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2015/05/31

お知らせ

都合でしばらく休載します。
再開は6月末頃を予定しています。
この間、コメントの公開やレスが遅れることがありますがご了承下さい。

2015年5月記事別アクセスランキング

ここの所、日々大きな噴火や地震が続いていて、日本列島の地下の奥深くで何かが起きつつあるのかと不安な気持ちにさせられる。こっちの方の「安全保障」は大丈夫なのか、原発再稼働に突き進む政府に訊きたいくらいだ。

当ブログの5月の記事別アクセスTOP10は以下の通り。
1 鈴本演芸場5月上席夜の部初日(2015/5/1)
2 大日本橋亭落語祭・初日(2015/5/3)
3 良くも悪くも立川談志「書評『ひとりブタ』」
4 【ツアーな人々】消えた添乗員
5 「扇辰・白酒 二人会」(2015/5/21)
6 「遊雀・白酒ふたり会」(2015/5/11)
7 大阪都構想は「否決」
8 【ツアーな人々】当世海外買春事情
9 客をナメチャいけません-「六代目柳家小さん襲名披露公演」@国立演芸場
10 「雀々・生志・兼好 密会」(2015/5/6)

1,2,5,6,9,10位は寄席か落語会の観芸記。1位の記事は寄席の内容そのものより、落語協会のHPへの対応を批判した点が注目を集めたようだ。未だに改善の兆校が見られないんだから、頑固なのか鈍感なのか。
3位は書評だが、やはり談志に関する記事はアクセスが多い。
7位は投票結果だけ軽く書いたものだが、タイミングのせいか予想以上のアクセスがあった。
6位は今から9年前に書いた記事だがコンスタントにアクセスが集まっている。当代小さんの襲名披露興行についての感想だが、とても低調な印象だった。これは決して小さん一人の責任ではなく、大名跡の襲名にも拘らず柳家一門の他の噺家が冷たいと思ったのだ。しかし「6代目小さん」というキーワードで検索すると
この記事に辿りつくことがあるようで、ネットで書いた情報の恐さを感じてしまう。
4,8位は相変わらずの定番。

アクセスが集まるのは喜ばしいことだが、自分の思いに沿わない記事に人気が集まるのは嬉しくない。あまり極端なケースでは記事そのものを削除したことがあるが、利用者のことを考えれば適切な方法ではなかろう。迷うところだ。

2015/05/30

チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ(2015/5/28)

「ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ~生誕175年記念チャイコフスキー・プログラム~」
ヴァイオリン:ワディム・レーピン
日時:2015年5月28日(木)19:00
会場:サントリーホール大ホール
<    曲目   >
チャイコフスキー
: イタリア奇想曲 op.45
: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
: 交響曲第4番 ヘ短調 op.36
【アンコール曲】
パガニーニ:ヴェニスの謝肉祭(ヴァイオリン・アンコール)
チャイコフスキー:組曲『白鳥の湖』から「スペインの踊り」
スヴィリードフ:『吹雪』から「ワルツ・エコー」
ハチャトゥリヤン:『ガイーヌ』から「レズギンカ」

ロシアを代表する交響楽団の一つである「チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」(旧「モスクワ放送交響楽団」)は今年創立85周年を迎えた。チャイコフスキー生誕175周年の記念しての2015日本ツアー公演が行われていて、その5月28日の演奏会に行く。
私の様な人間がクラシック演奏会に行く際には、やはり知ってる曲が入っていると選びやすい。今回はお馴染みのチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」が含まれていた。「交響曲第4番」は未聴だったので事前にCDを購入し聴いておいた。
サントリーホールも地下鉄の溜池山王駅が出来てからグッと便利になった。このホールは音響が良いのと舞台の周囲をグルリと客席が囲む構造になっているので見やすい。音楽は聴くものだが、ライブに行く以上は舞台が見えづらいのは困る。
開演前に並んでいると後ろの男性客が指揮者のウラディーミル・フェドセーエフの事を話題にしていた。片方の人はもう何度となく聴きに来ているそうで、「この人、もう83歳でしょう。僕は音楽性の事はよくわからないだけど、この人を見てると励まされるんだよね」と語っていた。恐らくは指揮者と同年配の方と思われが、なるほと、こういう楽しみ方もあるんだなと感心してしまった。
席が舞台の裏ってだったが最前列。演奏家の頭の高さに客席があるので臨場感タップリ。正面に指揮者がいるので表情がよく分かるし、演奏者の人たちの動きも見える。TVでクラシックコンサートの映像が放映される事があるが、あれを目の前で見ている感じだ。もしかするとここが特等席ではないかと思ってしまう程だった。
そのせいか、演奏はいずれも素晴らしく感じた。
「イタリア綺想曲」はチャイコフスキーがローマに滞在していた時の作曲で、いかにも南国イタリアらしい明るいメロディに溢れている。
「ヴァイオリン協奏曲」は色々な演奏家のCDを何度も聴いていたが、やはりライヴの比ではない。聴いていて体が震えるような感動をおぼえた。この曲の初演の時はこき下ろされたとあるが、今では信じられない。
「交響曲第4番」は上の曲と同時期に書かれたもので、チャイコフスキーが短い結婚生活が破たんし自殺を企てるまで追い詰められていた時期に書かれたものだ。第1楽章冒頭のファンファーレ、第2楽章の悲しいオーボエの音、第3楽章の弦楽器によるピチカート、そして第4楽章の明るい未来に向かうような賑やかなフィナーレと、いずれも印象的だった。
4曲のアンコールを含めて2時間半近い演奏だったが、聴きごたえ充分だった。

2015/05/29

「ワンマン」と「バカヤロー解散」

いま「ワンマン」を辞書で引けばこうある。
ワンマン【one-man】
①〔日本語の独自用法で〕独断で組織などを動かす人。「 -首相」「 -社長」
②他の語の上に付いて,「ひとりの」の意を表す。
(大辞林 第三版の解説)
私が子どもの頃に「ワンマン」といえばイコール吉田茂元首相のことだった。内閣総理大臣として1946年5月22日〜1947年5月24日、および1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。終戦後からサンフランシスコ講和条約と日米安保条約(旧安保)に至る時期に首相を務めたわけで、文字通り「戦後レジーム」を体現した人物といえる。その風貌と性格から「ワンマン」の綽名で呼ばれていた。
自邸が大磯にあって、そこから国会に通う際に開かずの踏切といわれる戸塚駅前の大踏切を通らねばならなかった。そこでこれを避けるバイパス道路を作らせたので、世間ではこれを「ワンマン道路」と呼んでいた。
「ワンマンバス」が運行し始めたころに、「吉田さんがバス会社を始めたのか?」と勘違いした人がいたといわれたくらい、当時は吉田「ワンマン」が人口に膾炙していたわけだ。

吉田茂といえばもう一つ忘れられないのが「バカヤロー解散」だ。
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。
当時の議事録を見ると、別にバカヤローと怒鳴ったわけではない。西村がネチネチとした質問を繰り返したので苛立ち「バカヤロウ」と呟いたものらしい。
その時のヤリトリの一部だが、
吉田「ばかやろう……」(自席に戻る際ボソッと呟くように吐き捨てる)
西村「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
吉田「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」
西村「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追究しません。(以下略)」
と、ここでは謝罪を認め収まったかに見えた。
しかし後日これが蒸し返されて内閣不信任決議案が提出され、与党の一部から賛成者が出たため不信任案が可決。これを受けて吉田は衆議院を解散し、衆議院議員総選挙が行われることになった。
政治家は言葉で生きていく職業である。
不用意な一言もそれが首相が発したとなれば、宰相のクビが飛ぶこともあるのだ。

安倍晋三首相は5月28日、安全保障関連法案審議が行われている衆院平和安全法制特別委員会で、質問していた民主党の辻元清美議員に、自席から「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。審議は紛糾し、民主党が抗議したため、首相が陳謝した。前日には野党からのヤジをたしなめたというのにこのザマだ。
安倍晋三首相は23日の衆院予算委員会で、民主党議員に「日教組(日本教職員組合)は補助金をもらっている」とヤジを飛ばした「前科」がある。この時も「補助金(をもらっている)ということは私の誤解だった」と陳謝して収束させている。
民主党は二度にわたり舐められたのだから、もっと怒って不信任決議を出すような構えが要るのではないか。
「バカヤロー解散」の事を思い出して、そう感じた。

2015/05/28

メキシコの現状に見る「日本農業の未来」

Tpp
↑のポスター、2012年12月に行われた衆院選の自民党のポスターだ。この選挙で政権党の民主党が大敗し自民党が政権に返り咲き、第2次安倍内閣が発足した。しかし政権与党になった途端、このポスターに書かれた公約は投げ出し、TPP交渉を開始する。スローガンの「ウソつかない」は真っ赤なウソだった。
自民党は嘘つきであることを私たち選挙民は肝に銘じておかねばなるまい。
安倍首相はTPP妥結による農産物自由化を先取りするように、地域農協の創意工夫で国際競争力を高めることを力説している。そのために農協「改革」に乗り出し、抵抗する全中の萬歳会長のクビを手土産に訪米したのは記憶に新しいところだ。

自由化後の日本の農業がどうなるかを考える意味では、1994年に締結された北米自由貿易協定(NAFTA
)により農業が壊滅的な打撃を受けたメキシコが参考になるだろう。
アメリカ-メキシコ間で関税が撤廃されれば、当初は賃金の安いメキシコから農産物が米国に輸出されると見込んでいた。
ところがNAFTA発効後10年でどうなったを比較すると、米国からメキシコへの輸出は、
牛肉:280%
豚肉:700%
鶏肉:360%
トウモロコシ:410%
コメ:610%
それぞれ大幅に増加してしまった。
とりわけトルティーヤの原料となるトウモロコシはメキシコの国民食とも言えるのだが、米国の遺伝子組み換え作物(GMO)トウモロコシの押され、メキシコの消費量の3分の1が米国産になってしまった。コメに至っては4分の3が米国産だ。
あまり知られていないが米国政府は農業に多額の補助金を支出していて、メキシコの生産価格より安価で輸出できるのだ。
壊滅的と思える打撃を受けたメキシコ農業は、食生活の上でも大きな変化をもたらしている。自給自足農家が土地を追われ貧困層が増大すると、高脂肪高カロリーのファストフードが蔓延し、国内には米国のファストフードチェーンが増大した。メキシコが今や世界一の肥満国家になった要因ともされている。
メキシコの農業団体は再三にわたり政府に対し、米国と再交渉をしてくれと依頼しているが実現されずにいる。

メキシコ農業の破壊はこれにとどまらない。
米国のモンサント、デュポン、ダウケミカルのGMO大手3社が、メキシコ国内で2万5千k㎡の農地へGMO直接栽培を申請した。これはルワンダ一国に匹敵する面積だ。さすがにこの件は農業団体や環境保護団体からの訴えで地裁で差し止め判決が出されたが、もはや時間の問題という悲観的な見方もある。
メキシコ同様、中小零細の多い日本農業にとって将来を暗示するものと考えねばならない。
なにかといえば「改革の抵抗勢力」と決めつけ排除するどこやらの政権こそ、亡国の徒と言わざるを得ない。

2015/05/26

【街角で出会った美女】エジプト編(2)

古いアルバムを整理していたら15年前のエジプト旅行の写真が出てきました。
憶えていますか?ミレニアム騒動を。西暦が1999年から2000年に切り替わる際に全世界でコンピューターに不具合が発生する可能性があると騒がれた時です。 気の早い人は飲料水を買い込んだり、保存食をストックしたりしていました。各企業もIT担当者は年末から年始にかけて泊まり込みをしてましたっけ。特にコンピューター制御で飛行している飛行機は危険ということで、航空機を使う旅行は避けるという風潮がありました。
これは旅行には願ってもないチャンスだと思い、1999年12月25日~2000年1月1日の7泊8日のエジプトツアーに申し込みました。幸いツアーは催行となり、予定通りのスケジュールで観光をしてきました。
とにかく良かったのは、どこも空いていることです。往きの飛行機はジャンボ機なのに乗客は40名ほど、帰りはもっと空いていて私たちツアー一行の20名だけでした。だからエコノミーなのに全員が横になって寝られラクチンラクチン。
観光地はどこもガラガラ、外国の人もこの時期の旅行は避けたのでしょう。お蔭でユックリと見られ、あんな快適な旅行はなかった。
帰りは乗降客がいないから途中の寄港地を飛ばしてきたので、予定時間より数時間早く成田空港に到着しました。
バンコック付近の上空でパイロットが機内放送で、「日本の皆さま、ただいま日本時間で2000年1月1日午前0時をむかえました」と告げられると、客室乗務員がいっせいに飛び出してきて「おめでとうございます」の挨拶。私たちが用意していたアルコールで一緒に乾杯しました。
ミレニアムに成田空港に到着した一番機ということでTVクルーの取材があり、とても思い出深い旅行になりました。

写真は1999年12月31日に撮影した現地でのベリーダンスの模様です。ただこの日はラマダン中で、ダンサーはオヘソが出せないということで男性客はちょっとガッカリ。でも美しい踊り子の妖艶なダンスにウットリ。
赤いライトが当たっていて見づらいかも知れませんが、雰囲気は伝わると思います。

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2015/05/25

「健康食品」は健康に悪い

近ごろTVをつけると健康食品とサプリメントのCMだらけだ。もし人間が日常の食事だけで健康を保てないとすれば、人類はとっくに滅亡している。
いま70歳を超えるお年寄りは多いが、ほとんどの人は子ども時代を食うや食わずの生活を送っていた。都会の人は米も食えず、地方の人は米だけという暮しだった。それでも皆長生きしている。
私は健康食品やサプリメントといった類のものを使った事がない。
理由は簡単で、一つは人間に必要な栄養素は普段の食材に含まれているので、とくに外部から摂取する必要がないからだ。
もう一つは、どんな成分でも取り過ぎれば毒になるからだ。例えば人間が生きるためには必須の塩と水を考えてみよう。ある量を摂取すると人間が死に至るのを「致死量」と呼ぶが、塩の致死量は200g程度、水の場合は20-30リットル程度(いずれも資料によって数値は異なるが)とされ、個人の条件によってはこれより少ない量でも死亡することがある。
これはどの食品でも言えることで、身体に良いといっても特定の成分を取り過ぎるのは避けるべきなのだ。

今から20年以上前になるが、かつて現役時代に在籍していた会社が(よせばいいのに)一時期「健康食品」の開発を手掛けたことがあった。晴海にあった東京国際見本市会場での健康食品展に出品しPRしたこともある。
私も数か月、開発のお手伝いをしたのでこの業界を多少は垣間見ることができた。極論をいえば、半分は詐欺みたいなものだった。根拠のない効能をうたい、効果を誇大宣伝していたのだ。そうして安い商品をベラボウに高く売りつける。
しばらくして会社はこの開発から撤退したが、正解だったと思う
現在は事情が違っているかも知れないが、相変わらずCMでは「私がこれを飲んだら(食べたら)、こんな効果がありました」などという体験談が紹介されている。事実かも知れないが、それはあくまでその人一個人の体験に過ぎず、決して普遍的なものとはいえない。
以前にも書いたことだが、50年間苦しんできた慢性喘息が50歳の頃に突然治ってしまった。何もせずにだ。もしあの時に「00健康法」をしていたら、きっとその効果だと信じていたろう。何かの宗教を信仰していたら、そのご利益だと思っただろう。だから個人体験談などというのはアテにならないのだ。

それでも効果があると信じて飲んだり食べたりしている分には問題はないが、2013年に国民生活センターに寄せられた健康食品に関する苦情相談は約6万4千件にのぼっている。こうなると本人が良けりゃいいんじゃないのと看過できない。
安倍政権はサプリメントなど一般食品の「機能性表示」の解禁を決め、この制度は4月1日から実施されている。「機能性表示により国民に安心感を与えて、医療費が削減できる」などを謳い文句にしているようだが、健康被害などの負の側面が拡がることは全く考慮されていない。
どうやらサプリメント大国であるアメリカに配慮し、米国の「栄養補助食品健康教育法」を手本にして作った制度のようだ。今後、海外から多数のサプリメントが流入してくることが予想される。
こうした動きに騙されぬ賢い消費者になることが求められよう。

2015/05/23

「戦後レジーム」を語る資格があるのか

先日の党首討論で、共産党の志位委員長の質問に対し安倍首相がポツダム宣言の内容についてまだ詳らかに読んでいないという発言したことが話題となっている。戦後レジームからの脱却を唱えている安倍首相が、戦後レジームの原点とも言うべきポツダム宣言もきちんと読んでいなかったのかという疑惑が持たれている。当日のヤリトリをビデオで見る限りでは、読んでいないか或いは読んでいても頭に入っていないのか、そのいずれかなという印象を持った。

安倍首相は再三「戦後レジームからの脱却」を主張している。その戦後レジームとは何かだが、一般に第二次世界大戦後の世界の枠組みを決めたヤルタ・ポツダム体制(YP体制)と考えられているようだ。具体的には「ヤルタ会談」と「ポツダム宣言(会談)」を指すのだろうが、これだけでは不十分だ。
大戦中に連合国側は多くの会議や会談を行っているが、この中で特に日本にとって重要なのは
・戦後のアジアの枠組みを協議した「カイロ会談(宣言)」
・ソ連の対日参戦を決めた「ヤルタ会談」
・日本軍の無条件降伏を求めた「ポツダム会談(宣言)」
の3つだ。
これらの会談の結論や協定、宣言も大事だが、会談の過程でどのような議論がなされたかという点も見逃せない。
例えば「カイロ宣言」は、中国の国民党政権(蒋介石)が日本と単独講和を結ぼうとしていたのを、米国が連合国側に引き戻すために行った側面が強い。
「ヤルタ会談」では対独戦の勝利するために当初は渋っていたソ連を米英が説得し、対日参戦を約束させていた。
「ポツダム宣言」では日本の無条件降伏と解釈している方が多いが、最終的には日本の「国体護持」などの要求が受け容れられている。
協定や宣言の文書はもちろんのこと、そうした中身を理解せずに「戦後レジーム」は語れないのだ。

日本の戦後レジームでもう一つ重要なことは、昭和天皇とマッカーサーの会見である。占領期に昭和天皇と連合国最高司令官であるマッカーサー(後期はリッジウェイ)との会談は18回に及んでいる。これまで正式の会見記録として明らかになっているのは第1,3,4回(4回は一部のみ)だけだが、会見の通訳を務めた松井明による「天皇の通訳」(以下、松井文書)により、会見の全貌がほぼ明らかになっている。残念ながらその全文は非公開で、一部の研究者のみが閲覧できているといった程度にとどまっている。
松井文書は「昭和天皇が占領期に果たされた役割について後世の人たちに知って貰うために」まとめられたもので、それこそ戦後レジームを検証する際には欠かせない文書だ。
詳細は省くが、戦後日本の政治体制-東京裁判、安保条約、サンフランシスコ講和条約、沖縄の軍事基地化など-の根幹のほとんどは、この「昭和天皇・マッカーサー会見」で決まっていた事が分かる。
戦後レジームを否定するのであれば、先ず両者の会見で決められた事こそ問題視せねばなるまい。

今回の件で、「戦後レジームからの脱却」論者の底の浅さを露呈した感がある。

2015/05/22

「扇辰・白酒 二人会」(2015/5/21)

通ごのみ~「扇辰・白酒 二人会」
日時:2015年5月21日(木)18:45
会場:日本橋劇場
<  番組  >
前座・林家つる子『初天神』
入船亭扇辰『団子坂奇談』
桃月庵白酒『付き馬』
~仲入り~
桃月庵白酒『喧嘩長屋』
入船亭扇辰『井戸の茶碗』

昭和の名人といえば8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生の3人が通り相場となっている。よく「不世出」といわれるが、この中で文楽や圓生に近い芸の持ち主が将来現れるかも知れないと思うが、志ん生だけは似た芸人は出現しまい。それは芸の高さの問題ではなく芸の質、あるいは人間そのものと言った方が適切かも。子どもの頃に12歳上の兄に「どうして志ん生って面白いだろうね?」と訊いたら、「そりゃ、志ん生がしゃべるからさ」という答が返ってきた。今CDを聴いてそう実感する。同じことを他の人がしゃべっても、ちっとも面白くないだろう。
志ん生没後40年以上経つが、この間、志ん生を襲名できそうな人というのは私も見る限りいなかった。最も近いと思われた志ん朝でさえ、父親の芸風とは明らかに違う。
そうなると志ん生を継げる人というのはいなくなってしまう。このまま大名跡を襲う人は誰もいなくなるのかと思っていたが、ここに一人いる。それは桃月庵白酒だ。もちろん、志ん生と芸風は一緒では無い。白酒のあの天性の明るさ、高座に上がるだけで周囲が明るくなる。噺家らしい風貌、ネタのレパートリーの広さといった点は他に替え難いものがある。古今亭のお家芸を大切にしている姿勢も評価できる。
6代目古今亭志ん生を継ぐのはこの人しかいないと、強く推す由縁だ。
長々と志ん生談義を書いてしまったが、実はこの日の白酒の2題、毎度お馴染みで過去に何度も評を書いているので割愛したい、という事情がある。

ついでといってはなんだが、しばらく空き名跡になっている春風亭柳枝は、ぜひ一之輔に継いで欲しい。両協会をまたぐ厄介な問題はあるのだが、ここは名跡の維持ということで一致協力が求められる。
近ごろ興行目当てに安易な襲名が行われる傾向も見られるが、やはり大名跡の継承はそれに相応しい人になって欲しいのだ。

前座・つる子『初天神』、好き嫌いは別にして、上手くなってきている。

扇辰の1席目『団子坂奇談』、初夏の清々しい季節だというのに、楽屋では加湿器(白酒のこと)があるので暑苦しいとマクラを振って本題へ。タイトルは知っていたが高座では初めて聴く。
侍の次男坊・生駒弥太郎が、団子坂に観桜に行き、たまたま入った蕎麦屋「おかめや」の一人娘・お絹に一目惚れする。恋煩いの弥太郎をみかねて、母親が縁談を先方に持ちかけるが、蕎麦屋は父親と娘二人で切り盛りしているので娘は嫁にやれないと断られる。そこは次男坊の気軽さ、では弥太郎が蕎麦屋になろうと親方に弟子入りし、店の近くに部屋を借り熱心に修業に励む。屋敷からは仕送りが来るので蕎麦作りに打ち込めめきめき腕も上がる。
ある梅雨どきの深夜、寝付けぬ弥太郎の耳に下駄の音が、見るとお絹が出かける様子。この夜中にどこへと弥太郎がお絹を後をつけると、やがて三崎坂から谷中の墓地に入っていった。弥太郎が物陰から見ているとお絹は墓の一つを暴き、中から取り出した赤子の腕をかじり始める。あまりに怖ろしい光景に弥太郎はその場を逃げようとするが小枝につまずき、お絹に気付かれてしまう。部屋に戻って布団をかぶって震えている弥太郎に、帰ってきたお絹から「他言は無用」と念を押される。
こうなったら弥太郎はもう店にいられない、翌朝、早々に蕎麦屋の親方に会い、暇を願いでる。弥太郎を婿にして跡継ぎと期待していた親方は承知しない。どうしても理由を言えと命じられ、弥太郎はしぶしぶ昨夜の様子を語り、お絹さんが赤ん坊の腕をかじったと伝える。
親方は、なんだそんな事かと笑い飛ばし、「お前さんだって親の脛をかじってるだろう」でサゲ。
扇辰がいかにも怪談話風に語るのでどうなるかと思っていたら、落とし噺だったという次第。
扇辰の明解な語り口が活きたネタで、それだけに肩透かしが効果的だった。

扇辰の2席目『井戸の茶碗』、扇辰のこのネタは初見。この噺に出て来る正直者だが、それぞれタイプが違う。屑屋の清兵衛は正直というより欲心が無いのだ。そこを見込まれ千代田卜斎と高木作左衛門との間を金を持って往復する羽目になる。千代田卜斎は今は浪人で貧乏はしているが元武士としての誇りを失っていない頑固な人物だ。一方高木作左衛門は正義感のある若侍で、理詰めで物事を考えるタイプだ。3人の「正直」の在りようは異なる。そうした人物の違いをいかに演じ分けるかが演者の腕の見せ所であるが、人物描写には定評のある扇辰らしい手堅い高座だった。

白酒のお馴染みの2席も楽しませてくれて、充実した会だったと思う。

2015/05/20

「海の夫人」(2015/5/19)

『海の夫人』
日時:2015年5月19日(火)14時
会場:新国立劇場 小劇場 THE PIT

作:ヘンリック・イプセン
翻訳:アンネ・ランデ・ペータス 長島確
演出:宮田慶子
<  キャスト  >
村田雄浩:医師 ドクトル・ヴァンゲル
麻実れい:その後妻 エリーダ・ヴァンゲル
太田緑ロランス:前妻の長女 ボレッテ
山﨑薫:その妹 ヒルデ
大石継太:長女らの元教師 アーンホルム
橋本淳:彫刻家志望の男 リングストラン
横堀悦夫:画家で音楽家 バレステッド
眞島秀和:見知らぬ男

イプセンの1888年作の戯曲。
舞台はノルウェーの小さな町。エリーダは医師ヴァンゲルの後妻となり、前妻の娘ボレッタとヒルテと共に安定した生活を送っていたが、生まれたばかりの男の子を亡くして以来、精神的に不安定で空虚な生活を過ごしている。エリーダは毎日海で泳いでばかりいるので近所の人から「海の夫人」とよばれていた。
妻を心配したヴァルダンは娘たちのかつての教師であり、妻とも知り合いであるアーンホルムを自宅に招く。ヴァルダン家にはその他に彫刻家を目指しているというリングストランや、画家その他なんでも屋であるバレステッドが出入りし、娘らと交流している。
ある日、エリーダの元へ見知らぬ男が訪ねてくる。昔の約束通り連れに来たと言いだす男にエリーダは確かに見覚えがあった。自由への憧れが強かったエリーダにとり昔の恋人の登場は、彼女の心をかき乱す。夫に向かって「私はあなたに買われたの」と言い出すエリーダに戸惑い、必死に引き留めるヴァンゲル。そして再び現れた男は、エリーダに一緒に来るよう命じるが・・・。

この作品が書かれた1888年にノルウェーで結婚した女性名義の財産(預金)が初めて認められたとある。それまでは妻は自分名義の預金を持てなかったのだ。つまり夫の後見のもとにあったわけだ。
そうした時代背景を考えていくと、この物語は家庭に縛られていた女性の自立の話であり、現代に連なる家庭崩壊の話でもある。
束縛されていたからこそ、女性たちに自由への憧れもまた強かったのだろう。しかし自由や自立といっても経済的裏付けがなければ絵にかいた餅にすぎない。自由への希求と経済的制約の中で女性たちは悩み苦しんでいたことだろう。エリーダやボレッテの選択もそうした制約を乗り越えることが出来なかったようだ。

かつての翻訳劇に比べてセリフが日本語としてよくこなれていた。時代の違いはあるものの、今の私たちが観ても違和感はない。
神秘性のある主人公のエリーダを麻実れいが好演、村田雄浩ほかの出演者も揃って良い演技を見せていた。

公演は31日まで。

2015/05/17

大阪都構想は「否決」

いわゆる「大阪都構想」の賛否を問う住民投票は、「反対」が「賛成」を上回った。これによって、今の大阪市を廃止して、5つの特別区を設ける「大阪都構想」は実現されず、大阪市がそのまま存続することになった。

開票結果
賛成 694,844 票(得票率 49.6%)
反対 705,585 票(得票率 50.4%)

長く生きてりゃ、たまには良い事も起きるもんだ。
これで安倍=橋下連立政権構想はひとまず遠のいた。取り敢えず、最悪の事態は脱したと考えていいだろう。
大阪市民の良識に感謝したい。

テアトル・エコー『けっこうな結婚』(2015/5/16)

テアトル・エコー『けっこうな結婚』
日時:2015年5月16日(土)14時
会場:恵比寿・エコー劇場
<  スタッフ  >
作:マイケル・ジェイコブズ  
訳:常田景子 
演出:高橋正徳
<  キャスト  >
安原義人/ハワード
重田千穂子/妻・グレイス
根本泰彦/サム
杉村理加/妻・モニカ
徳永創士/アレン(サム夫妻の息子)
宮崎亜友美/ミシェル(ハワード夫妻の娘)

平均寿命がのびてきたので、結婚してから無事に添い遂げるまでには数十年かかる。いかに仲の良い夫婦といえどもその間には夫婦喧嘩や倦怠期は避けられず、家庭内別居や仮面夫婦なんてぇケースだってある。
一人のパートナーだけ愛し続けるのは容易な事ではない。
男性なら他の女性に眼がいったり、(ワタシは経験がないけど)他の女性とこっそりとお付き合いするという人も少なくないだろう。女性だって気持ちは同じはずだ。
ここに登場するハワード&グレイスとサム&モニカの二組の夫婦、揃って子育てを終えお互いの欠点だけが気になりだす倦怠期にさしかかっている。自分たちの結婚はこれで良かったのか、別の幸せがあったのではないか、そんな気持ちが頭をよぎる。それぞれがアバンチュールを求め浮気の機会を得る。
一方、二組の夫婦の息子と娘は知り合って1年半も同棲生活を送っている。先の見えない将来に不安を抱え、結婚すべきかどうかそれぞれの両親に相談する。親たちは自分たちの事情も抱えているので、すっきりしたアドバイスが出来ない。そこでお互いの家族同士が先ず顔合わせをしてみようという事になった。
ハワード&グレイス宅を訪れたサム&モニカ、実はお互いに顔なじみだった。それもその筈、双方の浮気の相手同士だったのだ。若い二人を前にして、二組の夫婦がどういう行動に出るか。また、その行方は・・・。

ラブ・コメディだが冒頭から際どいセリフが飛びかう艶笑譚風の筋立て。ニヤリとさせられる場面が続き会場は終始笑いに包まれていた。何があってもこの劇団の芝居は必ずハッピーエンドを迎えるので、安心して見ていられる。浮気や不倫を経験して、却ってパートナーとの絆が深まり無事に元の鞘に納まるというわけ。
現実はなかなかこうは行かないのだが、そこは芝居。

杉村理加が中年女のフェロモン全開の演技で圧倒、ついつい「プロの女性」を想像してしまうほどだ。重田千穂子が浮気心と信仰心との間で逡巡する夫人を好演。宮崎亜友美の演技は良かったが、バレリーナ志望はちと無理がある。
男優陣も手堅い演技だったが、スタイルを都会派喜劇らしくキメテ欲しかった。
舞台装置がよく工夫されていて、テンポよく場面が展開していた。

公演は26日まで。

【追記】5/20付
この劇評でそれぞれのカップルがハッピーエンドで終わったとしたところ、サムとモニカについては最後は分かれたのではという指摘を受けました。この件に関してテアトル・エコーに問い合わせしたところ、下記の様な回答を得ましたので紹介いたします。

モニカの最後の台詞「いつまでも続くものにできなくて、ごめんなさい」と、ラストの上袖にはける時にお互い手をふって別々に退出するのは、腕を組んで退出するハワードとグレイスとは対照的です。
これは、サムとモニカが夫婦の関係を終わらせてしまう暗示ととれますが、互いの今後の人生を考えた、より幸せになる決断とも言えます。

私どもとしては、芝居の感想、解釈はそれぞれご覧いただいた方の感覚で構いませんし、「こういう見方で見て欲しい」と限定もするつもりはありません。観客の想像力を引き出し、観劇後、芝居の話で盛り上がって下さればとても嬉しいです。
何だかお問合せに正しく答えていないと思いますが、何卒ご了承いただき、今後もエコーの劇団活動を楽しんでいただければ幸いです。

テアトル・エコー演劇制作部
白川浩司拝

以上

2015/05/16

大阪都構想について

いよいよ明日、大阪市を廃止しその領域に特別区を設置するという提案についての住民投票が行われる。大阪市民がどういう判断を下すかが注目される。
推進派はどうやら東京都の特別区をモデルに考えているようだが、いち区民の立場から言わせてもらえば、今の特別区制度は不満だらけなのだ。
元々が戦時中のドサクサに設けられた制度で、地方分権どころか中央集権のためにとられたものだ。
「区」は当初「都」の内部機関とされていて、その後に法律の改正はあったものの、未だに普通地方公共団体である「市」と同格ではなく「法律により市に準じた権限を付与された団体」としての立場という、極めて不安定な状況に置かれている。そのため地方自治の観点からすれば多くの制約を受けている。
こうした点から、23区が共同で組織する公益財団法人特別区協議会は「特別区制度そのものを廃止して普通地方公共団体である「市」(東京○○市)に移行する」という形での完全な地方自治権の獲得を模索している。
例えば第二次特別区制度調査会は次のような提案を行っている。

【「都の区」の制度廃止】
21 世紀において求められる基礎自治体の役割に応え、東京大都市地域に充実した住民自治を実現していくためには、戦時体制として作られ帝都体制の骨格を引きずってきた都区制度は、もはや時代遅れというほかはない。800 万人を擁する東京大都市地域においてこそ、住民の意思でそれぞれの地域の実情を反映した施策を行う住民に最も身近な政府の再構築が急務である。
特別区が名実共に住民に最も身近な政府として自らを確立していくためには、「大東京市の残像」を内包する「都の区」の制度から離脱することが必要である。そのためには、東京大都市地域における広域自治体と基礎自治体の役割をさらに明確に区分し、都が法的に留保している市の事務と現在都が課している市の税等のすべてを特別区(後述の「東京○○市」)が引き継ぎ、都区間で行っている財政調整の制度を廃止する必要がある。
「都の区」の制度廃止後の東京大都市地域の基礎自治体は、「東京○○市」として実現する。「東京○○市」は東京都から分離・独立した存在として、地域における行政を自主的かつ総合的に担うものとする。

つまり地方自治の実現のためには、「区」を廃止し「市」に移行すべしというのが、現在の区の考え方なのだ。英文名では既に"city"を使用している。
現在の大阪市の提案はこれとは逆行しており、少なくとも「市の廃止=地方自治の拡大」とはならない事を銘記する必要があるだろう。

2015/05/15

いやはや、恥ずかしいのなんの、まるでタヌキの置物状態

Photoここ数日、他人(ひと)に言えない悩みを抱えていた。陰嚢(つまり玉袋)の表皮が赤く腫れ上がってしまったのだ。ご婦人の方には理解しにくいだろうが、横になっていても座っていても玉袋の先端が底面にあたり痛むのだ。立っていれば良いかというと、歩くと下着にすれてやはり痛む。
腫れてくると万有引力の法則に従い垂れてきて、状態としては上の画像のタヌキの置物(信楽焼)を想像して頂ければ早い。
さすがに放っておけないので、近くの病院の皮膚科に行った。医師は30代と思しき女医さんだった。
症状を説明すると、「じゃ、見せて下さい」と言う。いきなり、カーテンもなにもせずによ。「ここでですか?」と言うと、「ええ」。
「あの~、妻以外の女性には見せたことが無いんですけど」と言ったけど、笑わないんですよ、この女医さんは。
パンツを降ろすと、女医さんは陰嚢を指で挟んで観察し、「ああ、掻いてバイキンが入ったんですね」と言う。「いや、掻いてませんけど」と抗弁してもとりあわず、「掻いたからバイキンが入ったんですよ、抗生剤と痛み止め、出しときますね」と言って処方箋を渡してくれた。
そんなわけで、今日は長い文章は書けないので、この辺りでお終い。

2015/05/14

アムトラックの思い出

以下は昨日起きたアムトラックの事故のニュースの概要。
米ペンシルベニア州フィラデルフィア市で5月12日午後9時30分(日本時間13日午前10時30分)ごろ、全米鉄道旅客公社(アムトラック)の列車が脱線した。同市などによると、首都ワシントンからニューヨークに向かう旅客列車で、少なくとも6人が死亡し、けが人が多数出ている。
アムトラックによると、乗員乗客243人が乗っていた。フィラデルフィア市によると、200人以上が病院で手当てを受けるなどし、重体の人もいる。在ニューヨーク日本総領事館は巻き込まれた日本人がいないかどうか調べている。
調査にあたっている米運輸安全委員会(NTSB)は13日、脱線したアムトラック(全米鉄道旅客輸送公社)の列車が事故当時、時速160キロを越えるスピードで走行していたと発表した。

もう20年ほど前になると思うが、一度だけアムトラックの今回の事故と同じワシントンDCからニューヨークに向かう路線に乗車したことがある。米国では初めての鉄道での移動だったので、停車駅と時刻表を書いて持っていた。次の停車駅に近づくと降りる人が乗降口に集まって準備していた。ところが列車は止まらず駅を通過。あれっと思っていたら、5分ほど走って停車。今度はバックをし始め10分ほどかかって先ほど通過した駅に戻って乗り降りが行われた。
結局、列車は予定を15分以上遅れて出発した。
驚いたのは乗客の誰一人騒ぐこともなく、降車の準備をしていた人も大人しく事態を見守っていたことだ。アムトラックというのは日本では新幹線と同様だと聞いていたので、この冷静な乗客たちの態度に感心した。日本の鉄道だったら大騒ぎになったろう。
同時に思ったのは、もしかするとアムトラックではこの程度のことは日常茶飯事であり、だから乗客も冷静でいられたのかも知れないのでは、と。
今度の事故のニュースに接して、なぜこの列車が所定の2倍もの速度でカーブを曲がろうとしていたのか、疑問に思う。

良くも悪くも立川談志「書評『ひとりブタ』」

【書評】立川生志(著)『ひとりブタ』(河出書房刊 2013/12/30初版)
Photo談志の弟子と言うのはよく本を書く。それも師匠に関する本が大半だ。理由は談志についての本だと売れるからだ。良くも悪くも型破りの素材が読者を惹きつけるからだろう。あるいは弟子たちが、談志の思い出を書くことにより心のバランスを保つのかも知れない。と、この『ひとりブタ』を読んでそう感じた。
本書は談志に入門した一人の噺家が、師匠との間の葛藤と確執を経てようやく真打になり、やがて師匠を見送るまでの物語だ。
著者の「立川生志」(真打になる前は「笑志」)は博多生まれ、サラリーマンを経て談志に入門した。師匠の「あーあ、バカが又ひとり増えた――」が入門許可の言葉だ。前座時代は師匠から随分と厳しい稽古をつけられるが、これが後年生きてくる。
ある時、談志の机上に広げられた日記を見るとこう書いてあった。「笑志。こいつは、ふつうの奴と違う。ものになる奴かもしれない。だからこいつには違う教え方をしてみた」。続きがあった。「でも、ダメだった」。これって、わざわざ弟子に読ませるように仕組んだじゃないの。

前座時代で一番大変だったのは金が無いこと。立川流は寄席に出ないので兄弟子の会の手伝いで貰う小遣い程度しか収入が無い。
さらに立川流には師匠への上納金制度がある。真打は月会費4万円に昇進時30万円、二ツ目は月会費2万円に昇進時10万円、前座は月会費1万円を師匠に納めなければならない。滞納すると罰金と称して金額が2倍づけ、3倍づけにはね上がる。まるで悪徳高利貸しだね。
笑志が二ツ目に昇進する時には師匠から突然「50万年持って来い」と命じられ、仕方なく親戚に借金して納めるなんてこともあった。加えて二ツ目以上になると、出版社から談志が書いた本が数十冊も送りつけられ、これも代金が請求される。
なぜこれ程の金が必要だったのか。これは私の推測にすぎないが、談志の親族で運営しているマネージメント企業に資金が必要だったのではなかろうか。そうでもないと説明がつかない気がする。
これも「金でも取れば、その金惜しさに弟子は必死になるだろう」という師匠の親心と受け止めて修行に励むのだが、食えなくては仕方ない。内緒でアルバイトをやるが、そうすると肝心の落語の稽古をする時間が無くなる。
かくして「金」のために少なからぬ弟子たちが談志の元を去るのを、生志は悔しい思いでみつめる。

二ツ目になった笑志は精力的に独演会を開き、各種落語会へも出演する。芸が評価され、多くの賞を受賞するようになる。しかし談志は評価しない。歌と踊りをマスターするよう命じられ、それが真打昇進の条件となる。以前からそうした条件はあったのだが、生志の時は一段と厳しくなって、ハードルが一気に上がってしまった。判定するのは師匠だけで、いくら本人が万全と思っても談志がダメと言ったらダメなのだ。どうやら二ツ目に昇進した時期に師匠と行き違いがあったのが根に持たれたらしい。
そうこうしているうちに20年経ち、後輩から真打昇進を抜かれて気持ちが落ち込み、一時は師匠と刺し違いしようかと考えたほど追い込まれる。
そんな生志の元へ、実家から父が末期癌であるとの知らせが届く。談志は父親のために色紙を書いてくれ、「なるべくそばにいてやれ。親孝行は俺の趣味だ」と言って送り出してくれる。しかし生志は真打昇進の報告ができぬまま父の死を迎える。
この生志の父親の死が、談志の心に変化をもたらす。恐らく父親に息子の真打の姿が見せられなくて申し訳なく思ったのだろう。周囲の人たちの助言もあって、談志は行きつけのスナックで生志にこう言う。「なりたきゃ、なるがいいじゃねえか」。これで晴れて真打昇進が決まる。
この喜びを最初に電話で伝えたのは、何かと生志を励まし続けた兄弟子の志の輔だった。そうしたら、電話の向こうで志の輔が泣いていた。生志は、師匠との葛藤や確執をなんとか乗り越えてこられたのは志の輔のお蔭だと書く。本書では一門のこうした良い人も登場するが、批判されている人もいる。なかには実名がのっている者もいるが匿名のケースもある。匿名でも多少立川流の事を知っていれば、誰だか分かる仕掛けになっている。そういう楽しみ方もある。

生志の真打昇進披露パーティで配られた談志の挨拶文では、末尾にこう書かれていた。

生志。”かけ昇れ””暴れてこい””聞かせてこい””笑わせてやれ”
人生を語ってこいよ。
俺がついてらあ。

かつて談志と面会した生志の父親が談志をこう評していた。
「あの人は気の小さな人やねえ。ちっちゃな人やからあんな虚勢ばはっとんしゃ」。
本書は、そうした欠点や傲慢さを全てのみ込み、師匠の素晴らしさ、とりわけその芸の凄さに憑りつかれた一人の落語家の物語である。

2015/05/12

「遊雀・白酒ふたり会」(2015/5/11)

ぎやまん寄席「遊雀・白酒ふたり会」
日時:2015年5月11日(月)18時45分
会場:湯島天神 参集殿
<  番組  > 
前座・林家なな子『寄合酒』
三遊亭遊雀『いもりの間違い(薬違い)』
桃月庵白酒『付き馬』
~仲入り~
桃月庵白酒『粗忽長屋』
三遊亭遊雀『宿屋の仇討ち』

湯島天神へはJR御徒町駅から歩いて行くのだが、多くの風俗店が店を並べている。往きは出勤中の女性従業員の姿が見ることがあり、この日も「熟女00」という看板を出した店に正真正銘の熟女が入って行った。正に看板に偽りなしだ。会がハネた帰りになると歩道一杯に客引きの短いスカートの女性たちが並ぶ。それだけ需要はあるんだろう。外国語が飛び交うなかを縫って駅に向かう事になる。
会場は8分程度の入り。

遊雀『いもりの間違い(薬違い)』。いわゆる「惚れ薬」をテーマにしたもので、『いもりの間違い』あるいは『薬違い』のタイトルで演じられている。上方では『いもりの黒焼き』という題で米朝が演じている。大筋は同じだ。
家主の娘に片思いの男に知り合いが、いもりの黒焼きの粉を惚れた相手の身につけるものに振りまけば、たちまち恋がかなうとアドバイスする。知り合いから無理を云っていもりの黒焼きを分けて貰い、家主の娘に振りかけると、娘から話をしたいと呼ばれる。男が浮き浮きして出かけると、話は滞納していた家賃の催促。おかしいと思ったら、「やもり」ではなく「いもり(家守り=家主)」の間違いだった。
昔から「媚薬」として様々な言い伝えがあるようだが、効果は疑わしい。
遊雀は前半で男が家賃を滞納しているという設定にして、サゲにつなげていた。男が娘にやもりを振りかけようとすると、間に海苔やの婆さんが割り込んで来るというクスグリを入れて、快適なテンポで演じていた。

白酒『付き馬』、白酒のこのネタを聴くのはこの日で何度目になるだろう。もやは十八番といって良い。主人公の男は一銭も持たず店に上がって飲めや歌えのドンチャン騒ぎの挙げ句、付き馬を騙して逃げて行くという、落語には珍しい小悪党だ。
海千山千の女郎屋の若い衆を騙す男のテクニックが演者の腕の見せどころ。あれじゃ付き馬が騙されるのもしょうがないという説得力が必要だ。また男が付き馬を連れ回す場面では、浅草の仲見世ガイドにもなっている。
近年では志ん朝の高座がベストで、現役では白酒を買う。男は実に悪い奴なのだが、白酒が演じると憎めない人物に見える。

白酒『粗忽長屋』、このネタは5代目小さんがあまりに素晴らしく、これに迫るのは難しい。後輩の演者はそれぞれが一工夫して演じるのも、まともに勝負したのでは小さんに敵わないからだろう。
通常は八が行き倒れの遺体を熊だと思い込み、八から現場に連れて来られた熊も遺体が自分だと思い込むというストーリー。白酒の高座は熊を連れて行き倒れの現場に戻った八が、遺体は自分だと主張し出すという改作。粗忽もここまで来ればメガトン級。
行き倒れの立会人と八との軽妙なやりとりを中心にスピーディな展開で楽しませてくれた。

遊雀『宿屋の仇討ち』、このネタは3代目三木助の高座が定番で、その後の演者は全て三木助の型を踏襲している。三木助に次ぐのは先代の柳朝の高座で、3人の江戸っ子の生きの良さが際立つ。
3人だが三木助では金沢八景の帰り、柳朝では伊勢参りの帰り(上方版と同じ)、遊雀は上方見物の帰りという設定。宿はいずれも神奈川宿。
さてこの日の遊雀の高座で気になったのが2点あり、一つは江戸っ子3人を部屋に案内した時に隣室が侍の部屋だったのを言い忘れていたこと。侍が伊八を呼びつけてから双方が隣同士であることが分かるのだが、これは事前に説明すべきだ。
もう一つは、侍が当初は万事世話九郎と名乗っていたが、実は「三浦忠太夫」だと名乗るのを言い忘れていた。これも後から伊八が3人に告げるのだが、これでは話が前後してしまう。
上記の点が気になって、いま一つ高座に入り込めなかった。
もしかすると、前の白酒の威勢の良い高座にリズムが狂わされたか。

2015/05/10

横浜にぎわい座「上方落語会」(2015/5/9)

横浜にぎわい座「第四十五回 上方落語会」
日時:2015年5月9日(土)14時
<  番組  >
森乃石松『色事根問』
林家染二『蔵丁稚』
桂枝光『紙屑屋』
~仲入り~
林家染雀『軽業』&「後ろ面」
笑福亭松枝『寝床』
(全てネタ出し)
横浜にぎわい座・芸能ホールでは毎月、落協と芸協の合同公演による寄席形式の「横浜にぎわい座有名会」が7回、同じく合同公演による4席たっぷり演じる「にぎわい座 名作落語の夕べ」、他に各種独演会や落語会などの大衆芸能番組が10回程ほど組まれている。後者の中で数か月に1回は上方落語協会による「上方落語会」が開かれていて、普段は東京の会では見られない上方落語家も出演するので都合がつけば行くようにしている。
落語は見ないと魅力が伝わらないが、特に上方落語はそれが顕著だ。今回は芝居や踊りなどに因んだ番組が組まれた。林家染二以外は初見。

石松『色事根問』、現在「森乃」の亭号を名乗る人は師匠・福郎を含め3人しかいない。客席から掛け声がかかったので人気があるようだ。是非がんばって貰いたい。このネタは音逆噺の「稽古屋」の前半が独立したもので、本日の趣旨と合うわけだ。
男が女にモテるには10個の要素があるという。一見え、二男(前)、三金、四芸、五精、六オボコ、七セリフ、八力、九肝、十評判で、この内の一つは当てはまらないと女にモテない。そう聞かされた男がひとつひとつチェックするとどれも当てはまらない(アタシと一緒)。

染二『蔵丁稚』、東京では『四段目』として演じられ内容は同じ。見所は蔵に入れられた丁稚が忠臣蔵「判官切腹の場」を再現させる場面。芝居噺が得意な染二らしい重厚な演出だった。

枝光『紙屑屋』、経歴を見ると北海道在住で、札幌では寄席ブームを復活させようと札幌市民寄席として、「平成開進亭」を主宰している。また本人談として「五代目文枝の十八番『紙屑屋』、そして『立ち切れ線香』を唯一継承している弟子です」と自負を語っている。
このネタは居候している若旦那が紙屑のより分けをさせられるが、音曲や踊りの本を見つけて読みふけり、隣家から聞こえる三味線に合わせて唄ったり踊ったりする場面が中心で、演者の芸の見せ所となっている。枝光は中腰のまま踊ったり歩いたりトンボを切ったりと大奮闘で客席を沸かせた。大した芸である。

染雀『軽業』&「後ろ面」、『東の旅』の中の一部である『軽業』を軽妙に語った後、着物の前後を反対し頭の後ろに面を付けて、「後ろ面」踊りを披露。お参りしたりお辞儀したりを背中で演じるという珍芸で楽しませてくれた。

松枝『寝床』で、最後は義太夫。独特のリズムの語り口での高座だったが、長屋の衆が色々と理由を作って義太夫の会を断る場面を短めにしたのと、義太夫を二度と語らないと意地を張る旦那を番頭が説得するシーンがカットされていて、やや物足りなさを感じた。それと、出来れば義太夫を一節聞かせて欲しかった。

2015/05/08

薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク

我が家のベランダに妻が丹精したバラの花が満開だ。
バラといえば、白秋の有名な詩がある。

薔薇二曲
      北原白秋

   一  
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花咲ク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

   二  
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。

(「白金ノ独楽」より)

バラの画像は上から黄色、オレンジ、グラデイションの各色。

Photo

Photo_2

Photo_3


最後のグラデイションでは、高浜虚子の俳句を思い出した。

白牡丹といふといえども紅ほのか

2015/05/07

「雀々・生志・兼好 密会」(2015/5/6)

「雀々・生志・兼好 密会」
日時:2015年5月6日18時
会場;お江戸日本橋亭
<  番組  >
『オープニング』
三遊亭兼好『粗忽の使者』
桂雀々『鶴満寺』
~仲入り~
立川生志『紺屋高尾』

GW最終日の5月6日、旅先から戻って来たのだろう、電車の中はスーツケースを引いた客が目立つ。
この日のお江戸日本橋亭は、夕方から「雀々・生志・兼好 三人会」。会場が小さい割には豪華な顔ぶれだ。オープニングで三人会を始めたきっかけについて説明があり、雀々がメインの番組に他の二人がゲスト出演したのを機に意気投合したとのこと。上方落語協会に所属していない上方落語家と、落協や芸協に所属していない東京落語家というのが共通項らしい。
立川流では談志が健在の頃は弟子がお互いに被害者という共通性があったが、加害者がいなくなってからそうした意識が薄くなっていると、生志が語っていた。一方の円楽一門では、先代が亡くなってからより結束が強くなったと、こちらは兼好の弁。雀々は気難しい師匠の下で苦労があったようだ。
「密会」というタイトルにしたのは今回が第1回目だからで、三人会はこれからシリーズ化していく予定らしい。
出番はジャンケン(兼好が近ごろはコレばっかりとこぼしてた)で、勝者の雀々が決めた。

兼好『粗忽の使者』、兼好が描く登場人物は誰もが可愛らしい。粗忽者の使者(家族や親族の名前は憶えているが自分の名前が出てこない人物)も、訪問先の重臣も、大工の留っこも、皆愛すべき人物として描かれている。聴いていて何とも可笑しいというのが兼好の特長だ。今は滑稽噺に注力しているようだが、これからさらに飛躍しようとすれば人情噺や人情噺風のネタにも挑戦してゆかざるを得ないだろう。そこが課題か。

雀々『鶴満寺』、バスツアーの仕事で、延々と台湾の観光客相手に小咄を続けたという苦労話をマクラに振って客席を沸かせ、雀々の世界に客席を引きこむ。
十八番の『鶴満寺』、船場の旦那が幇間や芸者を伴って桜の名所、大阪の北にある鶴満寺を訪れる。ところが例年と異なり境内が森閑としているので茂八を様子見に行かせると、寺男の権助が出てきて新しい住職になってから境内での花見は厳禁、歌を詠む方なら中へ入れるという。事情を知った旦那から茂八を通して権助に天保銭(百文)を渡すとガラリと態度が変り、花を見るだけならと一行を境内に招き入れる。満開の桜の下で飲めや歌えの宴会が始まると、権助は約束が違うと怒り出す。仕方なく旦那から茂八を通して今度は一朱を渡すと、又もや態度が変り、権助自身も宴席に加わり好きな酒をがぶ飲みしだす。やがて住職が戻ると、権助は桜の木の下で寝込んでいる。起こすと酒臭い。住職が怒ると、来ていたのは歌詠みの一行だと言いはる。どんな歌かと訊かれると権助は、
「坊主抱いて寝りゃかわゆてならぬ、どこが尻やら頭やら」・・・いや間違いました、
「花の色は移りにけりな、いたずらに我が身世にふる、ながめせしまに」という、すばらしぃ歌でございました。
住職が「それは小野小町の歌『百人一首』やないか」
権助「『百に一朱』しもた~ッ、何で分かったんですか?」でサゲ。
見せ場は、権助が酒に酔って三代の住職に仕えた苦労話しをする場面で、これがとにかく捧腹絶倒。やたら可笑しいのだ。他の演者ならこうはいくまい。典型的な見る落語だ。

生志『紺屋高尾』、生志を見だしたのはブログを始めた10年前からで、当時は未だ二ツ目で名前も笑志だった。上手かったね、なぜ談志はこの人を真打にしないんだろうと思っていた。苦節を経てようやく真打昇進したと思ったら今度は大病と、苦労の連続だった。そうした苦労は必ず高座に活きると思う。
さて、お馴染みの『紺屋高尾』だが、この噺を別の角度から見ると、高級娼婦の再就職物語でもある。
花魁というお仕事柄、花の盛りは20代までだろう。だいたい28,9歳頃には年季明け、つまり定年を迎えることになる。現役中に顧客からひか(落籍)されれば行く先は決まるが、この噺の高尾のように来年3月には定年を迎えるのに未だ身の振り方が決まっていないとなれば、当然焦りもあったはずだ。このままスタッフとして店に残る手もあれば、グレードを落とした店で花魁を続ける選択肢もあろうが、それはプライドが許さない。出来れば堅気の女房にと思っていたのだろう。そこへ自分に一途な紺屋の職人が客になって現れた。接してみれば性格は良いし優しそうだ。ならばこの男とひと苦労してみよう、こう高尾は考えたんだろう。
久蔵からすれば夢のような物語だったろうが、高尾側からすればある意味「渡りに船」でもあったのだ。
このネタは非常によく出来た噺で、滑稽噺でありながら人情噺風の味付けもしてある。ただ後者は程々にしておいた方が良い。あまりにお泪頂戴に走り過ぎると却ってこのネタの味を壊す。
生志の高座はその辺りのバランスが取れていて「程の良さ」があり、好演だった。

2015/05/06

「マッカーサーへの50万通の手紙」(書評『熱風の日本史』3回目)

井上亮(著)『熱風の日本史』(日本経済新聞社刊 2014/11/20初版)
1944年12月に作られた「比島決戦の歌」(作詞:西條八十 作曲:古関裕而)に、こういう一節がある。
♪いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりや地獄へさか落とし♪
詞を書いた西條八十が戦後、戦犯になるんじゃないかと恐れていたというエピソードが残されているが、真偽のほどは分からない。
歌詞に出て来るニミッツとマッカーサーの略歴は以下の通り。
チェスター・ウィリアム・ニミッツ(1885年2月24日-1966年2月20日)は、アメリカ海軍元帥。第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官および連合国軍の中部太平洋方面の最高司令官だった。
ダグラス・マッカーサー(1880年1月26日-1964年4月5日)は、アメリカ陸軍元帥。大戦中は南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官だった。
そうして「いざ来いニミッツ、マッカーサー」と歌った8か月後に日本は敗戦をむかえ、9か月後にはそのマッカーサーが連合国軍最高司令官として日本に降り立つ。「いざ来い」と言ったら本当に来てしまったわけだ、それも勝者として。当時の日本には未だ30万人の武装した日本軍がいたにも拘らず、彼は丸腰であった。前代未聞の光景だったが、これこそがマッカーサーのスタイルだった。

マッカーサーは離任する1951年まで常に尊大な態度を崩さなかった。彼にとっては日本などの東洋人は「勝者へのへつらい」に成りがちであり、尊大な態度の方がかえって感銘を与えると信じていた。
その一方で彼は寛大な態度も示していた。1945年9月2日に行われた降伏文書調印式で(本来はこの日が正式な終戦記念日となる。これ以前は一部の地域では未だ散発的な戦闘が行われていた。)、マッカーサーは「自由、寛容、正義」の実現こそが自分の希望であり、人類の希望であると演説した。
それまで戦争に負ければ「男は皆殺し、女は奴隷に売られる」と吹き込まれた日本人は、占領軍の寛大さに驚いた。
今の人には信じられないかも知れないが、当時のマッカーサーは絶対的な存在だった。なにせ「天皇より偉いマッカーサー」だったのだ。日常会話でも「マッカーサー将軍の命により」なんてフレーズが使われていた程だ。
そうして我が国の一連の民主化政策-婦人参政権、労働組合法の成立(労働者の団結権の保障)、農地改革(小作人制度の廃止)など-を進めてゆく。これらの改革は以前から日本人が求めていたことでもあり、大半の国民はこれを歓迎した。ただマッカーサー自身は反共の闘志で、こうした民主化政策はアメリカ本国政府の意向によるものであった。

日本人の「勝者へのへつらい」は留まるところを知らず、「アメリカに併合されて第49州となる方が本当の幸福」(久米正雄)、「この様な人物を、日本管理の最高司令官として、日本に迎えたことは、日本の将来にとってどんなに幸福な事であろうか」(山崎一芳)、「マッカーサーげんすいに おれいの はなたば あげましょう」(子ども向け絵本)といった礼賛の言葉が溢れていた。
そして日本占領の最も特異な現象として起きたのは、占領直後から始まった日本国民からのマッカーサーへの手紙だ。その数は約50万通に達したといわれる。
手紙は全て翻訳通訳部隊により読まれ、重要なものは英訳され、マッカーサーの元に回された。このうち約3500通が米国のマッカーサー記念館に収められている。
その内容は次のようなものだ。
「謹デ、マッカーサー元帥ノ万歳ヲ三唱」
「日本を米国の属国に」(註:これは実現している)
「哀れなる日本を根本から救って下さい」
「天皇陛下をさいばんしてはいけません」
「マッカーサー夫人の家政婦にしてほしい」
「米軍は半永久的に駐留してほしい」(註:これも実現しつつある)
この他に「元帥の子どもを生みたい」という女性からの手紙が多数有ったそうだ。もっともマッカーサー側にも選ぶ権利はあるから、望み通りにはいかなかっただろう。

マッカーサーは在任中、一日も休まず勤務したが、時間の大半はこれらの手紙を読むことに割いたようだ。占領政策に活かす意味もあったろうが、何より自身の虚栄心を満足させた。
占領された側の国民が征服者にこれほどの大量の手紙(ファンレターと呼んだ方が的確か)を送ったという例は他になかったようで、ジョン・ダワーの名著「敗北を抱きしめて」でもこの問題をとり上げている。こうした「勝者へのへつらい」は日本人の一面を示しているのかも知れない。

しかし、日本人とマッカーサーとの蜜月は、彼の「日本人は12歳」発言によってあっけなく終わる。
1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員 R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。
マッカーサーは次のように回答した。
1.科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
2.しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ12歳の少年である。
3.ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
4.ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。
この発言は私も憶えていて、特に父親がえらく怒っていたのを思い出す。
5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本におけるマッカーサー熱は一気に冷めた。
それまでに計画されていた自由の女神と同じ高さの「マッカーサーの銅像」建立とか、「マッカーサー記念館」の建設なども全て中断となった。
今では米軍厚木基地内に「マッカーサーの銅像」が、和歌山県内の泉福寺に「マッカーサー元帥顕彰之碑」が残されている程度のようだ。

井上亮(著)『熱風の日本史』について3回にわたり書評というより内容紹介を行ってきた。紹介したものは本書のごく一部で、明治の開国から今日にいたる様々な事項が採りあげられており短い文章でまとめられている。
どこの国であれ必ず負の歴史をおっており、失敗の歴史からこそ有益な教訓を私たちは学ぶことが出来る事を忘れてはなるまい。

2015/05/04

大日本橋亭落語祭・初日(2015/5/3)

「大日本橋亭落語祭」
日時:2015年5月3日(日)18時開演
会場:お江戸日本橋亭
<  番組  >
旭堂南湖『大岡政談・上(さじ加減)』
三遊亭遊馬『花筏』
柳家三三『十徳』
笑福亭たま『カケ酒』
~仲入り~
春風亭一之輔『星野屋』
三遊亭兼好『巌流島』
【大喜利】大日本橋亭横断ウルトラクイズ

この会もGW中の恒例としてここ数年は毎回参加している。今年は3,4日の2回開催で3日が初日。
笑福亭たまが主催のようで、この日も開場案内から大喜利の司会まで務めていた。チケットもたま事務所へ申し込みになっている。所属がバラバラだしGW中にこれだけの人気者を一堂に集めて開催するのは容易ではなかろうが、たまさんのプロデュース力に拠るものだろう。
メンバー6人がそれぞれ1席ずつ演じるが、名前の通り「祭」なので肩肘はらずに気楽に楽しむ会となっている。
全てネタ出しで、出番はジャンケンで決める。
以下、感想を一言ずつ。

南湖『大岡政談・上(さじ加減)』、上方講談協会に所属しているという珍しい講釈師。講談に登場する人物というのは何故か標準語をしゃべる。あまり関西弁の秀吉や東北弁の正宗なんてぇのは聞いたことがない。ところが上方の人だから、どうしても言葉に関西なまりがありイントネーションも関西風だ。その辺りに聴いていて多少の違和感がある。時間の関係からこの日は『さじ加減・序』で終わってしまった。

遊馬『花筏』、本人も言ってたが、見る度に痩せていくように思える。健康上は問題ないのだろうかと心配になる。得意の相撲噺だったが、以前に比べ迫力が落ちたように思えた。

三三『十徳』、前座噺だが、十徳なんて着物見たことないし、「これはしたり」なんて言葉も使わない昨今、客に分からせるのは難しかろう。だから意味は分からずとも言葉遊び洒落遊びとして楽しんで貰うしかない。三三は知りたがりの男と隠居、男と髪結い床にいた連中との軽妙な掛け合いを楽しませていた。
本当の語源は、十徳は脇を縫い付けた着物である所から「直綴(じきとつ)」からの転訛だそうだ。

たま『カケ酒』、マクラで上方落語の『十徳』を解説。上方ヴァージョンは東京とは逆に数字を上げてゆき、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされて、「いや、たたんでとっとくのや」でサゲるんだそうだ。
新作のネタは落語ではお馴染みの飲み屋で酔客が店の人を相手に語るというものだが、この噺では相手がスナックかバーのママだ。客はダジャレを連発しながらママを口説く。女房と別れるからと結婚を迫るのだが、携帯に女房から電話がかかると人が違ったように女房に愛の言葉をかける。そして電話が終わるとまたママを口説き始める。たまはカウンターの向こうにいるママを舐めるように見つめる酔客の目が良い。
前にも書いたが、たまは将来、上方落語界を背負うような落語家になって行くだろう。

一之輔『星野屋』、噺に登場する女性に色気を持たせられるかというのは噺家の才能による所が大きいと思う。若手でも色気が出せる人もいれば、大看板やベテランになっても色気が出せない人もいる。一之輔が演じるお囲い者のお花には色気がある。だから短縮版ながら、このネタの魅力は十分に伝わった。やはりこの人はタダモンじゃない。惜しむらくは、お花の母親(もう一人の主役)の影が薄かったこと。

兼好『巌流島』、何かというと「屑い~」という売り声が出てしまう屑屋を登場させ、傍若無人な若侍と穏やかな年配の侍、船中の客たちとの対比を描いて面白く聴かせていた。

大喜利は、たまが司会(問題も彼が作ってきたようだ)、南湖が設問を読み上げ、東京の4人が回答者という仕組み。優勝者を当てた人から抽選で1名と、参加者全体から抽選で1名、記念品が贈られる(出演者のサインだったようだ)。客席を巻き込んだクイズ形式になっていて、和気藹々の雰囲気の中で終了。

また来年を楽しみに。

2015/05/02

鈴本演芸場5月上席夜の部初日(2015/5/1)

<  番組  >
柳家我太楼
林家正楽
(ここから途中入場)
桃月庵白酒『つる』
柳家さん喬『初天神』
ホンキートンク『漫才』
柳家燕弥『黄金の大黒』
柳亭市馬『かぼちゃ屋』
仲入り 
林家あずみ『三味線漫談』
蜃気楼龍玉『強情灸』
鏡味仙三郎社中『太神楽』
柳家権太楼『らくだ(通し)』

落語協会のHPは4月1日からリニューアルに入り、一部を除いて情報の大半がクローズされた状況が続いている。1ヶ月経った5月1日になってようやく次の告知が行われた。          
【新2015年05月01日【リニューアル状況】本日の寄席について
リニューアル作業中のため、一時的な形ではありますが「本日の寄席」を公開いたしました。】
つまり「本日の寄席」のみ再開したが、それも一時的なものだというのだから、呆れるしかない。
ここ数年HPを充実させてきた落語芸術協会とは対照的だ。
いま老舗といわれる「00落語会」「00名人会」の出演者の大半は落協所属で、芸協の人が出るとネタにされるほどだ。それだけ落協の人材が豊富である証左だろうが、その人気にアグラをかいているとしたらいずれしっぺ返しが来るだろう。

鈴本の5月上席夜の部は恒例の「権太楼十夜」でその初日に。開演30分過ぎて入場したのだが客席がガラガラだった。最終的にはそこそこ入ったがGW初日としては寂しい入りだ。昼夜を観た人が近くにいたが、昼の部の方が入りが良かったと言ってた。前売り状況を見ても2-6日の間でも結構売れ残っている。特別興行としては顔づけが今ひとつだったのが影響したのか。
気付いた事をいくつか。

白酒『つる』、今日の客席は前のめりだと言ってたが、前売りは前方から売れるので前方の席だけ満席になっている。白酒の十八番で、この噺でこれだけ受けるのは白酒しかおるまい。物知り顔の隠居の造形がいい。
燕弥『黄金の大黒』、真打に成り立てだが、若手らしく真っ直ぐな高座に好感が持てた。
市馬『かぼちゃ屋』、市馬を始めて観たのはもう20年ほど前になるか、当時はバリバリの若手だった。本格派で語りはしっかりしているし芸に品があって、期待できると思っていた。しかし、その期待は今は萎んでしまった。特に最近は生気に欠ける様に見える。私見だが、高座で歌謡曲を唄うようになってから進歩が止まってしまったように思える。未だ50代半ばなので、もう一度ギアを入れ直して欲しい。
あずみ『三味線漫談』、未だお嬢さん芸の域を出ていない。音曲の発声が出来てないので「唐傘の」なぞは無残なものだった。三味線漫談は後継者がいないので長い目で見てあげる必要はあるが。
龍玉『強情灸』、二人の江戸っ子の形が良い。

権太楼『らくだ』、これを聴きに今日足を運んだ。落語の登場人物というのは通常は士農工商の身分に属しているのだが、この噺に出て来る主要な人物はそれより下の最下層に属する人たちだ。最底辺に暮らす人々の辛さ悲しさと反面の優しさ、生きるエネルギーをどう活写するかがこのネタのキモである。
一文無しなのに弟分の弔いをあげようとするラクダの兄い、彼の脅しに屈して月番へは香典の、大家へは酒と煮物の催促に行かされ、断れれたらラクダを背負ってかんかんのうを唄わされる屑屋。因業大家の造形も良く出来ていた。
最初は嫌々ながらだったのが、次第に気分が乗ってくる。そうした屑屋の微妙な心理変化を権太楼は巧みに描いた。
特に山場の屑屋が吞むにつけ酔うにつけ段々とラクダに虐められた記憶が蘇り(ラクダだけではなく世間の蔑みに対する怒りも加わっていたのだろう)、怒りを爆発させる場面が良かった。ラクダと刺し違いしようとする所まで追い込まれ、母親や子ども顔が浮かび思い留まるしか無かったと悔し泣きする屑屋の姿は胸を打つ。心中を吐き出した屑屋はもう怖いもの無し、形勢逆転してラクダの兄いをこき使い出す。
後半の二人がラクダの遺骸を担いで焼き場に向かうが、途中で転んで遺骸を落としてしまう。引き返して遺骸を拾うが、間違えて願人坊主を押し込んでしまう。樽の中で坊主が何か言うのだが、屑屋はウルサイと頭を叩く。ここからサゲまではテンポ良く運び、予定時間通りに終了。
終演の際に権太楼は短くフーッと溜め息を吐いていた。それだけ熱演だったのだ。
権太楼の『らくだ』は正に期待通り、来た甲斐があったというもの。

2015/05/01

2015年4月人気記事ランキング

4月のアクセス数のTOP10は以下の通り。

1.どうしちゃったの?落語協会
2.#37三田落語会「志ん輔・正蔵」(2015/4/25昼)
3.【ツアーな人々】消えた添乗員
4.落語の中のワタシ「堀の内」編
5.【ツアーな人々】当世海外買春事情
6.【ツアーな人々】団体ツアーは添乗員しだい
7.#3四季の萬会(2015/4/4)
8.どうにも止まらない安倍政権の横暴
9.#5まいどおおきに露の新治です(2015/4/24)
10.「正しい教室」(2015/4/9)

4月断トツの1位になったのは、落語協会のHPが1ヶ月にわたり工事中で放置されたままになっている事態を批判したもの。今どき利用者を無視した行為を続けている協会の態度は呆れるしかない。通常の法人なら役員は責任が問われる。知らない人なら落語協会は解散したかと思うだろうに。
2位は三田落語会の「志ん輔・正蔵 二人会」が入った。落語ファンの間でもそれほど人気が高いとは思えない顔合わせだったので意外だった。
4位は自分自身がまるで落語の登場人物の様だというカミングアウト記事。いくらそそっかしくても女湯に入ってしまった男というのは少数だろう。7位、9位共に独演会の記事が入った。
3,5,6位の旅行関連の記事は毎度お馴染みで、根強い人気に支えられている。
8位には久々に政治関係の記事がランクインした。ここのところ久しく政治関係の記事はアクセスが集まらなかったが、「どうにも止まらない安倍政権の横暴」という内容に共鳴された方が多かったとみえる。米国に行ってはダンナにヨイショして来て熱烈歓迎を受けさぞかし気分は良かろうが、国内法案の審議はこれからだ。それなのに米国議会に安全保障法制の関連法案を夏までに成立させる方針を明言してきた。国民無視も甚だしい。
劇評では「正しい教室」がランクインした。

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