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2016/06/05

国立演芸場㋅上席(2016/6/4)

国立演芸場6月上席4日目
前座・林家あんこ『転失気』
<  番組  >
柳家わさび『ぞろぞろ』
柳家小せん『新聞記事』
ひびきわたる『キセル漫談』
柳家さん生『親子酒』
柳家小袁治『堪忍袋』
─仲入り─
ホンキートンク『漫才』
橘家圓太郎『粗忽の釘』
伊藤夢葉『奇術』
柳家小満ん『船徳』

国立演芸場㋅上席は落語協会の芝居。久々の人もいて、それをお目当てに出向く。会場はまあまあの入りだった。
最近になって上方落語を聴く機会が増えたが、改めて東京落語の良さが噺家の「粋」にあることを感じる。もちろん上方の噺家にも亡くなった春団治の様な粋な人もいるが、少数だ。
東京落語の特長はクスっと笑わせる事にあると思う。腹を抱えて大爆笑なんてぇのは東京落語には似合わない。噺そのものも大事だが、着物の着こなしや高座での佇まいといった要素も重要視される。
反面、大衆芸能である落語は「観客の好み」の影響を強く受ける。落語を聴きに来る客層が変われば、高座も変わってくる。2000年頃の落語ブームから増え始めた客層は笑いを求める傾向が強いようだ。それに従い、若手を中心に「受ける」噺家に人気が集まってきた。このままいくと、落語界における「東西の壁」は消滅していくのかも知れない。

そろそろ女流の入門者を制限したらどうか。「男女共同参画」には大賛成だが、歌舞伎や能、狂言、落語といった世界は、元々が演者は男の世界だ。宝塚に男優がいないのと同様に、これは差別の問題ではない。申し訳ないが、女流の噺家で感心した人は一人もいない。
もっともこればかりは個人的な好みの問題ではあるが。

わさび『ぞろぞろ』、マクラで三平が「笑点」メンバーになった事をネタにしていたが、落語をまともにしゃべれない落語家を起用した日テレの担当者の見識を疑う。少なくとも他のメンバーはまともな落語が出来る人たちだ。
彦六の正蔵が十八番としていて、死後はしばらく演じ手がいなかったが、最近になってまた高座にかかる様になった。わさびは段々サマになってきている。
小せん『新聞記事』、軽い噺を軽く演ずる、いいねぇ。「逆上して切り込んでくる所を体(たい)を交わした」というのを「欲情して襲い掛かってきたので枕を交わした」と間違えるギャグは独自か。
さん生『親子酒』、久々だった。噺のリズムに独特のクセがあり、好みの分かれる所だろう。マクラで、小料理屋の女将は50歳位の未亡人が理想と言っていたが、アタシらの若い頃は30代バツイチが理想と聞いていた。全体の平均年齢が上がったので、理想の年代も高めになってきたようだ。手際よく短い時間でネタを演じた。
小袁治『堪忍袋』も久々だった。生まれも育ちも神田で、いかにも風情が江戸っ子。笑いを求めない淡々とした語りだったが、堪忍袋に舛添知事が「文春のバカヤロー」と吹き込むギャグが受けていた。
圓太郎『粗忽の釘』、隣家を訪れた大工が肝心の要件を忘れ、自分たちの新婚時代の思い出を語る場面を中心にしていた。夫婦が行水で洗いっこをしたり、力が入りすぎて盥の底が抜けて、果ては近所の子供たちとチンチン電車ごっこと、下ネタ版だった。この日一番笑いを取っていたが、「粋」とは無縁の高座。
小満ん『船徳』、前述の東京落語の特長からいえば、典型的な東京の噺家といえる。いつもの通り俳句をいくつか披露した後で、大川の屋形船をマクラに振っていた。あの屋根は日よけが目的だそうで、夏場は周囲に簾を下していた。「吹けや川風、上がれや簾」という唄の文句はここから来ていると。冬場は障子で囲み、中に炬燵を入れて暖を取る。客と芸者のさし向かえとなると船頭が気を利かして途中の「首尾の松」辺りで船を舫い、「ちょいと蝋燭が切れやしたんで、買ってきやす」かなんか言って、一時(2時間)ほどいなくなる。後は船の中で男女二人だけで、将棋を指していたなんてね。こういう所がファンには堪らないんだろう。このマクラだが、ネタの『船徳』のオリジナルである『お初徳兵衛』での重要シーンを暗示していて、実に味がある。
次いで舞台となる「柳橋」の解説に入る。隅田川と神田川の合流点で、その神田川側にかかる橋が柳橋。左に行けば浅草から吉原方面、右に行けば深川に。つまり交通の要所だったわけだ。こういう説明を聞くと、徳が竿から魯に変える場面や、三度ずつ回る場面などが目に浮かんでくる。
隅田川は大きいので川といっても多少は波があり、小さな猪牙船なら揺れることもあるだろう。小満んの高座は、暑い最中に船の中で奮闘する客と船頭の姿を鮮やかに描いていた。

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コメント

小せんがよくなってきて、小満んがますます、いいですね。
圓太郎はしばらくこのままでいくのかなあ。

佐平次様
小満んのマクラで柳橋の解説がありましたが、改めて地図で見ると確かに柳橋は水上交通の要所でした。ここに船宿が集中していた理由がよく分かります。船宿付近で船頭の練習をしていた徳に親方が、大川へ出ればこんなもんじゃないと諭すのも納得できます。
改めて落語のマクラの重要性を再認識しました。

「粗忽の釘」「船徳」
喜多八追悼、というのは穿ちすぎでしょうか?

小満んの蘊蓄は、衒学臭さが漂わず、自然に耳に入ります。
人柄でしょうね。

福様
ネタの選定に追悼の意味は無かったと思われます。
小満んのマクラはご指摘の様に衒学臭さがなく(ここが先代金馬とは異なる)、ネタの背景や季節感が表現されていました。

この国立の芝居、行きたくても行けないのですよ。

やはり、小満ん落語の世界、いいですよね。
ほめ・くさんの記事で、その場にいるような気持ちになれました。
国立、平日でも夜の部があれば、などと我がままながら、思う次第です。

小言幸兵衛様
小満んの高座を聴いて改めてマクラの大切さを痛感しました。
佐平次さんが行った日は『寝床』で、この日は『船徳』と黒門町の十八番が並んだようです。

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