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2016/07/23

【書評】「兵隊になった沢村栄治」

山際康之「兵隊になった沢村栄治-戦時下職業野球連盟の偽装工作」 (ちくま新書 2016/6/10初版)
本書は、戦前のプロ野球連盟が戦時下をどう切り抜けてきたかを中心に書かれている。同時に沢村栄治を始めとして多くのプロ野球創成期を担った名選手たちが、徴兵により戦地に行かされ命を奪われてゆく姿も描かれている。
日本でプロ野球がスタートするきっかけになったのは昭和9年11月20日の日米野球で、17歳の沢村投手がベーブ・ルースやルー・ゲーリッグといったアメリカのスター選手を集めて来日した全米チーム相手に、あわや完封かと思われた快投を行ったことに始まる。試合はゲーリッグのホームランにより1:0で日本チームが破れるが、スクールボーイ・サワムラの名前は全米を駆け巡った。
この結果が日本にも職業野球をいう機運を一気に盛り上げ、昭和11年2月6日に「日本職業野球連盟」が創立する。しかし創立総会から間もなく2・26事件が起きるなど、時期的には波乱含みのスタートとなる。
翌昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日本が中国へ攻撃を開始し、日中戦争が本格化する。
選手たちは徴兵検査を受けるが、もともと体格が良くて健康なので揃って甲種合格になる。そうなれば真っ先に戦場に行くことになる。この年の8月に早くも選手の一人が戦死する。
昭和12年の春季リーグで最高殊勲選手を受賞した沢村も、この年に郷里で徴兵検査を受け甲種合格。春にバッテリーを組んでいた捕手が前線で負傷し選手生命を絶たれたことを知り、自分の運命と重ねて落ち込んでしまう。そのためか、秋季リーグ戦では人が変わったように不振に陥る。
とうとう翌年の昭和13年1月に沢村は入営することになる。軍隊で期待されたのは彼の投擲力で、手榴弾を出来るだけ遠く、しかも目標を外さずに投げることが求められる。昭和14年になると沢村はもはや野球のことは忘れて、身も心も兵士となっていく。4月には大陸に派遣されるが、戦場は凄惨を極めていた。次々と仲間が殺されていく中で沢村の心も蝕まれ、敵陣に手榴弾を投げ込み、機関銃を撃ちまくり、白兵戦ともなれば容赦なく敵兵を刺殺した。
昭和15年になってようやく除隊となった沢村はチームに復帰するが、もはやかつての沢村ではなかった。2年間の軍隊生活が彼の体を野球選手から兵士に変えてしまった。ふがいない投球にスタンドから「そのザマはなんだ!」という罵声を浴びることもあった。

野球は元がアメリカのスポーツなので、昭和16年の日米開戦後は、軍部からの圧力が増してくる。先ずはチーム名を和名にしろという命令がくる。イーグルスは黒鷲になり、和名だった名古屋軍はユニホームの胸の「名」の字を変形してナチスの鉤十字に似せた。巨人のスタルヒンは「須田博」に変えたが、やがて外国人収容所に入れさせられる。
満州への遠征や、試合前の手榴弾投げ競争などの余興もやるようになる。
昭和16年10月には、ようやく調子を取り戻しつつあった沢村が再招集される。
軍部から連盟への要求はエスカレートしてゆき、引き分けが禁止となる。勝負は決着がつくまでやれというのだ。9回表までにリードしていたら裏は攻撃しない「アルファ勝ち」も禁止となった。勝負は最後までやれというのだ。野球のルールなど全く知らない軍人が命令するのだからトンチンカンなものになる。
敵性後の禁止は度合いを増し、やがてストライク、ボール、アウト、セーフなどの用語も禁止となる。
ストライク・ワン→ヨシ、1本
ワン・ボール→一ツ
フェア、セーフ→ヨシ
ファウル→ダメ
アウト→引ケ
次いで、徴用された人たちが働いていた産業戦士たちの職場を訪問し、慰問のための試合を行うようになる。
軍部はさらにルーズベルトに似た藁人形をグランドに作り、それを的にした遠投競争をさせよと言い出す、さすがに連盟もそれは受諾ぜず、代りに選手たちに銃剣術の余興を取り入れることにした。軍部は喜んでこの提案を受け入れた。軍人といえども、所詮は小役人の根性丸出しだ。
昭和18年1月に2度目の除隊となった沢村はチームの主将としてこの訓練に参加している。しかし2度目の軍隊生活で沢村は投手としては全く使い物にならず、時々代打で登場する程度になってしまった。
球団は選手を守るために大学生として登録し徴兵逃れを図ったが、それも学徒動員令で不可能になった。
昭和19年に入ると、連盟は選手を産業戦士として色々な工場に派遣させることにした。午前は工場、午後からは野球という生活だ。
全ては、戦時下で何とか職業野球を存続させるために連盟が行った偽装工作と言ってよい。
そうした努力も空しく、ついに昭和19年11月13日、連盟は野球を休止することを発表する。ここに結成以来9年間で、職業野球は休止のやむなきに至った。
前年に巨人軍から解雇された(この本で初めて知ったのだが)沢村は大阪の南海電鉄の車両工場で働いていた。同じ工場で勤労奉仕していた南海の選手相手に昼休みになると練習の汗を流していた(沢村は一時期南海に所属したという説もあるらしい)。今一度職業野球で投げる夢は捨てていなかったのだ。
その沢村が3度目の召集がかかったのは昭和19年10月だった。「おい、行ってくるわ」という言葉を家族に残して、門司港から出港して間もなく米軍の潜水艦に撃沈され、生存者は誰もいなかった。
この戦争で、沢村とバッテリーを組んだ名捕手の吉原正喜や、阪神の4番バッターであり投手でもあった景浦将ら多くの名選手が帰らぬ人となった。

戦争の影が近づきつつある今、こよなく野球を愛する人も、そうでない人も、手に取って見る価値がある本だと思う。

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コメント

沢村の悲劇、おおよそのところしか知りませんでした。
本人の心も変わって行ったのでしょう、それがかわいそうです。

佐平次様
無理な手榴弾投げで肩を壊し、常に死への恐怖と向き合う中で精神的にも参っていたのでしょう。巨人から解雇されていたのは意外でした。

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