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2015/08/08

#32大手町落語会(2015/8/7)

第32回「大手町落語会」
日時:2015年8月7日(金)19:00
会場:日経ホール
<  番組  >
入船亭小辰『子ほめ』
柳亭左龍『野ざらし』
柳家喬太郎『同棲したい』
~仲入り~
入船亭扇辰『匙加減』
柳家さん喬『唐茄子屋政談』

隔月で行われる大手町落語会は昼席だが、年に一度、8月の会だけは夜席となる。仕事の帰りに足を運んでもらおうという主旨のようで、アタシのような無職の人間が参加するのはお門違いの気もするが、まあいいか。
真打4人はレギュラーで、ネタ出しはしない。
喬太郎がマクラで9月6日に湯島天神で行う「謝楽祭」についての案内をしていた。落語協会まつりということで今年が第1回、喬太郎が実行委員長だそうで、説明にも気合が入っていた。
アタシは、もちろん行かない。
江戸っ子の生まれそこないで、祭りが嫌いというのが第一の理由。
第二は、芸人にはその「芸」だけに興味があり、「素」の人間には全く興味がない。宴席に出たことがないし、落語家と話したこともない。寄席や落語会の会場付近で顔を見ることはあるが、声を掛けたり挨拶したりしたこともない。
噺家とは、高座と客との関係と割り切っている。実にツマラナイ人間である。
従って書くことも当然ツマラナイ。面白い記事を読みたい方は、他のサイトへどうぞ。

小辰『子ほめ』、こうした見る度に成長を感じる若手というのは、いいもんだ。開口一番で前座噺を掛けたが、口調の滑らかさといい「間」の取り方といい、技量は二ツ目でもかなり上位に位置する。話し方が師匠にそっくりで、いずれそこを脱して自分の型を作り上げて行くんだろう。

左龍『野ざらし』、サゲまでの通しで演じた。この人も確実に腕を上げている。かつては『野ざらし』といえば3代目柳好と相場が決まっていたが、今の人たちは例外なく8代目柳枝の型で演じている。大筋は変らないが、隣家の男の名を尾形清十郎としているところと、幽霊が訪ねてきた時に清十郎が小脇に槍を携えツカツカツカっと語るところ、八が釣りをし出すと隣の男が餌をつけるよう勧める所などは柳枝の型だ。いまCDで両者を聴き比べると柳枝の方が上手い。柳好の方はライブで聴かないと魅力が伝わらないのかも知れない。
最初の八と清十郎との掛け合いから、釣り場での八と他の釣り人との軽妙なヤリトリまでテンポの良い筋運びで聴かせた、後半では幇間の新潮の造形が良く、八も思わず吞まれてしまう様子が描かれていた。
惜しむらくは「さいさい節」の調子が合わず、あそこは一番の聴かせ所だけに更に稽古を積んで欲しい。

喬太郎『同棲したい』、この会では毎度同じで喬太郎だけは新作を掛ける。前後の古典を間に挟まって息抜きの高座にしている。この日も冒頭の「謝楽祭」の案内から始まり、日清の焼きそば、福井のソースかつ丼といった食い物の話題をタップリとマクラに振った。客も事情が分かってるので適当に楽しんでいた。もっとも耐えきれず途中で帰ってしまった客が一人いたようだが(喬太郎がそう言っていた)。
ネタのタイトル『同棲したい』は『同棲時代』のモジリ。家族3人が居酒屋でビールを飲んでいる。夫はサラリーマンであと2年で定年、妻は同年代で専業主婦のようだ。一人息子は就職を果たしたばかり。突然、夫が妻に離婚を切り出す。驚く妻に、自分は青春時代に憧れた同棲をしたいと言うのだ。離婚届けにサインした二人は自宅を出てアパート探し。神田川の側で木造、電車が通るたびに家がカタカタ鳴る部屋に住む。夫は会社を休んで肉体労働のアルバイトをし、妻はなぜかパンツ1枚で食事作り。会いにきた息子が呆れて説教すると・・・。
噺の舞台となる『神田川』『同棲時代』ともに1970年代前半に流行った。1970年前後の学生運動が高揚期を経て挫折の時代に入り、その癒しの音楽としてフォークが大流行した。今から約40年前という事になるから団塊の世代の青春期である。喬太郎の年齢とは合わず、むしろ団塊世代に焦点をあてて作ったものと思われる。
作品としては大して良い出来とは言えないが、喬太郎の話芸でそこそこ楽しませてくれた。

扇辰『匙加減』。元々このネタは、講釈師の小金井芦州から三遊亭円窓が教わって落語に仕立てたものだが、今や扇辰の十八番。もう聴くのは5,6回目になろうか、扇辰はしばしば高座に掛けている。個々の登場人物の演じ分けも見事で完成度は極めて高い。しばくはこのネタ、扇辰の独壇場となろう。

さん喬『唐茄子屋政談』 、ネタの選定で首を傾げたのは、前々回、つまり一昨年のこの会のトリでさん喬はこのネタを演じていた。少し間隔が短過ぎやしないか。
身投げしようとしていた徳を助けたのは本所に住む叔父さん。酸いも甘いも噛み分けた苦労人だ。徳に唐茄子の棒手ふりをさせようとすると、徳がみっともないからと嫌がる。すると叔父さんは、奉公人が一生懸命仕事して稼いだ金を湯水のごとく使うヤツの方が余程みっともないと説教する。徳が荷を担いで路地を出ようとすると、反対から入ってきた商人を足止めさせておいて、徳の後ろ姿をじっと見つめる叔父。厳しさと優しさの両面を備えた叔父の人物像を描かせたら、さん喬は当代随一だろう。
徳が石につまずいて転び唐茄子を投げ出した時に、気の毒がって長屋の衆に唐茄子を買わせていた男も苦労人だ。徳の身の上話しを聞いて、「俺にもそういう叔父さんがいたらなぁ・・・」という一言で、この男の人生を暗示させる手法も見事だ。唐茄子を全部は売らず2個残し、「残りはおめえが自分で売りな」とは、実に粋な男だ。吉原田圃に差しかかった徳が、昔を思い出しながら独白する場面も良かった。
ただ、後半の裏長屋で貧しい母子と出会う場面以降は、登場人物が泣き過ぎる。くどさが目立ち、却って感情移入が出来ない。
吉原田圃で切っておいた方が余韻が残り、良かったのではと思った。

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コメント

喬太郎のその新作は生で聞いたことがあります。
かなり強引なもっていきかたですよね(笑)
「唐茄子屋政談」さん喬ならではの人物の造形力・描写力は認めながらも、構成に難あり、というご評価ですね。
唐茄子を売りながら、かつての「遊び」の甘い思い出に浸る場面ですが、
志ん生版はそのあたりが絶妙だと思いました。

福様
喬太郎の新作は、なんだそりゃ、ってぇ感じでした。客席は結構受けてましたけど。
あの貧乏長屋の女は、元は武家の妻です。困窮はしていても武家の気品は失われていないのです。さん喬の高座はこの部分だけが不満でした。

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