「マッカーサーへの50万通の手紙」(書評『熱風の日本史』3回目)
井上亮(著)『熱風の日本史』(日本経済新聞社刊 2014/11/20初版)
1944年12月に作られた「比島決戦の歌」(作詞:西條八十 作曲:古関裕而)に、こういう一節がある。
♪いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし♪
詞を書いた西條八十が戦後、戦犯になるんじゃないかと恐れていたというエピソードが残されているが、真偽のほどは分からない。
歌詞に出て来るニミッツとマッカーサーの略歴は以下の通り。
チェスター・ウィリアム・ニミッツ(1885年2月24日-1966年2月20日)は、アメリカ海軍元帥。第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官および連合国軍の中部太平洋方面の最高司令官だった。
ダグラス・マッカーサー(1880年1月26日-1964年4月5日)は、アメリカ陸軍元帥。大戦中は南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官だった。
そうして「いざ来いニミッツ、マッカーサー」と歌った8か月後に日本は敗戦をむかえ、9か月後にはそのマッカーサーが連合国軍最高司令官として日本に降り立つ。「いざ来い」と言ったら本当に来てしまったわけだ、それも勝者として。当時の日本には未だ30万人の武装した日本軍がいたにも拘らず、彼は丸腰であった。前代未聞の光景だったが、これこそがマッカーサーのスタイルだった。
マッカーサーは離任する1951年まで常に尊大な態度を崩さなかった。彼にとっては日本などの東洋人は「勝者へのへつらい」に成りがちであり、尊大な態度の方がかえって感銘を与えると信じていた。
その一方で彼は寛大な態度も示していた。1945年9月2日に行われた降伏文書調印式で(本来はこの日が正式な終戦記念日となる。これ以前は一部の地域では未だ散発的な戦闘が行われていた。)、マッカーサーは「自由、寛容、正義」の実現こそが自分の希望であり、人類の希望であると演説した。
それまで戦争に負ければ「男は皆殺し、女は奴隷に売られる」と吹き込まれた日本人は、占領軍の寛大さに驚いた。
今の人には信じられないかも知れないが、当時のマッカーサーは絶対的な存在だった。なにせ「天皇より偉いマッカーサー」だったのだ。日常会話でも「マッカーサー将軍の命により」なんてフレーズが使われていた程だ。
そうして我が国の一連の民主化政策-婦人参政権、労働組合法の成立(労働者の団結権の保障)、農地改革(小作人制度の廃止)など-を進めてゆく。これらの改革は以前から日本人が求めていたことでもあり、大半の国民はこれを歓迎した。ただマッカーサー自身は反共の闘志で、こうした民主化政策はアメリカ本国政府の意向によるものであった。
日本人の「勝者へのへつらい」は留まるところを知らず、「アメリカに併合されて第49州となる方が本当の幸福」(久米正雄)、「この様な人物を、日本管理の最高司令官として、日本に迎えたことは、日本の将来にとってどんなに幸福な事であろうか」(山崎一芳)、「マッカーサーげんすいに おれいの はなたば あげましょう」(子ども向け絵本)といった礼賛の言葉が溢れていた。
そして日本占領の最も特異な現象として起きたのは、占領直後から始まった日本国民からのマッカーサーへの手紙だ。その数は約50万通に達したといわれる。
手紙は全て翻訳通訳部隊により読まれ、重要なものは英訳され、マッカーサーの元に回された。このうち約3500通が米国のマッカーサー記念館に収められている。
その内容は次のようなものだ。
「謹デ、マッカーサー元帥ノ万歳ヲ三唱」
「日本を米国の属国に」(註:これは実現している)
「哀れなる日本を根本から救って下さい」
「天皇陛下をさいばんしてはいけません」
「マッカーサー夫人の家政婦にしてほしい」
「米軍は半永久的に駐留してほしい」(註:これも実現しつつある)
この他に「元帥の子どもを生みたい」という女性からの手紙が多数有ったそうだ。もっともマッカーサー側にも選ぶ権利はあるから、望み通りにはいかなかっただろう。
マッカーサーは在任中、一日も休まず勤務したが、時間の大半はこれらの手紙を読むことに割いたようだ。占領政策に活かす意味もあったろうが、何より自身の虚栄心を満足させた。
占領された側の国民が征服者にこれほどの大量の手紙(ファンレターと呼んだ方が的確か)を送ったという例は他になかったようで、ジョン・ダワーの名著「敗北を抱きしめて」でもこの問題をとり上げている。こうした「勝者へのへつらい」は日本人の一面を示しているのかも知れない。
しかし、日本人とマッカーサーとの蜜月は、彼の「日本人は12歳」発言によってあっけなく終わる。
1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員 R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。
マッカーサーは次のように回答した。
1.科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
2.しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ12歳の少年である。
3.ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
4.ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。
この発言は私も憶えていて、特に父親がえらく怒っていたのを思い出す。
5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本におけるマッカーサー熱は一気に冷めた。
それまでに計画されていた自由の女神と同じ高さの「マッカーサーの銅像」建立とか、「マッカーサー記念館」の建設なども全て中断となった。
今では米軍厚木基地内に「マッカーサーの銅像」が、和歌山県内の泉福寺に「マッカーサー元帥顕彰之碑」が残されている程度のようだ。
井上亮(著)『熱風の日本史』について3回にわたり書評というより内容紹介を行ってきた。紹介したものは本書のごく一部で、明治の開国から今日にいたる様々な事項が採りあげられており短い文章でまとめられている。
どこの国であれ必ず負の歴史をおっており、失敗の歴史からこそ有益な教訓を私たちは学ぶことが出来る事を忘れてはなるまい。
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コメント
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肉体的には年を取ったけれど精神年齢は変わらないかもしれない。
投稿: 佐平次 | 2015/05/06 10:39
佐平次様
マッカーサーは随分と上から目線な言い方ですが、彼が日本に在任中の期間と現在の日本人の精神年齢を比べると、さほど変わっていないかも知れません。アングロサクソン側は退化してるかも。
投稿: ほめ・く | 2015/05/06 11:36