落語なんだから間違ったっていい?
噺家がよくマクラなどで「落語なんだから少しぐらい間違えたっていい」と言うのを耳にするが、プロなんだから間違えていい筈はない。それは甘えだ。
演劇で役者がセリフを間違えたら批判される。
他の伝統芸能や大衆芸能である歌舞伎、能、狂言、音曲、講談、浪曲などでも間違いは許されない。台本のある芸能は台本通りに演じる。
落語の場合は師匠から教わったオリジナルに自分の工夫を加えた台本があるわけで、それは守らねばなるまい。高座でのアドリブは別だが。
もちろん人間がやることだから間違えはある。しかし結果として間違えるのと、最初から間違えてもいいとするのでは大違いだ。
聴く側からすれば、間違いに気付くと、それに引きずられて高座に入り込めない時がある。落語なんだからそんなに真剣に聴かなくたっていいという意見もあるだろうが、噺家が客に押しつける事柄ではない。
近ごろの落語会の入場料は3千円が相場で、会によっては4千円以上取るケースもある。
これと、出演者やスタッフ・裏方を加えれば数十名の人が関与する演劇に比べると、相対的にはむしろ割高に感じる。ならば、それ相当のパフォーマンスが求められて当然ではあるまいか。
5代目圓楽が落語家を引退する際に、師匠である6代目圓生のことを引き合いにしていた。圓生が亡くなる2,3年前からの高座を見ていて、何度か引退を勧めようとしたが叶わなかったと。落語家は自分で引くしかないと思ったので引退を決意したと語っていた。
確かに圓生の晩年の録音を聴くと、とっさに登場人物の名前が出てこない、裁きの場面で原告と被告の名前を取り違えるなど、圓生の高座とは思えないミスが目立つ。恐らくは弟子の圓楽としては見ていられない気分だったに違いない。
8代目桂文楽が『大仏餅』を演じていて、途中「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず絶句した。文楽はそのまま「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて高座を降り、二度と高座には上がらなかったエピソードはあまりに有名だ。最晩年は、高座で失敗した場合の謝り方までも毎朝稽古していたそうだ。
そこまで厳しいことを求めるつもりはないが、その位の腹積もりで高座に臨んで欲しい。
現役では柳家喬太郎がネタに入って少ししてセリフにミスがあり、その場で客席に謝って別のネタに変えたことがある。この人らしい潔さだと思った。
少なくとも、落語なんだから間違ったっていいなんて気分で高座には上がって欲しくない。
« 初めての桂文之助(2015/12/4) | トップページ | ご機嫌なミュージカル「CHICAGO」(2015/12/9マチネ) »
「寄席・落語」カテゴリの記事
- 「落語みすゞ亭」の開催(2024.08.23)
- 柳亭こみち「女性落語家増加作戦」(2024.08.18)
- 『百年目』の補足、番頭の金遣いについて(2024.08.05)
- 落語『百年目』、残された疑問(2024.08.04)
- 柳家さん喬が落語協会会長に(2024.08.02)
コメント
« 初めての桂文之助(2015/12/4) | トップページ | ご機嫌なミュージカル「CHICAGO」(2015/12/9マチネ) »
洒落でいうんじゃなくてマジにいう人がいますね。
「メモなんか取らずに肩の力を抜いて」などとも、勝手なお世話、お前がちゃんとやれってんだ。
投稿: 佐平次 | 2015/12/08 10:54
佐平次様
真剣に聴こうとノンビリ聴こうとそれは客の自由で、高座から指図されてる様でムッとする時はありますね。勘違いしてるんじゃないかと。
投稿: ほめ・く | 2015/12/08 11:12