「珍芸四天王」と寄席の歌
明治の落語家で「珍芸四天王」と称され大変な人気を誇ったのが、「ラッパの圓太郎」こと4代目橘家圓太郎、「へらへらの萬橘」こと初代三遊亭萬橘、「ステテコの圓遊」こと初代三遊亭圓遊、「釜掘りの談志」こと4代目立川談志の4人だ。
何しろ圓太郎がチャルメラの様なラッパを吹いて高座に上がる姿から乗合馬車が「圓太郎馬車」と呼ばれたり、圓遊のステテコ踊りが有名になって今でも膝から下の長さのズボン下を「ステテコ」と呼んでいるほどの影響力があった。
この4人の中で圓太郎を除く3人は特定の「寄席の歌」と縁がある。
下記にそれぞれの歌の歌詞の一部を紹介する。
【すててこの圓遊】
圓遊は歌に合わせて、着物の裾からステテコを見せながら踊った。
「すててこ」
向こう横町のお稲荷さんへ一銭あげて
ざっと拝んでお仙が茶屋へ
腰を掛けたら渋茶を出した
渋茶よこよこ横目で見たらば
米の団子か土の団子か
団子で団子で此奴(こいつ)は又いけねえ
ウントサノドッコイサ
ヨイトサノドッコイサ
ウントサノドッコイサ
ヨイトサノドッコイサ
せっせとお遣りよ
註)
お仙:谷中・笠森稲荷前の茶屋「鍵屋」にいた評判の美人だった。
米の団子、土の団子:笠森稲荷へ瘡(かさ)の治癒を願う時は「土の団子」を、治った人は「米の団子」をお供えした。
【ヘラヘラの萬橘】
萬橘は歌に合わせて、赤い手拭いと扇子を振りながら立膝で踊った。
「ヘラヘラ」
赤い手拭い 赤地の扇
それを開いてお目出たや
ヘラヘラヘエノ ヘラヘラヘ
太鼓が鳴ったら賑やかだよ
本当にそうなら済まないね
トコドッコイ
ヘラヘラヘエノ ヘラヘラヘ
【釜堀りの談志】
「郭巨の釜掘り」は落語『二十四孝』でおなじみだが、談志は高座で座布団を釜に、扇子を鍬に見立てて土を掘る仕草をしながら「この子あっては孝行はできない、テケレッツのパッ! 天から金釜郭巨にあたえるテケレッツのパッ! 皆さん孝行しなさいよテケレッツのパッ!」という文句を繰り返した。
「テケレツパ」
とかく浮世は 苦娑婆とやらで
ほしがる大家にお子がない コリャ
食わせるあてない びんつくは
あしたの費用もないくせに
子だからばっかり たんとたんと
テケレツパ
「珍芸四天王」以外で明治時代の「寄席の歌」には、下記の様なものがある。
【オッペケペー節】
川上音二郎の作品で、明治23年に音二郎が京都・新京極の笑福亭で初披露。翌24年に東京・中村座で公演して以来、全国的な大流行となった。
「オッペケペー節」
権利幸福きらいな人に
自由湯(とう)をば飲ませたい
オッペケペ オッペケペッポー
ペッポーポー
儘(まま)になるなら自由の水で
国の汚れを落としたい
オッペケペ オッペケペッポー
ペッポーポー
【縁かいな】
明治24年に寄席で歌われていたとの記録があるが、演者は不明のようだ。
現在も寄席の音曲の芸人により高座で披露されている。
「縁かいな」
夏の涼みは両国の
出船入船屋形船
あがる流星ほし降(くだ)り
玉屋が取り持つ縁かいな
註)
あがる流星ほし降り:流星も星降りも花火の種類。
玉屋:花火業者、江戸末期に失火し廃業。
【やっつけろ節】
明治24年に春風亭雙枝が初めて寄席で披露した。
「やっつけろ節」
開けたよー 古今未曾有の国会が
実(げ)にも開けてお目出度イ
万世経(ふ)るとも かわらじな
四千余万の同胞よ
つくせや尽くせ国の為
尽くさにゃその時 やっつけろー
【推量節】
明治25年に大阪から上京した西国坊明学が寄席で歌って評判になった。
「推量節」
好きとエー ありゃ推量推量
私の誓約(ちかい)をこめて
ちょいと さのよやさのさ
二つ こらしょい 並べし神酒徳利
ヨイヤサノ ヨイヤサ
サイト アリャサー コリャサー
サートセ セノエ ありゃ推量推量
【きんらい節】
明治25年に落語家の騎江亭芝楽が作ったとされる。
現在も寄席の高座で柳家小菊が歌うことがある。
「きんらい節」
浦里がア 忍び泣きすりゃ緑も供に
貰い泣きする明烏
キビス ガンガン イカイドンス
キンギョクレンスノ スクレンボウ
スッチャンマンマン カンマンカイノ
ヲビラボウノ キンライライ
あほらしいじゃ をまへんか
かみさん きててやをまへんか
毎晩きててや をまへんか
をふきーに はばかりさん
註)
浦里:「明烏」で時次郎の相方
緑:禿(かむろ)の呼び名
(以上は、倉田喜弘編「近代はやり唄集」より引用、一部は現代仮名遣いに直している。)
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