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2018/02/27

「皇軍」の実態

Photo吉田裕「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」 (中公新書 2017/12/20初版 )

日中戦争から日米開戦を経て終戦に至る期間(「アジア・太平洋戦争」)の戦没者の人数は次の通りだ(いずれも概数、アジア地域は推定値で住民を含む)。
1.日本 310万人
【内訳】
軍人・軍属 230万人
(内、日本軍兵士として戦没した朝鮮人と台湾人 5万人)
外地の一般邦人 30万人
国内の戦災死没者 50万人
2.米軍 9.2万人
3.ソ連軍 2.3万人
4.オランダ軍 2.8万人
5.中国 1000万人
6.朝鮮 20万人
7.フィリッピン 111万人
8.マレーシア・シンガポール 10万人
9.ベトナム、インドネシアなど 不明
私たちはどうしても戦争による国内の犠牲者に目が生きがちだが、日本が起こしたアジア・太平洋戦争で犠牲者の人数に改めて慄然となる。また犠牲者の多くが日本と交戦あるいは占領したアジア地域の人々だったことを忘れてはならない。

著者の専門は軍事史で、本書で著者は、
①歴史学の立場から「戦史」を主題化する
②「兵士の目線、「兵士の立ち位置」」を重視する
③「帝国陸海軍の軍事的特性」が現実に与えた影響
といった観点から本書をまとめている。
特に最近になって強まっている日本や日本軍礼賛本が、およそ現実から離れた戦争観に基づくものと断じている。

本書を一読して感じるのは、よくもなあこんな無謀な戦争を引き起こしたものだという感慨と、怒りだ。
日本人の犠牲者310万人のうち9割は1944年以降と推算される。つまり戦局でいえば絶望的抵抗期に犠牲者が集中しているのだ。

では日本軍兵士はどのように死んでいったのか。
戦闘以外の病気などで死んだものを戦病死とすると、その割合は日中戦争までの間では50.4%だった。
対米開戦以後の統計が無いので、ある部隊の「部隊史」によると73.5%に達していた。著者はそれでも過少であると推定している、なぜなら戦病死より戦死の方が名誉なので、戦死に付け替えたものが無視できないからだ。
いずれにしろ、戦病死が異常に高いというのが日本兵の特徴だ。

日本兵の死のもう一つ大きな特徴は、「餓死者」が多いことだ。
これも統計データが無いので研究者による推定の数値になるが、栄養失調による餓死と栄養失調が原因で病気を併発した死者の合計を広義の「餓死者」とすれば、全体の61%に達するという。
別の研究者によれば38%という説もあるが、いずれにしろ異常な高率であることに変わりない。
原因は明白で、戦線を拡大した一方で補給体制が追い付かず、兵士が深刻な食糧不足に陥ったためだ。

戦闘中に艦船が沈没したことに伴う死者を「海没死」というが、この数が35万人である。
最も多かったのは兵士を輸送する輸送船での死者で、民間から徴用した貨物船を改造したものを輸送船として使ったものが多く、容易に艦船の攻撃で沈没した。また狭い船内に多数の兵士を詰め込んでいたため、助からなかったのだ。

次にあげるのは「特攻死」だ。
航空特攻は1944年10月のレイテ沖海戦で初めて組織され、当初は体当たり攻撃により米軍空母の甲板を一時的に使用不能にするというものだった。
それが次第に過剰な期待に変わり、1945年になると特攻が主要な攻撃手段となってゆく。
特攻隊員による戦死者は海軍が2431名、陸軍は1417名、合計3848名。
一方、特攻攻撃による戦果はを見ると、空母や戦艦、巡洋艦など主力艦船の撃沈はゼロ。撃沈できたのは商船を改造した小型空母3隻、駆逐艦13隻、その他輸送船など31隻だった。
軍が描いた、特攻攻撃によってサイパンまで取り返すというのは空想に過ぎなかった。

この他に大きな問題であったに拘わらず、表に出ていない事項がいくつか採り上げられている。
①自殺率が世界一
原因の多くは軍内部の私的制裁による。こうした私的制裁はいちおう軍隊では禁止されていたが、兵士が人間性や理性をそぎ落とし、上官の命令には絶対服従させるための教育として黙認されていた。
時には暴行により死亡した例もあったが、事故死として処理され軍法会議に掛けられる例はほとんど無かった。
また、長期の戦闘や行軍により発狂したり、自殺したいした例も少なくなかった。
②「処置」という名の殺害
「戦陣訓」では「生きて虜囚の辱めを受けず」として、事実上日本兵が相手方の捕虜になることを禁じていた。
日本軍が退却を迫られたとき、病気や負傷で動けなくなった兵士に自殺を強要したり、殺害することが行われていた。
③強奪や襲撃による殺害
食糧不足になると、味方の日本軍を襲い食糧を強奪するような事態も起きていた。
ルソン島では食糧強奪のための殺害や、人肉食のための殺害まで起きていた。
島で終戦を迎えたある軍医は、日本軍の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリッピン人ゲリラ、そして第三の敵は日本兵の一群だったと述懐している。

ここまでが第一章で、第二章「身体から見た戦争、第三章「無残な死、その歴史的背景」へと続く。
「皇軍」とな名ばかりの凄まじい日本軍兵士の実態が、統計データや記録などによって詳細に示されている。
特に、日本軍の特異な軍事思想として
①見通しの立たぬままの「短期決戦」の偏重
②「作戦至上主義」により、補給、衛生、情報、防御を軽視
③極端な精神主義
④敵軍に対する過小評価
を上げている。
これらの点は、今日の日本の政治状況や、一部の日本人の中にも依然として残存している。

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コメント

読もうかどうか、迷っています。

佐平次様
私たちの世代は戦争を経験してなくとも、親や周囲の人間から聞かされていたことも多く、ある程度の知識は持っています。
そうでない世代の方には手に取って欲しい本だと思います。

初めまして。
落語を楽しみにして「寄席(新宿か池袋)」に出かけています。

事実を見ようとしないばかりか改竄しようとするその卑劣さに辟易しています(あんな連中は落語も浪曲も歌舞伎も浄瑠璃も知るまい)。
旧軍(官僚)のいい加減さは現代にも引き継がれているようです ←清谷信二公式ウェブ(フリー軍事ジャーナリスト)をご覧ください。納税者として心底落から胆するばかりです。

Yackle様
ようこそ。
自分たちに都合の悪いことは隠蔽するという政治家や官僚の体質は変わりません。
きついお灸をすえねば治らないでしょう。

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