【書評】不破哲三「スターリン秘史―巨悪の成立と展開(5)」~「シベリア抑留」は日ソの合作~
不破哲三「スターリン秘史―巨悪の成立と展開(5)大戦下の覇権主義(下)」(新日本出版社刊2015/12/15初版)
第5巻では1章をさいて日本の敗戦について記述している。ヤルタ会談から和平工作、そしてポツダム宣言からソ連の対日参戦と在留日本人の状況について詳述されている。ここでは特に大戦末期の日本政府による和平交渉と、日本軍兵士のシベリア抑留及び在満邦人が辿った過酷な運命について要約する。
長文になるが、ソ連崩壊後に新たに発掘された文書などによって明らかになった史実もあり、私自身も初めて知ったことが多い。
ドイツが無条件降伏し沖縄戦が終結しつつあった1945年6月9日になって、内大臣木戸幸一が戦局の収拾を昭和天皇に言上する。内容は天皇の親書を奉じて仲介国を通じて和平交渉臨むというもの。その仲介国としてソ連が妥当とするものだ。天皇はその場で木戸提案を受け入れ、速やかに時局収拾に着手するよう述べた。
6月22日には天皇は最高戦争指導者会議のメンバーとの懇談会でも同様の趣旨の発言を行っている。ここからソ連の外交ルートを通じて交渉が始まるが埒があかず、最後の手段として天皇の特使として近衛元首相をモスクワに派遣することを決める。これをソ連に伝達したのは7月13日、つまり米英ソ首脳によるポツダム会談の2日前というのだからあまりに遅きに失した感がある。
しかも近衛特使の訪ソの目的を相手に明確に伝えなかったのと、メッセージの宛先が書かれていなかったため、ソ連側から不可という返事がくる。慌てて東郷外相が特使の任務は戦争終結のためにソ連に仲介を頼むという内容である事をソ連側に伝えるが、相手に届いたのはポツダム宣言の2日後とあっては議論の対象にならなかった。
ソ連に仲介を頼んだことの是非は別として、最初の木戸の発案からソ連に意図が届くまで1か月半かかり、空振りに終わってしまったという危機意識の無さは驚くしかない。
では、近衛が特使としてソ連に行くにあたっての基本態度はどういうものだったのか。それは近衛が天皇に拝謁した直後に近衛が中心となってまとめたもので「和平交渉に関する要綱」という文書だ。
前掲の様な事情から先方には提出しなかったものだが、その内容はこの後の終戦から講和条約に至る日本の運命を決定づけると言っても過言でないほど重要な事が記されている。というのは、対英米交渉においてもこの要綱によるものとするとしていたからだ。
最初に掲げたのは「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」という方針だ。ここで「国体の護持」とは「皇統を確保し天皇政治を行う」ことと解説されている。
このための条件として以下に国土の範囲、行政司法、陸海空軍軍備、国民生活について項目毎に条件が書かれている。いわば降伏にあたっての交換条件である。
「止むを得ざる場合」の条件を要約すると次の様になる。
1.日本の「固有の領土」から沖縄、小笠原、樺太を捨て、千島は南半分を保有する。
2.海外の軍隊の一部、特に若い将兵を日本に帰国させず、戦勝国が労務に利用することを認める。また賠償として一部の労力を提供することに同意する。
3.日本の国土の割に人口が過剰なので、この是正のために必要な条件の獲得に努める。
最後の3項がなぜ講和条件に含まれるのか不明確だが、具体的には満州に在住していた日本人の現地土着を認めて欲しいという意味だったようだ。
この「和平交渉に関する要綱」に書かれた諸条件が重要だと思われるのは、この後に日本の戦後処理からサンフランシスコ講和条約に至る道筋がほぼこの要綱に沿って進められているからだ。言い方を変えれば、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏した事になっているが、実際には終戦直前の日本指導部が考えた講和条件に沿って進行していたと言える。
1945年7月26日にポツダム宣言が発表され日本政府に通知される。翌27日にはこの対応のために最高戦争指導会議とそれに続く閣僚会議が開かれる。この席上、東郷外相は宣言を拒否すると極めて重大な結果を招きので当面は意思表示しない事を提案し、了承を得た。
ところが翌日の28日に宮中で開かれた情報交換会議で、軍部から宣言を黙殺するよう迫られる。軍部の勢いに押された鈴木貫太郎首相は正式な会議にかけることなく「黙殺」声明を記者会見で発表してしまう。しかも鈴木首相は黙殺だけでなく「戦争の完遂に邁進するのみ」という戦争継続宣言までしてしまう。
その結果はどうなったのか。
8月6日 アメリカによる広島への原爆投下
8月8日 ソ連の対日参戦
8月9日 アメリカによる長崎への原爆投下
終戦というと昭和天皇の「御聖断」だけにスポットが当てられるが、それよりポツダム宣言発表後の7月27-28日にかけての戦争指導部の無為無策、無分別な迷走が一連の大きな悲劇を生んだ事こそ重視せなばならない。
終戦後に様々な悲劇が待ち受けていて、その全貌は本書を読んで貰うしかないが、ここでは日本軍将兵の「シベリア抑留」問題に焦点をあてて内容を紹介する。
関東軍の兵士の処遇について、モスクワから時期が異なる二つの指令が出されていた。
第一の指令は8月16日に、「軍事捕虜はソ連領土に運ぶことはしない、捕虜収容所は武装解除の場所として組織する」というもの。
第二の指令は8月24日に、「極東及びシベリアでの労働に耐えられる軍事捕虜を50万人確保し、指示した場所へ輸送させる」というもの。
つまり8日間で全く正反対の指令が出されたことになる。
この謎を解くカギはこの間の関東軍の対ソ交渉にあった。この交渉で重要な役割を演じるのが大本営の浅枝繁春参謀だ。勅命を奉じて関東軍に派遣されるのが、その時に勅命をもって大本営より命じられた命令書は次のような要旨であった(朝枝が起案して大本営、最後には天皇の允裁を得ている)。
1.米ソ対立抗争という国際情勢を作り出すために、ソ連軍を速やかに朝鮮海域に進出させる。裏返せば満州や朝鮮の防衛など考えるなということだ。
2.大陸にいる日本人は出来るだけ多く大陸に残留させる。
朝枝が命令書に基き、軍使としてソ連軍幹部に面会し会談したのが8月21日だ。この面談の詳細は明らかでないが、ソ連軍側からは文書の形で陳情書を出すよう求められた。
この交渉を経て朝枝は8月26日付で「関東軍方面停戦状況に関する実現報告」という文書を大本営宛に提出する。この文書は斉藤六郎全国捕虜抑留者協会会長がソ連国防省公文書館で見つけたものだ。この中に「大陸に在留する邦人及び武装解除後の軍人をソ連の庇護下で満鮮に土着せしめて生活させるよう依頼する」という主旨の一項がある。
この「実現報告」にはソ連との交渉中の諸事項が書かれており、同じ内容が8月21日の朝枝軍使とソ連軍幹部との会談で話し合われた事は容易に推定されよう。
ソ連も署名したポツダム宣言には「日本国軍人は武装解除後に各自の家庭に復帰させ」とされていて、当初はソ連側も止むを得ず日本軍の兵士は日本に戻すという指令を出していたのだろう。
しかし日本側から現地土着の申し入れがあったので、これ幸いとソ連の労役に使うことに方針を切り替えたものと思われる。
かくしてソ連に抑留され強制労働させられた日本軍将兵は64万人に達した(日本以外ではドイツ人が238万人と最も多く、合計では世界24か国、417万人の人たちがソ連で強制労働させられた)。
8月29日には関東軍総司令部からソ連のワシレフスキー元帥あてに「陳情書」が提出されている。大本営から関東軍に派遣されていた瀬島龍三参謀によって書かれたもので、内容は先の朝枝が提出した「実現報告」書をさらに補強したものだ。
この中で総計135万人にのぼる在留邦人について「これらの大部は元来満州に居住し一定の生業を営みあるものにて、その希望者はあなるべく在満の上貴軍の経営に協力せしめ・・・」と書かれている。
これは日本政府がソ連に和平の仲介を頼んだ時の「和平交渉に関する要綱」に書かれた「現地土着方針」そのものだ。在満邦人は国家によって棄てられた「棄民」となってしまった。
この結果、満州で亡くなった一般日本人は24万5千人とされている。当時在満の一般日本人は135万人とされているので、率にして18%にのぼる。
但し、この24万5千人という数字は中国寄稿者問題同友会という民間団体が、生き残った関係者の記憶などから推定したもので、正確な数字かどうかは分からない。
長野県のある開拓団では詳細な調査を行っていて、その資料によれば死亡・未帰還・行方不明者の割合は約60%となっている。
ここから満州で亡くなった方の数は24万5千人を大きく上回ると想定されるが、日本政府による調査は行われていない。
在満邦人及び関東軍兵士の捕虜が辿った運命は筆舌に尽くしがたい過酷なものだった。
その原因がソ連による一方的な対日参戦にあることは言うまでもない事だが、今まで見て来た様に日本の戦争指導部による「合作」によって引き起こされた悲劇であったことも忘れてはならない。
本シリーズ5巻までで不破は冷静に筆を進めてきたが、こと日本に関係するこの章の記述だけは怒りに燃えて書いている。
日本の政治家の著作だから当然であるが。
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