フェルッチョ・フルラネット「ロシア歌曲」(2016/10/7)
〈歌曲(リート)の森〉~詩と音楽Gedichte und Musik~第20篇「フェルッチョ・フルラネット」
日時:2016/10/7(金)19時
会場:トッパンホール
フェルッチョ・フルラネット(バス)
イーゴリ・チェトゥーエフ(ピアノ)
< プログラム >
ラフマニノフ:
運命 Op.21-1/夢 Op.8-5/リラの花 Op.21-5/夜の静けさに Op.4-3/
ここはすばらしい場所 Op.21-7/私は彼女の家に行った Op.14-4/時は来た Op.14-12/いや、お願いだ、行かないで Op.4-1/春の洪水 Op.14-11
ムソルグスキー:悲しげに木の葉はざわめく/あなたにとって愛の言葉とは何だろう/老人の歌/夜/風は激しく吹く
歌曲集《死の歌と踊り》トレパーク/子守唄/セレナード/司令官
他に、アンコールで3曲。
素晴らしい。
感動した。
と言えるコンサートなど滅多にないが、この日のフェルッチョ・フルラネットのコンサートは正にその通りだった。
先ず、声が良い。重低音はホールの壁まで震わせるがごとくであり、観客の肺腑にしみわたる。人体こそ最高の楽器であることを実感する。
プログラムの冊子に書かれているが、私たちに馴染みのある「ロシア歌曲」というのはロシア民謡まがいや、ソ連時代の歌謡曲(「カチューシャ」「ともしび」「バルカンの星の下に」などはソ連の戦時歌謡だ)か、せいぜいグリンカ、チャイコフスキーの曲の一部だった。
ところが冊子の解説者に言わせると、グリンカ、チャイコフスキーの曲は旋律の美しさ優先で作られているのだそうだ。
それに対してこの日のラフマニノフやムソルグスキーの曲はロシア語が優先されており、言語的拍節と音楽的拍節が一致していると書かれている。
確かにこれは歌曲の基本だ。
この点は残念ながらロシア語は拾い読み程度はできるが、アクセントやイントネーションには無知なので、曲を聴いていても理解はできなかった。
言語的拍節と音楽的拍節が一致といえば、日本の国歌として歌われる「君が代」は変だ。一致していないのだ。最終的にドイツ人が西洋的和声をつけたせいなのか、どうも歌詞と曲がピッタリこない。曲だけ演奏している分にはまだ良いのだが、「きぃみぃがぁよぉわぁ」と歌詞をつけて歌うとなんだか間延びしてしまうのだ。
閑話休題。
フェルッチョ・フルラネットの歌唱に戻るが、情感が素晴らしい。
ラフマニノフの曲では、冒頭の「運命」はタイトルから察せられる通り、最初にベートーベンの「運命」のメロディが流れ、運命が「友よ、幸福を追い回すのはやめろ!」と言いながら、コツコツコツと戸を叩く。フルラネットが歌うそのタップする音が身体の中まで響いてくる、ドラマチックな世界。
一転して「夢」や「リラの花」では抒情の世界を、「雪解け水」では雪国の春の息吹と迸る水の勢いを感じさせる。
ムソルグスキーの曲ではやはり「死の歌と踊り」が圧巻だった。4曲に分かれているが、いずれも死神が共通だ。「トレパーク」では貧しい農夫に、「子守唄」では母親が抱く幼子に、「セレナード」では病んだ娘に、「司令官」では戦場の兵士に、それぞれ死神が忍び寄る。
特に幼子を死に導こうとする死神と、必死に抵抗する母親する激しい争いは聴いていて心が打たれる。
「司令官」では戦が終わって骸となった兵士たちの上に巡回する死神こそが司令官だと宣言する。
19世紀末の疲弊したロシアの状況が描きだされている。
満足感と幸福感に満ちたコンサートだった。
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