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2015/11/10

コミュニケーションの難しさ!「オレアナ」(2015/11/9)

パルコ・プロデュース公演「オレアナ」
日時:2015年11月9日 (月)
会場:パルコ劇場
作:デイヴィッド・マメット
翻訳:小田島恒志
演出:栗山民也
<  キャスト  >
田中哲司:大学教師ジョン
志田未来:女子学生キャロル

ストーリーは次の通り。ネタバレ有り。
大学教師ジョンは、大学の終身在職の内定を受け新居を買おうとしていた。そこへ教え子の女子学生キャロルが彼の研究室を訪れ、授業についていけないとパニックに陥り、どうか単位を取らせて欲しいと涙を浮かべて懇願する。
当初ジョンはキャロルを冷たくあしらうが、彼女の熱心さに押されて彼の理論を説明するのだが、キャロルは全く理解できず増々パニックに陥る。
そこでジョンは視点を変えて自分の身の上話しから教育論、果ては大学教育そのものに対する不信感を延々と説き、何とかキャロルをなだめようとする。キャロルは憧れて入学した大学での教育が否定されているような気がしてますます感情的になってゆく。
この二人の会話の間に、度々ジョンは妻からの電話が入り会話が中断される。どうも新居の契約で問題が発生し、その処理を相談しているらしい。その中断が二人の会話の進行を妨げ、苛立たせる。
ジョンはキャロルに、これから何回か二人だけで授業をしてキャロルの成績はAにすると言う。そうしてジョンは彼の昇進を祝うパーティに出席するために部屋を出る。
ここまでが前半。
後半は同じジョンの研究室だが、前半とは状況が一変する。今度はジョンがキャロルを部屋に呼んでいた。その理由は、キャロルがジョンの言動に対し終身在職審査会に訴状を出したのだ。その件について二人で話し合いたいと言う。キャロルは全て訴状に書かれていると言う。そこにはジョンが彼の研究室内でキャロルと二人だけにさせて、自らの知識や権威を誇示しながらキャロルを見くだし、性差別や卑猥な発言、セクハラ行為があったと書かれている。その告発は彼女一人の問題ではなく、彼女の仲間全体の問題なのだと指摘するキャロル。ジョンは反論するが、キャロルは以前とは違って論理的にジョンに反論し彼を追い詰めてゆく。今回もジョンは妻からの電話で度々二人の会話が中断させられるが、電話の内容はより深刻になっている様子だ。苛立つジョン。キャロルの言うことが理解できないと言うジョンに、キャロルが帰ろうとするがジョンが追いかけ止めようとする。キャロルは悲鳴をあげる。
再びキャロルがジョンの研究室を訪れた時は、既に大学側の裁定が下っておりジョンは昇進はおろか教師を失職することになった。さらにキャロルから暴行とレイプで刑事告訴されたことが告げられる。
キャロルは訴えを取り下げても良いと言いだし、その条件として本のリストと声明書へのサインをジョンに求める。しかし本のリストではジョンの著作を禁書とすることとしていて、声明書はジョンにとって極めて屈辱的な内容だった。キャロルは高笑いし、怒りを爆発させたジョンは彼女を殴り倒し、傍にあった椅子を振り上げる。

この芝居では3つの形態の異なったコミュニケーションが採りあげられている。
一つはメインのコミュニケーションで、大学教師とその教え子である女学生とのコミュニケーション。ジョンがいくら誠意をもって接していたと思っていても、キャロルには全く通じない。一方、キャロルの主張はジョンにとっては全く理解できない。双方のコミュニケーションは最後まで成立せずに終わる。
二つ目は、ジョンと妻とのコミュニケーションで、ジョンの昇進に伴い新居を購入しようとするが、どうやら契約でもめているようだ。後半になるとジョンが失職して自宅に帰らないのを心配し、かつ新居の契約も上手く行ってないらしい。切実な問題に直面する妻だがジョンとは電話でしか相談できない。一方のジョンからすれば、キャロルからの訴えでそれどころじゃない。ジョンと妻とのコミュニケーションも不成立だし、妻の電話はジョンとキャロルとの会話を中断させている。
三つ目は、舞台には登場しないがキャロルと彼女が仲間と呼んでいるグループの人たちとのコミュニケーションだ。その結果キャロルは覚醒し、ジョンとも論理的に争えるほどの理論武装をする。こちらのコミュニケーションは成功したようだ。

私たちは生活のあらゆる場で人に接しコミュニケーションを図っている。しかし本当のコミュニケーションが成立しているかどうかは疑わしい。早い話が家族間のコミュニケーションだ。夫婦の間で、親子の間で。祖父母と孫の間で、会話はあってもコミュニケーションが出来ているとは言い難いというのが実感だ。
ましてこれが会社の上司と部下、学校の教師と生徒、習い事の師匠と弟子といった上下関係がある場合は絶望的と言ってよいほどだ。男女間の性差もまた然り。男性優位の社会は依然として変わらない。
この劇ではそれを中年の大学の男性教師と、成績が劣り単位を落としそうになっている女子学生との対話を通じて、コミュニケーションの難しさを鮮やかに見せている。
観客は見ているうちにジョンかキャロルのどちらかに肩入れし、共感したくなる。
私はもちろんジョンに共感した。教師としてはかなり誠実に接し、キャロルの悩みに親身になって応対している。身分の安定や家族の幸せを望むのもごく当たり前のことだ。唯一の弱点は、女性に対する態度が時代の変化に追い付いていないという点だ。それは欠点ではあるが、違法とは言えまい。
キャロルはどうか。主張している内容は間違っていない。最大の問題は根底に悪意を感じるのだ。正義感と言うよりは相手を引っ掛けてやろう、社会的評価を落としてやろうという復讐心を強く感じる。
だから最終シーンでジョンが切れるのを、ある種痛快な気分で見られた。
無論、そうじゃない人もいるだろう。それもまた正しいのだ。
そういう芝居なのだ。敢えてネタバレのストーリーを紹介したが、筋は分かっていてもこの芝居は十分に楽しめる。

田中哲司と志田未来の二人は長大なセリフを淀みなく語り熱演。
田中はしゃべり方、風貌、身のこなし、全てがいかにも大学教師らしい雰囲気を醸し出していた。
志田の外観は、パッと見は小学生かと思われるほどで、それが(女性的でないという意味で、これもセクハラ?)却って役柄の効果を上げていた。
終演後の水無田気流さん(詩人・社会学者)と、小田島恒志さん(英文学者・「オレアナ」翻訳)とのアフタートークも、とても参考になった。内容は、教えてあげない。

東京公演は29日まで、その後は各地で。

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