以下は毎日新聞のニュースから引用。
【菅義偉官房長官は12日のBSフジの番組で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が世界記憶遺産に「南京大虐殺」に関する資料を登録したことを受け、ユネスコ運営のために拠出している分担金について「政府として停止・削減を含めて検討している」と述べた。
菅氏は「(登録は)密室で行われ、法律に基づくものでもない。透明性や公平性をもっと出すべきだ」と述べ、ユネスコに制度見直しを求める考えを示した。南京事件に関しては「確かに南京で非戦闘員殺害とか略奪行為があったことは否定できないが、(犠牲者の)人数にはいろんな議論がある」とも語った。】
今回の件に関連して思い出すのは広島の原爆ドームが世界遺産に登録された時の経過だ。
当初、日本政府は原爆ドームの世界遺産登録には消極的だった。アメリカ政府を刺激したくなかったからだ。しかし全国的な署名活動が進む中で、国民世論に押される形で1995年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。原爆ドームの登録審議は同年12月に世界遺産委員会会合において行われたが、アメリカは原爆ドームの登録に強く反対した(中国は審議を棄権した)。
原爆投下は正義だったと信じるアメリカにとってその象徴たる原爆ドームの登録は極めて不本意だったし、日本国民の間に反米意識が高まることを懸念したのだ。
審議の結果、原爆ドームは文化遺産として登録された。
世界記憶遺産へのシベリア抑留資料の登録について、「ユネスコを政治利用する試みだ」とロシア側が日本を批判している。
ロシアのユネスコ委員会のオルジョニキゼ書記はロシア通信に対し、日本のシベリア抑留資料が世界記憶遺産に登録されたことをめぐり、「ユネスコを政治利用する試みで、我々は反対だ」との見解を示した。
さらに、「日本はパンドラの箱を開けた。なぜならシベリア抑留資料の登録を申請し、2国間で解決すべき政治問題をまたもやユネスコに持ち込んだからだ」と批判した。またオルジョニキゼ氏は、ロシアが日本側に対し、登録申請をしないようすでに働きかけていたことを明らかにしている。
こうなると政治利用はお互い様だという事になる。
また菅官房長官が言うように記憶遺産の登録が密室で行われ透明性や公平性に欠けているとしたら、日本が申請・登録した案件(今回を含め5件が登録)についても同様にいい加減な審査で決められた事になる。これでは自らを貶める事になる。
もし南京虐殺が全くの虚偽であったなら、これは日本政府としてユネスコに抗議して然るべきだ、
しかし日本政府の見解は菅官房長官も言ってるように、「日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとしつつ、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」との立場だ。つまり事実は認めるが被害者の人数については正確に決められないということだ。
処が、今ネットの世界の中では南京事件そのものが無かった、あれは中国のデッチ上げだという主張が平気でなされている。
この件では、10月4日放送の「NNNドキュメント」(日本TV)で「南京事件 兵士たちの遺言」というタイトルの番組が放映された。深夜放送だったので見逃した方も多かったと思われるが、幸い”LETERA”というサイトで内容の書き起こしをしているので以下に紹介する(文書の仮名遣いは現代文に改めている)。
番組では「支那事変日記帳」というタイトルがつけられた日誌が紹介されて。陸軍歩兵第65聯隊と行動を共にした、山砲兵第19聯隊所属の上等兵が書いた日記で、昭和12年9月から南京が陥落するまでの3ヶ月間、ほぼ毎日書かれている。
〈10月3日午後6時ごろ、いよいよ上陸して支那の地を踏んだ。空襲となり我が優軍の打ち出す高射砲機関銃は火花を散らし、これが本当の戦争かと思った〉
〈11月16日、食料の補給は全然なく、支那人家屋より南京米、その他の者を徴発して一命を繋ぎ、前進す〉
〈11月17日、「ニャー」(注:中国人女性)を一人連れてきたところ、我らの目を盗んで逃げたので、ただちに小銃を発射し、射殺してしまう〉
〈11月25日、実に戦争なんて面白い。酒の好きなもの、思う存分呑む事ができる〉
12月13日、南京陥落。上等兵たちの部隊は、武器を捨てて降伏してきた多くの中国兵を捕虜にする。
〈12月16日、捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す〉
〈その後、銃剣にて思う存分に突刺す〉
〈自分もこのときばかりと支那兵を三十人も突き刺したことであろう〉
〈山となっている死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひがん勇気が出て力いっぱいに突刺したり〉
〈うーんうーんとうめく支那兵の声。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切ってみた〉
番組では、1994年にこの上等兵にインタビューしたときの映像も放映された。彼はこう語っていた。
「機関銃を持ってきてバババーッと捕虜に向かって撃っちゃったんだ。捕虜はみんな死んだけれども、『なかに弾に当たんねえみたいなのがいるかもしれないから着剣して死骸の上を突いて歩け』と。ザッカザッカ突いて歩いた。おそらく30人くらい突いたと思うが。何万という捕虜を殺したのは間違いねえ」
同じ12月16日の記録について、番組取材班は上記日記のウラを取るべく他の資料にもあたった。
〈一万七千二十五名の三分の一を引き出し射殺す〉(歩兵第65聯隊第八中隊少尉の日記)
〈揚子江畔にて銃殺〉(山砲兵第19聯隊第八中隊伍長の日記)
当時、機関銃の引き金をひいたという元日本兵の音声がある。
「この方(捕虜)を“お客さん”て言うんだよね。『今晩はお客さんが来て、お客さんを処理するんだ』と。そして“ピー”という呼び子の、将校の呼び子の合図で、一斉射撃。ダダダダダダダと始まる」(歩兵第65聯隊元第三機関銃隊兵士)
翌17日も“処刑”は続いた。揚子江の別の河川敷で、65聯隊の伍長が後日スケッチした絵には、日本兵の機関銃が河原に集められた捕虜を半円形に囲んでいた。その余白にはこう書かれていた。
〈このときの撃たれまいと人から人へと登り集まる様、すなわち人柱は丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした。その後片はしから突き殺して、夜明けまでそのところに石油をかけて燃やし、柳の枝をかぎにして1人1人ひきずって川の流れに流したのである〉
同じ現場にいたという、2人の元二等兵の証言もこれと一致する。
「とにかく1万人も(捕虜を)集めるっちゅんだから。相当広い砂原だったね」「有刺鉄線か何かを周囲に張ったでなかったかな」(歩兵隊65聯隊元第一大隊本部行李系二等兵)
「機関銃を載せて高くしてね。砂で、砂を積んで盛って」「サブロクジュウハチ……200発ぐらい撃ったのかな」「ダダダダダダダ、一斉に死ぬんだから」(歩兵第65聯隊元第一機関銃隊二等兵)
当時18歳だった元海軍兵は、南京戦に参加した際、揚子江岸での銃殺を目撃していたという。それは12月18日のこと。“処刑場”はまた別の揚子江沿岸部だった。
「12月18日、午後の2時ごろに、突然機関銃の射撃音が響いてきて。河川敷のなかに火を噴く機関銃と、倒れてわいわい……」「いわゆる陸軍のね、重機関銃の銃座が片っ方にあって。河川敷にトラックで運ばれてきた25人か30人程度の人が重機関銃の標的にされて、撃ち殺されてたということですね」「はじめはダダダンダダダンダダダンと」「やがてはダダダン、ダダダン、ダーン、ダーン……ともう、残り少なくなった弾を一発でボン、ボンと狙い撃ちしているようなのが……音聞いてわかるというふうに慣れてしまった」
この元海軍兵は南京戦の後、日本へ戻ると、海軍士官からある注意を受けたと証言した。
「南京で見たことは決して口外するな、ということを注意されましたね」
読んでいて気分が悪くなるが、上記の資料や証言から12月16-18日にかけての3日間だけでも、相当の人数の中国人捕虜が揚子江沿岸で殺害され、死体を川に流して処理していたこと想定される。
「虐殺」あるいは「大虐殺」という用語が不適切だという意見もあるが、これは受け取り方の問題だと思う。
もう30年以上前になるがアメリカのボストンのフリーダムトレイル付近を歩いていたら、、「ボストン虐殺地跡」というのがあった。この虐殺事件というのは、1770年3月5日にマサチューセッツ植民地だったボストンで、イギリス軍がアメリカの民間人5人を射殺した事件のことだ。その時は被害者が5人で虐殺かとも思ったが、米国側から見ればそうなのだ。しかしイギリス側からすれば「虐殺」とは認めがたいだろう。現に裁判では係わった大半の兵士は無罪となり、二人の兵士が親指に烙印を押されただけで済ましている。
不都合な事実は切り捨て、捏造だデッチ上げだと決めつけるのは誤りだ。
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