅ゆけば駿河の国に茶の香り
名題なるかな東海道 
名所古蹟の多いとこ
なかに知られる羽衣の 
松とならんでその名を残す
街道一の親分は清水港の次郎長の
数多(あたま)身内のある中で 
四天王の一人で乱暴者といわれたる
遠州森の石松の苦心談のお粗末を 
悪声ながらもつとめましょう。

2代目玉川勝太郎「天保水滸伝」      
虎造と人気を二分した浪曲師で「玉勝」の愛称で知られていた。平手造酒(ひらてみき)というヒーローを生んだ名作。

利根の川風袂に入れて
月に棹さす高瀬舟
人目関の戸たたくは川の 
水にせかれる水鶏鳥(くいなどり)
恋の八月大利根月夜 
佐原囃子の音も冴え渡り
葭(よし)の葉末に露おく頃は 
飛ぶや螢のそこかしこ
潮来あやめの懐しさ
私しゃ九十九里荒浜育ち 
というて鰯の子ではない

寿々木米若「佐渡情話」
人情浪曲の代表作。美声でしたね。

佐渡へ佐渡へと草木もなびく
佐渡はいよいか住みよいか
歌で知られた佐渡が島
寄せては返す波の音
立つやかもめの群れ千鳥
浜の小岩にたたずむは
若き男女の語り合い 

浪花亭綾太郎「壷坂霊験記」
演者が盲人であり、盲人の話を語るので文字通り紅涙を絞る演題だった。ライブで観たことがあるが、曲師の奥さんに手を引かれて舞台に上がっていたのが印象的だった。

妻は夫をいたわりつ
夫は妻を慕いつつ
頃は六月なかのころ
夏とはいえど片田舎
木立の森のいと涼し
小田の早苗も青々と
蛙のなく声ここかしこ

三門博「唄入り観音経」
浪曲師というより演歌師に近いような発声だったが、ウットリするような美声だった。レコードが200万枚売れたというから当時としては驚異的な大ヒットだった。

遠くチラチラ灯りがゆれる 
あれは言問こちらを見れば 
たれを待乳(まつち)のもやい船 
月にひと声雁が鳴く 
秋の夜更けの吾妻橋

初代春日井梅鴬「赤城の子守唄」
野太い声で唸る独特の梅鴬節で絶大な人気を博していた。いまでも上方の芸人が浪花節の物真似をする時はこの「梅鴬節」が多く使われている。

満つれば欠くる月の影 
昨日の淵は今日の瀬と 
移り変わるも人の世の 
定めとあれば是非も無く 
飛ぶ鳥落とす勢いの 
国定忠治も情けなや 
今じゃ十手に追い込まれ 
明日をも知らぬその命

初代相模太郎「灰神楽三太郎」
この人もライブで観たが愛嬌のある人だった。コミカルな浪曲で、 昭和30年代の大人気ラジオ番組「浪曲天狗道場」の審判を務め「ちょいと待ったぁ」という掛け声でも有名であった。

毎度みなさまお馴染の
あの次郎長に子分はあるが
強いのばっかりそろっちゃいない
なかにゃとぼけた奴もある
ドジでマヌケでデタラメで
その上寝坊でおっちょこちょい
付けたあだ名が灰神楽とて
本当の名前が三太郎

2015/04/18

バスルームが2つあるツインルーム

京都観光ではいつもビジネスホテルを利用するのですが、ハイシーズンですと京都市内のホテルをとるのが難しく、今回のように大阪に宿泊することも珍しくありません。京都-大阪間はJR、京阪、阪急電車の3系統があり、洛東に行こうとすれば京阪を利用すると便利ですし、京都駅ならJRを、京都の繁華街である四条河原町に出るには阪急を使います。
4月の旅行では三井ガーデンホテル大阪淀屋橋に宿泊したのですが、このホテルで感心したのは「バスルームが2つあるツインルーム」があることでした。こういう部屋に泊まったのは国内、海外を通じて初めてです。
通常のツインルームではバスルームが1つしかなく、外から戻ってきて二人どちらが先に使うか譲り合うことになります。特に夏場だと汗をかいているので一刻も早くバスを使いたいという時に、相手が終わるまで待たされるというのは苦痛です。2つあればお互いに気兼ねなくバスルームを使用できるのでとても快適です。
もう一つ良いと思ったのは、通常のホテルではバスルームが部屋の隅にあるため、給水の音が隣の部屋に響くという欠点があります。深夜などでは結構気になるのですが、今回のケースだと2つのバスルームは部屋の中央にあり、給水の音が隣室に響くことがありません。
部屋は24㎡と狭いですが、ビジネスホテルに求められるのは経済性と利便さですからここは目をつぶるしかありません。
このホテルは1階にコンビニを併設していて、これも便利だと思いました。
なおツインルームにはいくつかタイプがあるようなので、予約の際に確認しておいた方が良いでしょう。

2015/04/17

京都の桜2015

4月12-14日、2泊3日で京都の観桜にでかけました。今年は3月末に気温が上がり4月に入って雨が続いたため桜の開花期間が短かったようです。京都でもこの時期、ソメイヨシノはとっくに散っていて、目当ては枝垂桜でした。こちらも代表的な醍醐寺(秀吉が最後に花見を催した所)の枝垂桜も既に葉桜になっていました。おまけに12日だけは天気がもってくれましたが、13-14日は終日雨、それも大雨に近い降りだったので桜見物もままならぬ事となりました。
それでもいくつかの寺社では満開の桜を観ることができましたので、写真を紹介します。なお傘をさしたまま片手で撮影したものばかりなので、写りが良く無いことを予めお断りしておきます。

12日は洛東に向かい、銀閣寺から哲学の道を経て南禅寺まで歩くコースをとりました。銀閣寺の桜は完全に散っていましたが、哲学の道の桜は多少残っていました。
<哲学の道>
Photo

南禅寺も私が見た限りでは、咲いていた桜はこの1本だけだったようです。
<南禅寺>
Photo_2

この後、円山公園と八坂神社に行きましたが、桜はほとんで残っていません。でも円山公園では大勢の人が花見の宴を楽しんでいました。
夕方は鴨川、高瀬川周辺や新京極通りを散歩し、高瀬川に面した居酒屋で夕食です。

13日は朝から雨。午前中は洛西へ向かい、嵐山から嵯峨野を散策。こちらも桜は散っていて、天龍寺にも立ち寄ったのですが既に葉桜になっていました。
次に向かったのは大覚寺です。京都には20回以上来ていますが、未だに訪れた事がない寺社が沢山あり、この大覚寺も初めてでした。元は嵯峨天皇の離宮だった所で、空海を祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の大本山であり、「いけばな嵯峨御流」の家元でもあります。宸殿や正寝殿など壮麗な伽藍を有する寺院で、五大堂からは庭湖である大沢池が一望できます。
宸殿の脇の枝垂桜が開花していました。
<大覚寺>
Photo_3

次は仁和寺で、樹高が低く白い花がつくので有名な「御室桜」の名所です。最盛期は過ぎていたようですが庭園一杯に咲き競う御室桜は壮観でした。この頃から雨脚が強くなりました。
<仁和寺>
Photo_4

石庭で知られる龍安寺では庭園に中央部付近の土塀の向こうに桜の木が1本植えられていて満開を迎えていました。石庭と桜の組み合わせはこの時期にしか見られない貴重なものです。
<龍安寺>
Photo_5

お馴染みの平安神宮ですが、今回神苑に初めて入場しました。苑内には多数の桜の木が植えられていて、外の喧騒とはまるで別世界。散り始めていた木が多かったのですが、最盛期の桜も何本か観られました。着物姿の女性が多かったのもこの神苑の特徴でした。
<平安神宮>
Photo_6
Photo_7

泊りは2泊とも大阪で、ミナミに出かけて夕食をと思っていましたが、妻が疲れて歩けないというので近くのコンビニでアルコールとツマミ、弁当を仕入れてホテルの室内でささやかな夕餉となりました。

14日も朝から雨で、午後からは土砂降りとなりました。
先ず洛北の上賀茂神社へ。鳥居をくぐって直ぐの所にある巨大な枝垂れ桜が満開でした。
<上賀茂神社>
Photo_8

東寺の庭園の桜も開花しているものが多く、最長の高さを誇る五重塔をバックに撮影。
<東寺>
Photo_9

次いで山科に向かい、これも初の勧修寺(かじゅううじ)へ。大半は散っていましたが、開花中の桜が1本だけありました。
<勧修寺>
Photo_10

最後の醍醐寺は楽しみにしていた入り口の大きな枝垂れ桜は完全に散っていて残念。
全体に桜の時期からは遅れていて満開の桜を観ることが出来なかったのと、天候に恵まれなかったのは不運でしたが、それでも春の京都を満喫してきました。
米国の旅行雑誌「トラベル+レジャー」が発表した2014年の世界の人気観光都市ランキングで、京都が初めて1位となったとのことです。当然の結果でしょう。京都を上回る観光地など世界のどこにも無いでしょうから。

2015/04/10

「正しい教室」(2015/4/9)

『正しい教室』
日時:2015年4月9日(木)14時
会場:PARCO劇場
作・演出:蓬莱竜太
< キャスト(小学生時代) >
井上芳雄/菊池真澄(委員長) 
鈴木砂羽/小西有紀(マドンナ) 
前田亜季/妹・蘭 
高橋努/不知火光(番長) 
岩瀬亮/坂田健太(がり勉) 
有川マコト/水本康明(アパッチ) 
小島聖/漆原恵子(恋する女子)
近藤正臣/寺井新一郎(担任の教師)

舞台はとある地方都市。今は教師となっている菊池真澄の呼びかけで小学校の同窓会を開く。事故で自分の子どもを亡くしてしまった小西有紀を励ますためだ。同窓生のうち6人が出席、小西は妹も連れてくる。
ところがその会に呼んでもいない担任の教師・寺井新一郎が現れる。生徒たち皆から嫌われていた教師の登場に凍りつく同窓生たち。追い返そうとすると何故か教師は招待状を持っていた。実は小西有紀が差し出したものだ。驚く同窓生たちに小西はこの場で教師に損害賠償を求めると言い出す。小6の時に教師から無理やりプールに突き落とされトラウマで水に入るのが怖くなってしまった。その事で自分の子供が池に落ちたのに助けられなかった。元の原因は教師にあるのだから損害賠償をしてくれと小西は要求する。戸惑う他の同窓生たち。
この事がきっかけとなって、小学生当時の生徒間、あるいは教師と生徒との間の様々な思い出が語られるが、各自の思いと実態との間に大きな隔たりのある事が次第に明らかになる。
彼らの葛藤を通して、正しい学校とは、良い教師とは、楽しいクラス仲間とは、真実とは・・・が問いかけられてゆく。

かつての生徒たちと教師が思い出を語り合うなかで当時の事実が明らかにされ、それぞれの思いと事実は全く異なることや、それが現在の各自の立場に微妙に影響を及ぼしているというストーリー。
エピソードが巧みに配置され、笑いあり、どんでん返しありで、上演時間2時間はあっという間に過ぎてゆく。楽しい芝居だ。
ただ、以前にどこかで見た様なという既視感が拭えない。例えば畑澤聖悟作『親の顔が見たい』と状況設定は異なるが、手法は通じるものがある気がする。タイトルは思い出せないが、ミステリーにもこういった手法の作品があったように思う。
私としてはその既視感が拭えなかった。
それと小学生当時いじめられっ子だった水本康明が、最後までいじめられたままで終わったは救いが無い。その点が後味が悪かったように思う。

出演者は主役の井上芳雄や鈴木砂羽を始めとして揃って好演。特にワルイ先生役の近藤正臣と、虐められキャラを演じた有川マコトの演技が印象に残った。

公演は4月19日まで。

2015/04/08

こまつ座「小林一茶」(2015/4/7)

こまつ座 第108回公演「小林一茶」
日時;2015年4月7日(火)18時30分
会場:紀伊國屋ホール

脚本:井上ひさし
演出:鵜山仁
<  キャスト()内は劇中劇の役  >
和田正人/見廻同心見習(小林一茶)
石井一孝/飯泥棒(竹里、ほか)
久保酎吉/自身番家主(油屋大川立砂)
荘田由紀/水茶屋の女(大川立砂の姪およね、ほか)
石田圭祐/自身番番人(夏目成美こと蔵前札差井筒屋、ほか)
小椋毅/からくり屋(岡っ引き、ほか)
川辺邦弘/膠屋(下っ引き、他)
一色洋平/風鈴そば屋(幇間、ほか)
小嶋尚樹/坊主(雲水)
松角洋平/船頭(左官)
大原康裕/貸本屋(行商人)
植田真介/旅籠菊屋番頭(句会の客)

俳人・小林一茶の名前や主な俳句は誰もが知る所だが、彼がどういう人物であったか、どんな人生を送ったのかを知る人は少ない。一茶は膨大な量の句日記(房事まで記す詳細な記録)と句文集を残していた。作者の井上ひさしはそれらを何度も読み返し、日割表を作成した。すると文化7年11月1日-11日にかけての記述に、当時一茶のパトロンであり江戸三大俳人でもあった夏目成美こと蔵前札差井筒屋八郎右衛門の寮で480両が盗まれるという大事件が発生したこと、この件でこの寮に寄宿し部屋を自由に出入りしていた一茶が犯人と疑われ禁足されて取り調べを受けたことが書かれていた。井上ひさしはこの事件に着目し、これが一茶の生涯に大きな影響を与えたものと確信し脚本を書いたとしている。
この事件を経てこそはじめて一茶は一茶になったのだと作者は確信する。―井上ひさし
従ってこの戯曲に登場する人物は全て実在し、扱った事件は史実だ。

しかし、これをそのまま芝居にしないのも井上戯曲である。
舞台は江戸の三大俳諧師の一人と称される夏目成美こと蔵前札差井筒屋八郎右衛門の寮から480両の大金が盗まれた事から始まる。 容疑者は食い詰め者の俳諧師、小林一茶だ。
蔵前札差会所見廻同心見習いの五十嵐俊介は、お吟味芝居を仕立て真相を探ることにした。自身が一茶を演じ、自身番や周囲の人たちを役者に仕立てながら、彼をよく知る元鳥越町の住人たちの証言をつなぎ合わせていく。
一茶は信州柏原の農家に生まれ、幼くして母を亡くし、継母に虐められ15歳の春に江戸へ奉公に出された。たまたま知り合った俳諧師を目指す竹里から油屋の店を紹介され、主人の姪・およねと恋仲になる。いずれ二人は夫婦となり店を持つことを約束されていたのだが、訪ねてきた竹里が葛飾派の二六庵を継ぐと聞いて血が騒ぎ、俳諧師の道を絶ちきれず一茶はおよねを棄て店を飛び出す。残されたおよねは竹里と一夜を交わす。
やがて一茶は俳諧師として頭角をあらわし、江戸の有力な遊俳(俳諧を趣味とする人、金持ちが多い)をパトロンとし、時には大阪や九州へと旅をしながら各地の遊俳たちと歌仙を巻いていくようになる。次第に一茶は業俳(俳句で生計を立てる人、プロ)を目指すようになる。しかし実態は、江戸の遊俳の食客といっても主の身の回りの世話や掃除など、書生と下男を兼ねたような扱いだった。
そして人生の大事な節目節目にライバルの竹里が一茶の前に現れ、往く手を妨げる。その一方で竹里は一茶の才能や人間性に魅かれてゆくが・・・。

結局、この盗難事件が契機となり一茶は江戸で業俳として成功する夢を捨て故郷の信州柏原に帰り、独特の句風を確立してゆく。

文章にするとややこしいのだが、井上芝居は例によって極まて分かりやすく、そして楽しい。溢れるばかりのエネルギー、言葉遊び、歌と踊りの音楽劇の要素も加わり上演3時間は飽きさせない。
江戸時代の俳諧師や俳句を趣味とする人たちの暮らしぶりが生き生きと描かれ、たった7日間の出来事を追うストーリーの中で私たちは小林一茶の生涯を連想することができる。

主役の和田正人の演技は、私たちが持っていた一茶像を一挙に壊してしまう程のインパクトがあった。彼の姿を見ていると、様々な芸術や芸能分野を目指す現代の若者の姿が二重写しになる。
ライバルの竹里役の石井一孝も好演だった。一茶をライバル視しながら才能の壁にぶち当たりもがく男を見事に表現していた。敵視しながらシンパシーを感じて行く過程も納得のいく演技だった。陰の主役である。
紅一点の荘田由紀の演技も見逃せない。本人によれば色気が無いのが欠点とのことだが、どうしてどうして演じた4人の女は十分色ぽく、そして愛らしい。特におよね役で複雑に揺れる女心が巧みに表現されていた。
他の出演者も揃って好演で、さすがこまつ座と思わせるものがあった。ただこの劇団の芝居には珍しくいくつかセリフのミスがあったのが残念。

公演は4月29日まで。

2015/04/07

どうしちゃったの?落語協会

落語協会のホームページが3月末から閲覧できなくなって、はや1週間が経つ。
「最新情報一覧」の中ではこの件について協会より下記の告示が行われている。

2015年03月31日
ホームページリニューアルのお知らせ
いつも落語協会ホームページをご利用いただきありがとうございます。
2015年4月1日よりホームページを全面リニューアルいたします。
リニューアルに伴い、URLが一時的にhttp://www.rakugo-kyokai.jp/ へ変更されますので、ブックマークなどされておりますお客様は、お手数ですが変更をお願いいたします。
なお、リニューアル作業は順次実施いたしますので、当面の間は閲覧できる情報が少なく、お客様にはご不便、ご迷惑をお掛けすることを深くお詫び申し上げます。
よりわかりやすく情報提供が行えるようホームページのリニューアルを行いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
平成27年3月27日
一般社団法人 落語協会

一般に法人がHPをリニューアルする場合、理由は次の様になろう。
1.法人組織が大きく変った(合併、分割など)
2.HPにセキュリティ上のトラブルが発生した
3.内容をより充実させるため
4.利用者がより見やすくするため
今回の協会からのお知らせでは、目的は「よりわかりやすく情報提供が行えるよう」としているので上記の3.か4.に該当するものと推察される。であるなら、今回のリニューアルはさほど緊急性は無かったと思われる。
本件については協会員などの関係者からいくつかの情報が発信されているようだが、協会からの公式見解でない以上、利用者としては判断しようがない。

いちばん疑問に思うのは、リニューアルの具体化がないままに、なぜ現在のHPを続けなかったのだろうか。仮にそのまま継続することに不都合が生じたのなら、その該当項目だけを削除すれば済むことだ。
全面改装なら一斉にやるべきだし、協会の告示に「リニューアル作業は順次実施いたします」とあるなら全体はそのままにして、文字通り一項目ずつ順次リニューアルすれば良い。
なぜこの時期なのかという疑問もある。春は新真打披露や新しい二ツ目の昇進興行が行われる時期だ。リニューアルを行うにしても敢えてこの時期を選らんだ理由が分からぬ。

今回の件で指摘したいのは、1週間以上にわたりHPが閲覧できないという事態を落語協会がどう思っているのだろうかという点だ。異常とは思わないのだろうか。利用者が不便な思いをしている事になにも痛痒を感じないのだろうか。もしそうだとしたら、この法人組織に大きな欠陥があると言わざるを得ない。

2015/04/05

#3四季の萬会(2015/4/4)

第三回「四季の萬会」~三遊亭萬橘定期独演会~
日時:2015年4月4日(土)14時
会場:浅草見番

前座・三遊亭楽しい『十徳』
<  番組  >
前座・瀧川鯉〇『かぼちゃ屋』
三遊亭萬橘『長短』
ゲスト:五街道雲助『代書屋』
~仲入り~
三遊亭萬橘『佐々木政談』

維新の党がついに上西小百合を除籍処分にした。地方選への影響を考慮したんだろうが、例によって橋下徹のパフォーマンスが鼻につく。政治への知識も経験もない人間を国会議員に立候補させた「任命責任」はどうなってるのか。まあ、選んだ方も選んだ方ではあるが。
東京は3月末に桜が開花し、ここの処の風雨で散り始めてしまった。観音様は縁日だったのか仁王門近くに沢山の露店が並んでいて、本堂の裏では平成中村座の興行が行われていた。そのせいか人出が多く仲見世は歩くのもひと苦労。
浅草見番での萬橘の「四季の萬会」は今回で3回目を迎える。萬橘は今年の花形演芸大賞・金賞を受賞した。因みに平成26年度「花形演芸大賞」の受賞者は下記のとおり。
【大賞】
ポカスカジャン
【金賞】
三遊亭歌奴
三遊亭萬橘
U字工事
【銀賞】
笑福亭たま
柳家小せん
古今亭志ん陽
立川志ら乃
桂宮治

落語以外の大賞受賞は久々で、「ボーイズ」からは初だと思う。受賞者に東京落語の四派が揃ったのも初めてではなかろうか。

前座の楽しい『十徳』、圓楽の7番目の弟子だそうで初見。急に言われたとの事だが、よくまとまっていた。スジは良さそうだ。
前座の鯉〇『かぼちゃ屋』、何故かこの人とはよく当たる。二ツ目を目前に控えた高座は、それなり。

萬橘『長短』、マクラで町場の話題を。男同士の会話で片方が「むち打ち刑」について話したら、もう片方が「なに、後から思いっきりぶつけるの?」と受けたというのが面白かった。
ネタに入って、いきなり短七が長さんに近所で生まれる赤ん坊が男か女か訊くという変わった入り方だ。長さんの夜中のしょんべんの話はカット、短七が長さんに勧めるのは菓子ではなくソバだ。長さんがソバを1本1本食べるので短七がイライラする。通常は長さんが煙草の火を点けられないのを見て短七が煙草の吸い方を指南するのだが、萬橘の演じ方では最初から短七は忙しそうに煙草を吸う。この方が二人の性格の対比がクッキリすると見たのだろう。『長短』の新たな演じ方は興味深い。

雲助『代書屋』、チラシにはゲストとあるが、雲助によればゲストは客という意味なのでアタシは客ではないからゲストはおかしい。「すけ(助演)」という立場でと断りを入れてネタに。雲助の『代書屋』は初見。このネタ(上方では『代書』)は上方の方が面白く、2代目小南、当代春団治、2代目枝雀が絶品。やはり関西弁でないと面白さが伝わらないのか。東京では権太楼がベスト。この物語の時代は明らかに戦前だが、演者の中には地名に戦後のものを使っているケースがある。雲助の高座では戦前の地名を使用し、男の名前も戦前に人気のあった坂東妻三郎としていた。この方がリアルだが、今のお客には馴染みがないので面白さが分かるまい。雲助の高座は水準は行ってるのだが、代書屋の困惑ぶりが今ひとつだった。「すけ」という事で抑えたのかも知れないが。

萬橘『佐々木政談』、通常は「政談」というと裁判を指すのだが、このネタはお裁き物ではなく、子供の頓智話だ。挿話も『一休さん』などでもお馴染みの話が出てくる。他愛ないネタだが、3代目金馬(タイトルは『池田大助』)、6代目圓生や志ん朝といった大御所が得意としていたのは、主人公の少年の造形が難しいからだろう。無邪気さと小賢しさが同居している子どもだからね。
萬橘の高座では、先ず初めに南町奉行に就任した佐々木信濃守が、配下の与力たちが賂を受けているという噂を聞き、事実を確かめるためにお忍びで江戸の町内を見回りしていたという設定にしている。これが後の白洲の場面で奉行が四郎吉に対し「与力の心」を訊ねると、四郎吉が「金のある方へころぶ」と答える伏線になっている。ここで佐々木信濃守は四郎吉を近習に取りたてる事を決めたのだろう。頓智問答をしている時に奉行が「うーん、勝ちたい」とか「又しても1本取られたか」と呟くのも新しい演じ方だ。
萬橘は、四郎吉の小生意気だが可愛い少年という姿を描いて好演。

独演会なので3席は演じて欲しかった。物足りなさが残ったのはその為だろう。

2015/04/03

落語の中のワタシ「堀の内」編

落語を聴いていると、オレにもそういう憶えがあるとか、知人に周囲にそういうのがいるよなと思えることがしばしばある。
今回とりあげるテーマは「粗忽」だ。何を隠そう、このワタシ大変な粗忽者で、今までに大小さまざまな失敗をしている。その中の一つをここでカミングアウトする。

「粗忽」という言葉は日常あまり使われないが、辞書によると意味は次の通り。
① 軽はずみなこと。注意や思慮がゆきとどかないこと。また,そのさま。
② 不注意なために起こったあやまち。そそう。
③ 失礼。無礼。
落語の中で「粗忽」あるいは「粗忽者」を扱ったネタは多く、思い浮かぶだけでも『粗忽長屋』『粗忽の釘』『粗忽の使者』などがあるが、代表的作品に『堀の内』があげられる。数多くの演者が高座にかけているが、やはり第一人者といえば4代目三遊亭圓遊だ。以後の演者は全て圓遊の演出をベースにしている。
圓遊のこの噺のマクラには、そそっかしい男が女湯に入って周囲の女からジロジロ見られ「なんだ、女のくせに男湯に入ってやがって」、というがある。
実は、ワタシはこれと全く同じ間違いをしたことがあるのだ。

温泉の大浴場でのこと。ワタシはド近眼なので通常は眼鏡をかけているのだが、風呂の脱衣所に眼鏡を忘れて帰ってくることがあり(特に呑んだ後は)、この時は眼鏡をかけずに浴場に向かっていた。浴場に並んでトイレがあり、男子用のマークの標識が廊下側に付き出ていた。その隣が女湯だったのだが、ワタシはその男子用の標識が頭にあってそのまま女湯に入ってしまった。もちろん入り口には女湯と書かれたノレンが下がっていたので注意すれば分かる筈だが、思い込みというのは怖ろしい。
なかに入るとたまたま脱衣所に誰もおらず、なんの疑問もなく服を脱ぎ始めた。ちょうどそこへ女性が数人入ってきてワタシを見ると、「あ、すみません」と出ていった。直ぐに戻ってきて、「あのー、ここは女湯なんですけど」と言うのだ。ここに至ってワタシは初めて間違いに気づき、「ごめんなさい」を何度も繰り返しながら服を着て出てきた。
あの時もし脱衣所で女性が着替えをしていたら、もしそのまま気付かずに湯船に入って行ったら、これはウッカリでは済まず下手すりゃ犯罪になりかねなかった。
今でも、あの時のことを思い出すと冷や汗が出て来る。
だから圓遊の『堀の内』のマクラを聴くたびに、笑いより苦い思い出が蘇る。

2015/04/01

2015年3月アクセスランキング

当ブログの3月のアクセス数TOP10は以下の通りだった。
1 鈴本「真打昇進披露興行」(2015/3/24)
2 桂米朝の死去を悼む
3「談志30歳」を聴く
4 #17らくご古金亭(2015/3/21)
5【ツアーな人々】当世海外買春事情
6【ツアーな人々】消えた添乗員
7 雲助蔵出し(2015/3/6)
8「何代」か、「何代目」か
9 #43白酒ひとり(2015/3/9)
10 日本演芸若手研精会#422弥生公演(2015/3/11)

10本中8本が落語関連で、米朝の追悼記事、談志30歳のCDに関する記事が上位にランクされた。やはりビッグネームの強みか。鈴本演芸場での「真打昇進披露興行」がトップになったはこの季節ならではだ。
5,6位の観光関連の2本は相変わらずで、なぜこの記事が長期にわたり読まれているのか管理者として理解できないのだが。以前、理由が不明のままアクセスがやたら集中した記事があって、気持ち悪いので削除したことがある。手応えがないのも寂しいが、こんな記事がなぜ?というのも困惑させられる。
ランク外にはなったが、歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』(2015/3/4夜の部)と、演劇の『死と乙女』(2015/3/20)の劇評に予想を超えるアクセスがあったのは喜ばしい。

ブログも10年を超えたので、これからは小休止を取りながらユックリ進もうかと思っている。

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