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2015/10/16

8代目橘家圓蔵の死去

10月7日に落語家の8代目橘家圓蔵が亡くなった。81歳だった。
最後に見たのは数年前の鈴本演芸場の高座で、3年ほど前から高座には上がっていない事には気付いていたが、亡くなっていたのはちょっと驚きだ。
経歴は次の通り。
1952年12月 4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)に入門。前座名は橘家竹蔵。
1955年3月 二つ目昇進。橘家舛蔵と改名。
1965年3月 真打昇進。5代目月の家圓鏡を襲名。
1982年10月 8代目橘家圓蔵を襲名。
明るいキャラクターとアドリブが得意な所からラジオやTVの番組で活躍していた。決して上手い人とは言えなかったが、高座に上がるだけで会場の空気を一気に変える魅力を持っていた。

手元のCDに『圓鏡から圓蔵へ』というタイトルの噺がある。落語というより自伝を語る内容で貴重なものだ。
最初、両親に落語家になりたいと言い出した時に、母親は猛反対したが父親は賛成してくれた。後年分かったのだが、父親は一時期新富町で幇間をしていた事があった。そう考えると圓蔵の芸は父譲りなのかも知れない。
入門してから師匠に連れられて大師匠の8代目桂文楽の家に挨拶に行った。当時、文楽の弟子に前座がいなくて孫弟子の前座が交代で文楽の世話をしていた。圓蔵は元々が文楽に憧れていたので嬉しくて仕方がなかった。そこでお上さんに気に入られるよう立ち回った所、期待通り「この子に来て貰う」となって、約2年間文楽の内弟子扱いとなった。家では家事を手伝い、高座に行く文楽のカバン持ちを2年間やれたというのがその後の財産になる。文楽の家の女中をしていた「せつ子」との馴れ初めもこの内弟子時代だった。女中部屋を風呂に改造するので一時期「せつ子」と圓蔵が同じ部屋で寝起きするようになり、ついつい・・・、という事らしい。
二ツ目の舛蔵時代には「安くて便利な橘家舛蔵、回数券1枚でどこへでも」で売っていた。
やがて師匠の前名である5代目月の家圓鏡の襲名をめぐってひと騒動ある。師匠の惣領弟子は初代林家三平だった(この経緯も複雑なのだが長くなるので割愛)ので、三平が真打昇進の話が出た時に圓鏡を襲名させようとした。処が三平の家族は襲名に反対、恐らくは将来正蔵を襲名させるつもりだったんだろう。困った三平が圓蔵の所に相談に来て、自分からどうしても圓鏡を継ぎたいと師匠に頼んでくれと懇願された。仕方なく師匠に「圓鏡は私に継がせて下さい」と言ったら、師匠から「生意気いうな、このクズのような噺家が!」と蹴飛ばされた。今度は三平と二人で師匠に頭を下げて師匠を説得し、真打昇進時に月の家圓鏡の襲名という運びに至った。
こうした事もあってか、圓蔵は師匠が嫌いだったと、この高座で語っている。
本人としては圓鏡で売れたのでこのままと思っていたし、もし師匠が亡くなってもその時は惣領弟子の三平が継ぐだろうと予想していたら、その三平が早逝したため圓蔵を襲名することになった。
先輩の金馬から「お前、襲名なんかすると損するぞ。俺ん時は、小金馬から金馬になった途端に仕事がガタンと減った」と忠告を受けたが、圓蔵は「そりゃ兄さん、実力ですよ」と応じて「コノヤロー」と叱られたというエピソードを語っている。
とにかく圓蔵は橘家の止め名である大名跡だから、本人としては名誉な事だったに違いない。

典型的な爆笑派で『猫と金魚』の様な軽い噺を得意としたが、『幇間(たいこ)腹』では父親のDNAを感じさせ、『寝床』を演らせると大師匠の文楽の型をそのまま踏襲した高座を見せていた。
ご冥福を祈る。

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コメント

私は7年前、末広亭、小三治の中トリをやったのを聴きました。
「猫と金魚」やらなんやらごたまぜで笑わせたような気がします。
こうしてみると得難い寄席を聴いたなあと思います。

この記事をリンクさせていただきました。悪しからず。

「あのお、お尋ねしますが、ワニっていうのはどう鳴くんでしょうか?」

私が圓蔵を最初に見たのはまだ子供のころで、巨泉司会のバラエティ番組でした。
とにかく威勢がよく、明るい雰囲気を振りまくのに驚きました。
寄席では『反対俥』をよく聴きました。残念でなりません。

佐平次様
時期的にみて貴重な高座だと思います。とにかくサービス精神満点で、晩年になっても決して大物ぶらない人柄も魅力でした。リンクはもちろん大歓迎です。

福様
そうそう、『反対俥』もよく演じてました。古いシャレを言っては「こんな事言ってるから小朝に人気抜かれちゃうんだ」なんて、自虐のクスグリを入れてましたっけ。愛嬌のある人でしたね。

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