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2016/12/10

「忠臣蔵」ならぬ「吉良のご難」

12月14日が近づくと、毎年TV番組などで「忠臣蔵」関連の番組が組まれたり、ドラマや過去の映画が再放送されたりするのが慣わしとなっている。
今年は国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の通し公演が3か月にわたって行われ、同じく小劇場では文楽の人形浄瑠璃による通し公演が行われている。
しかし良く考えてみれば、「忠臣蔵」(以下「赤穂事件」と呼ぶ)ぐらい被害者と加害者が逆転して描かれ、加害者側が一方的に賛美されている事件というのは稀だろう。
フィクションと事実との境目がアイマイになり、フィクションがあたかも事実の様に受け取られている事件としても特徴的だ。
江戸の元禄年間に起きた「赤穂事件」とは、次の通りだ。

【刃傷】
元禄14年3月14日、江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。
幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。
内匠頭の弟で養子の浅野大学は閉門、赤穂藩の江戸藩邸と赤穂城は収公され、家臣は城下から退去となった。
【討ち入り】
翌年の元禄15年12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が、江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた。
今回の事件に対する幕府の裁定は、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。

以上が赤穂事件の事実である。
2件とも浅野側が吉良側を一方的に襲ったものであり、吉良は完全な被害者だ。しかも吉良はフィクションで悪者扱いされていて、まさに踏んだり蹴ったりである。
この事件の不可思議な点は、先ず発端の刃傷事件にある。
意外と思われるだろうが、吉良上野介が勅使接待の補佐役に浅野内匠頭を任命したのは二度目だった。この年に朝廷側との折衝で何かと多忙を極めていた吉良が、二度目で馴れているからと浅野を指名していた。従って勅使接待の作法を吉良が意地悪して浅野に教えなかったという風説には根拠がない。
勅使は3月11日に江戸城に来訪、3日間の行事を済ませて14日に帰るというその日に刃傷事件が起きる。

この事件では当事者の二人以外に至近距離から事件を目撃し、乱心する浅野を取り押さえた人物がいる。旗本の梶川与惣兵衛である。
梶川の当日の役目は、御台所(みだいどころ:将軍綱吉夫人)から勅使への贈り物の取り次ぎ係だった。
その日、梶川は同役から勅使の時間が早まったようだと聞かされる。そうなると全体スケジュールに影響するので、とにかく責任者である吉良上野介を探し事実を確認しようとした。
途中で浅野内匠頭とばったり会い、互いに挨拶を交わした。
その直後、松の廊下の中ほどで吉良と出会い二人で面対し、勅使の時間が早まったことを話し合っていた。
その時、吉良の背後から浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら、吉良の背中を斬りつけた。
振り返った吉良の額を浅野が斬りつけ、逃げようと再び梶川の方へ向かった吉良を浅野は背後から更に斬りかかる。
制止しようとした梶川の手が、浅野の持つ小刀の鍔にあたり、梶川はそのまま押し付けすくめた。
梶川は浅野の手を小刀もろとも離さず、駆けつけた他の者と共に浅野を別の部屋へ連行し、引き据えた。
吉良は軽傷だったため、治療を受けた後に帰宅した。

この「刃傷事件」の最大の謎は、浅野の動機が今日に至るまで不明であることだ。
取り調べにあたった多門伝八郎が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で、「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」と述べたという。
また浅野内匠頭は事情聴取に対し「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている。
一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている。
しかし、浅野はその「私的な遺恨」について具体的なことは最後まで語らなかった。
事件が浅野の一方的な刃傷であったとしても、原因が吉良の悪口雑言であったとしたら、それは刃傷の正当な理由になった。この場合には、吉良に対しても厳しい措置が取られたであろう。
事実、寛永4年の殿中刃傷事件では、口論が原因とされて加害者と同時に被害者側もお家断絶の処分になっている。
これでは浅野に対しては切腹を命じ、吉良にはお咎めなしという幕府の裁定は当然ではあるまいか。

もう一つの疑問は、浅野が取り調べで「上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ」と言っているが、果してそうだっただろうか。
浅野は無防備の吉良を2回斬りつけたにも拘らず、吉良のダメージは額を6針、背中は3針縫って治療は終わっている。吉良はそのあと、湯漬けご飯を2杯食べて元気を取り戻したと医者が記録している。
浅野は脇差しではなく礼式用の小刀を手挟んでいたが、もし小刀で相手を殺害しようとするなら、斬りつけるのではなく刺殺せねばならない。
吉良の背後から刺し、振り向いた所をさらに前面から刺していたら、高齢の吉良は致命傷を負っただろう。
さすれば事件もここで完結していた。

赤穂の浪士たちも幕府の裁定に不服なら、怒りの矛先は幕府に向かわねばならぬ筈で、吉良への復讐は筋違いだ。
幕府もそれを察し利用して、討入り後に吉良家に対して改めて重い処罰を下したのかも知れない。
短慮な大名の軽率な行動が大きな悲劇を生んでしまったが、それがフィクションとして書き換えられ、義士として賛美されて後世に名を残す結果になったのは、歴史の皮肉ということか。

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コメント

トルストイによれば戦争は「数十億、数百億の原因が、ひとつに結びついたのだ」由。
芝居ではお軽の軽々しさがなければ事件は起きなかったことになっていますが。

佐平次様
私は赤穂事件の鍵を握るのは浅野内匠頭が刃傷の理由を語らなかったことにあると思っています。
家来からすれば理由が分からないだけに、あれこれ殿の胸中を忖度し、次第に怒りを募らせた。
理由が分からなかったこそ、戯作者の想像も自由に膨らますことができた。
討入りが成功すると幕府は、刃傷事件にまで遡って吉良の過失を言い立てて罪をかぶせてしまう。
後の政府は、事件を忠君の手本として最大限に利用する。
ざっと、こんな見立てです。

浪士の討ち入りには、荻生徂徠や佐藤直方の厳しい意見もあるようです。
厄介なのは「仮名手本忠臣蔵」が当たってしまい、歴史的事件と芝居とが重ね合わせて伝えられたことにあるのではないでしょうか。

福様
幕府は荻生徂徠らの意見を採り入れて浪士を切腹させるのですが、同時に吉良家を取りつぶしてバランスを取りました。
「仮名手本忠臣蔵」がフィクションとしてあまりに良く出来過ぎていて、事実との混同が起きているのでしょう。

赤穂事件を美化するあたりに、先の大戦につながる悪しき伝統があるような気がします。極論は承知ですが。

やま様
お説の通りで、戦前政府は浪士たちの忠誠心を天皇や国家への忠誠心にすりかえ、忠君愛国のイデオロギーとして利用しました。
今日でもその恐れなしとは言えません。

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