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2015/12/24

池袋演芸場12月下席昼の部(2015/12/23)

池袋演芸場12月下席昼の部3日目
前座・柳家寿伴『出来心』
<  番組  >
柳家かゑる『弥次郎』
柳家三語楼『河豚鍋』
金原亭馬治『片棒』
アサダ二世『奇術』
春風亭百栄『露出さん』
橘家圓太郎『唖の釣り』
―仲入り―
鈴々舎馬るこ『時そば』
桃月庵白酒『新版三十石』
昭和こいる『漫談』
柳家小せん『御神酒徳利』

12月23日(祝日)は池袋演芸場へ。振り返ると過去も池袋には下席に来ている。他の寄席では鈴本と国立が多く、共通しているのは入れ替え制ではないという点だ。寄席は開演から終演まで見るので昼夜の通しとなると9時間近く居続けることになる。今では体力的に難しい。かといって昼の部だけで帰ると何だか損をしたような気分になるし(貧乏性だからね)、夜の部だけだと途中入場した様な感じだ。そういう分けで末広亭や浅草には足が遠のく。結果として芸協の芝居を見るのが相対的に少なくなる、という問題が残る。それでも落協所属の人で見たことがないというケースも少なくない。久しく見てないなという人もいる。
この日でいえば、
初見:三語楼、かゑる
久々:小せん、馬るこ
となり、この4人がお目当てだった。

寿伴『出来心』、自己紹介で「『さんじゅ』の弟子の寿伴です」と言ったのだが、その「さんじゅ」って誰かが出てこない。名前さえ思い浮かばない。家に戻ってから調べたら柳家三寿とあった。1971年に入門とあるからかなりのベテランだ。寿伴だが、滑り出しは良かったが途中で息切れしていた。
かゑる『弥次郎』、かゑるというとどうしても当代鈴々舎馬風を思い出すが、師匠は柳家獅堂なので馬風の孫弟子にあたる。体も声も大きくアクの強そうな所は大師匠似だ。下ネタを入れて客席から受けていたが、好みが分かれるかな。
三語楼『河豚鍋』、本来はこの人がトリだが、この日は都合で浅い出番。師匠は馬風で、そうか、今日は馬風一門が多いのか。当代は4代目だが、初代は多くの噺家に影響を与えた大物で、とりわけ5代目志ん生は初代の影響を強く受けていたので有名だ。3代目は当代小さんだし、期待が大きいんだろう。ネタは時節に因んだもので、河豚を食べる所を丁寧に描いていた。
馬治『片棒』、時間の関係からか(序)で終わったが、師匠の当代馬生譲りの端正な芸を見せていた。欲をいえばもう少し高座に色気が欲しい。
百栄『露出さん』、露出狂の爺さんが、永年街頭で露出を繰り返している内に誰も驚いてくれなくなり、寂しい思いをするという内容の新作。さして面白いものでは無かったが、この人のトボケタ味は出ていた。
圓太郎『唖の釣り』、テーマの関係でメディアでは流せず専ら寄席でしか聴けないネタ。上手い人だが語彙の一つ一つが強すぎて洗練さに欠けるのが欠点。この日のネタは個性と良く合っていた。
馬るこ『時そば』、独自のクスグリを詰め込んで熱演だったが、チョイとクドイ。ソバが胃にもたれそうだ。
白酒『新版三十石』、東北訛りの浪曲師が森の石松・三十石を唸るというだけのストーリーだが、客席は爆笑。膝前の軽いネタで沸かせる所がこの人の実力。
こいる『漫談』、相方のこいるが複雑骨折で入院中だそうで、年齢からしても長引きそうだ。漫才は独りで演るもんじゃないと語っていたが、やはり寂しそうだった。ファンが贔屓の芸能人にプレゼントを贈っても本人は持って帰らないという逸話は、以前隣家にいた歌手から聞いていた。持ち帰りは現金だけだそうなので、ファンの方々は心して下さい。
小せん『御神酒徳利』、もう何年ぶりか、久々だ、以前に比べ華やかな印象になった。短縮版だったが最後のサゲまで演じ、要所要所は丁寧に演じていた。こういうサッパリした高座はいいね。

外の寒さを吹きとばすかの様な熱演が続いた池袋の12月下席だった。

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コメント

圓太郎、おっしゃる通り、もっと軽くやれれば抜けるんでしょうね。

佐平次様
圓太郎の場合それが特色とも言えるので、軽く演じるのは難しいでしょうね。この点は師匠に学ぶべき所なんでしょうけど。

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