フォト
2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 「志ん輔・吉坊 二人会」(2016/2/14) | トップページ | 春風亭一之輔独演会(2016/2/19) »

2016/02/18

本能寺の「変?」と、NHK大河ドラマの「罪」

明智憲三郎(著)「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫、2013/12/3刊) がベストセラーになっている。著者は名前から察せられるように明智光秀の末裔だ。本能寺の変で主君・織田信長を討った逆臣として描かれてきた祖先の汚名を晴らすべく当時の文献資料を漁って、「本能寺の変」に関する新説を打ち立てたものだ。
強引な論理も目立つが、著者の執念が感じられて一気に読ませる。
要約すれば織田信長が天下取りを目前にして「織田家長期政権構想」を練っていた。具体的には家臣に与えていた領地を取り上げ織田家の後継者に分配する領地替えだ。領地を取り上げられた家臣たちを新たな領地獲得へと駆り立て、その先には「唐入り」、つまり中国へ侵攻しそこを新たな領地として家臣たちに与えるという構想だ。それにはかなりの抵抗が予想されるので、予め障害を取り除いておこうと考えた信長は徳川家康を本能寺に呼び出し、明智光秀に暗殺させようと計画していた。命令された光秀が家康と通じて信長を討ち、その後に家康と同盟しながら明智政権を目論んだというのが「本能寺の変」の真実だという。
確かに本能寺での信長警備があまりに薄かったとか、用心深い家康が僅か34名の家臣を連れて京都に向かったといった理由が、これだと説明がつく。
光秀/家康連合に組していた細川幽斎が裏切って羽柴秀吉に密告したため、秀吉の「大返し」が容易に成功したという説も説得力を持つ。本能寺の変の後に家康が少数の手勢で大阪から岡崎に無事に帰還できた「伊賀越え」も、予め準備していたからという主張も納得できる。
信長が果たせなかった「唐入り」を秀吉が継承し、彼らの失敗を教訓に家康は「唐入り」をやめ「改易」を選んだのだという。
いずれも当時の資料と突き合わせた推論であることは評価できる。
ただ、光秀と同盟したとされる大名が誰一人として戦闘に加勢しなかったので本能寺の変が光秀の単独行動に終わってしまった事や、あの慎重な家康が果たして光秀と連合という賭けに出ただろうかといった、大きな疑問が残る。
有力な説ではあるが、本能寺の変に関する解釈の一つと考えた方が良さそうだ。
より詳しく知りたい方は著作をどうぞ。

従来知られている「本能寺の変」の「定説」について、著者によれば事件4か月後に秀吉が口述筆記させた『惟任退治記』に書かれたものが基になっているという。「惟任(これとう)」とは光秀の別名で、この書では秀吉が望んだ本能寺の変の「真相」の流布と、併せて信長から秀吉への政権移管の「正統性」を天下に知らしめる事を目的としていた。当然の事ながら秀吉について不利な内容には一切触れず、信長や光秀の欠点については大袈裟に書かれている。これを種本として江戸時代に書かれたのが各種「太閤記」で、内容はフィクションだ。しかしこれに尾ひれをつけた軍記物や講談、そして戦前の尋常小学校の教科書にまでこの「定説」が掲載され国民に教育されてきた。秀吉の「唐入り」が軍部の「中国への侵攻」政策と結び付き利用されたのだ。
かくして聖域となった定説は吉川英治ら国民的人気作家の著作によって拡大再生産され、いよいよ権威が増してゆく。

さらに後押ししてきたのはNHK大河ドラマだろう。秀吉、信長、家康とその周辺を描いた作品は数知れず、その多くに本能寺の変のシーンが出てくるが(現在放映中の「真田丸」にもあった)、内容はいずれも「定説」に基づいたものだ。もちろんドラマはフィクションだが、視聴者の中には歴史的事実と受け止めている人もいるのではあるまいか。「定説」の国民的普及に一役かっている。
これが「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」、「大岡越前」なら実在の人物を扱っていてもフィクションだと誰もが分かるのだが、大河ドラマとなると事実と混同されてしまう可能性がある。
これは何も「太閤記」に限った事ではなく、「赤穂事件」はフィクションの「忠臣蔵」として独り歩きしている。
通常のドラマでは終りに「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というテロップが流されるが、なぜか時代劇には流されない。
NHK大河ドラマにも「この物語はフィクションであり・・・」のテロップは必要ではあるまいか。

« 「志ん輔・吉坊 二人会」(2016/2/14) | トップページ | 春風亭一之輔独演会(2016/2/19) »

歴史」カテゴリの記事

コメント

織田、明智、徳川、、歴史上の人物の血を引く人が、当たり前ですが、現代人として生きているのを見聞きすると妙な気分になります。
まさか居間に甲冑がおいてあるわけでもないでしょうが。
彼らにしてみれば裏切り者の子孫といわれ続けるのはどんなものかな。

佐平次様
意外ですが家康は光秀の子孫や関係者を優遇しています。明智光秀の重臣・斉藤利三の娘である春日局を家光の乳母(実質は将軍の教育係)にしたのはその典型です。筆者はそこに疑問を持ったようです。だからこそ光秀の直系が現存しているわけですが。

やはり、皆さんあの本読んでいらっしゃいますね。

「時はいまあめが下なる五月かな」の謎、ですね。
土岐氏のつながりが背景にある、という指摘は、結構説得力がありました。

しかし、信長が家康を暗殺しようとしていた、という点が今一つ納得できにくい。

いろいろな推理がある中の一つ、であることは間違いないですね。

子孫として先祖の汚名を晴らしたいという執念は、十分伝わる本でした。

小言幸兵衛様
赤穂事件と同様に謎の多い事件だけに様々な説が立てられているのでしょう。光秀が天下を盗ろうとしたら家康にオッファーした可能性は高いと思います。秀吉政権も家康の協力無しには成り立たなかったのですから。家康としては適当な返事をしておいて様子見を決め込み、最終的には光秀に加担しなかったのではと推測しています。この点では細川幽斎や筒井順慶も同類です。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「志ん輔・吉坊 二人会」(2016/2/14) | トップページ | 春風亭一之輔独演会(2016/2/19) »