小林一茶、もう一つの顔
一茶といえば幼い時に実母と死に別れ、継母に虐められて育ちながら、幼子や雀、蛙などの小動物にまで愛情をそそいだ好々爺というイメージがあるが、これと真逆な人間像が存在している。
15歳で故郷を出て江戸に、24年後の享保1年に実父・弥五郎の重病を知り、故郷の北国街道柏原宿に戻る。この時、重篤状態にあった弥五郎から、異母弟の弥兵衛と遺産を二分割する旨の遺書を獲得する。
一茶が不在だった24年間、故郷の生家を守り続けたのは継母と弥兵衛だった。
それが四半世紀も留守にしておいて、いきなり遺書をつきつけ遺産分割を迫る一茶に、継母と弥兵衛は激怒する。
近所同族はもちろんのこと、柏原宿の住民皆が弥兵衛家族に同情し、一茶は村八分同然の身となる。
しかし、一茶はひるむことなく相続を履行する契約証文をとりつけ、最後は江戸訴訟までちらつかせて脅し、粘りに粘る。
この結果、一茶51歳の文化10年には、柏原宿の屋敷真半分と、留守中の家賃元利まで上乗せしてむしり取り、帰住したのだ。
(以上は、月刊誌「図書」2017年9月号に掲載の高橋敏「一茶の遺産相続」を要約)
余談になるが、52歳の時に28歳の妻を娶るが(初婚)、妻は一茶との毎日3回の情交が原因で37歳に亡くなる。
これは、逆『短命』ですね。
一茶はその後、62歳と64歳の時に再婚、再々婚している。
一茶にしても衣食足りてなんとやらで、生活が安定していたからこそ、あれだけの発句が生まれたのかも知れない。
激しい性欲も、創作活動のエネルギーの発露か。
人間というのは実に色々な面を持っている。だから面白いのだ。
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一茶は私小説。生活が作品化された(という解釈が入りやすい)ということです。
私はかつて江戸三大俳人が実は何を隠そう探偵で、その成果が彼らの名句、という小説を考えたんですが、結局果たせずじまい・・・
井沢元彦に期待するしかないか。
投稿: 福 | 2017/09/04 20:22
福様
一茶の句については、私たちが学校で習った解釈とは別の観点で眺めてみる必要があるのかなと思います。
ただ俳句といえども文学(フィクション)ですから、どこまで作者の実生活が反映されているかという問題はあるでしょう。
投稿: ほめ・く | 2017/09/05 08:55
一茶の生家などを見ると衣食足りていたとは思えません。
好々爺だとも思えないけれど。
投稿: 佐平次 | 2017/09/06 10:24
一茶は、遺産相続で12年間義母と異母弟と争い、半分を手にしたそうですね。
52歳でこの世の春を取り戻すべく、妻に月の物が来ても、コウノトリが来た後でさえ、妻に休養を与えなかったそう。
せっかく授かった4人の子供は、全て早世。
おそらく、日の目を拝めなかった子供もいたのでは!?と思います。
おぞましいです。
投稿: 三毛猫 | 2017/09/06 10:35
佐平次様
一茶の取り分としては田4~6反、畑3反歩、山林3ヵ所、他に家屋敷半分、世帯道具一式で、これは当時の村では中の上だったようです。
一応、生活には困らない程度のレベルだったのでしょう。
投稿: ほめ・く | 2017/09/06 12:03
三毛猫様
房事過多のエピソードは、かえって一茶に親しみを感じます。もちろん、私は遠く及びませんが。
投稿: ほめ・く | 2017/09/06 15:45