メディアの扇動と国民の熱狂が導いた「アジア・太平洋戦争」(3)国際連盟からの脱退
(3)国際連盟からの脱退
日本の国際連盟からの脱退は、その後の日本の進路に大きな影響を与えた。
脱退に至った経緯は次の通りだ。
1931年に満州事変が起きると中国は直ちに国際連盟に提訴した。国際連盟理事会は実情把握の必要から調査団を派遣することを決定し、イギリスのリットン卿を団長に選任した。
日本は1932年1月に上海事変を起こし、中国本土に戦火を拡大、国際世論の反発を受けた。また同年3月1日には満州国の建国を宣言した。
リットン調査団は1932年の3月から6月にかけて日本、満州、中国各地で調査にあたり、10月に報告者を公表。
リットン報告書の骨子は、満州事変は日本の侵略行為であり、自衛のためとは認定できないというものであった。ただし、満州における日本の権益は認められるとして、そこに日本と協力する自治的な政権が成立することには容認できるとしていた。日本軍に対しては満州からの撤退すべきであるが、南満州鉄道沿線については除外した。
この様にリットン報告書は、満州事変は日本の侵略行為と認定しながら、日本の満州での権益を認めるという妥協的な内容であった。それはまた欧米帝国主義の視点に立ったもので、中国の独立や中国民衆の保護の立場は一切無視するものだった。
にも拘わらず、軍部は侵略行為と断定されたことによって満州国も否認されたものとして強く反発し、国内にもそう宣伝した。
政府内では、国際連盟からの離脱は必要ないという意見が主流だった。
1932年10月、国際連盟の総会に出席する松岡洋右全権大使に対する政府の指示は「連盟側をして或程度その面目を立てつつ事実上本件より手を引かしめる様誘導うること」であって、連盟脱退することなど、どこにも書かれていない。
国連法では、勧告を無視しても制裁を受けることがなかったので、そのまま連盟に留まっていれば良いというのが主流だった。
いま北朝鮮やイスラエルが何度も国連から非難決議を受けても脱退せず、国連に留まっているのと同じ理屈だ。
この状況が大きく変わったのは、12月に全国132の新聞が、リットン報告書拒否共同宣言を出したことだ。つまりメディアが対外強硬論で一致したことを示したのである。
これで軍部はすっかり勢いづいた。
翌年2月には、日比谷公会堂で「対国際連盟緊急国民大会」が開かれ、以下のような宣言が採択された。
「(前略)政府は宜しく速やかに頑迷なる国際連盟を脱退し直ちに公正なる声明を中外に宣言し、帝国全権をして即時撤退帰朝せしむべし。」
この大会の模様はNHKが全国に中継した。なにせ当時はラジオ放送はNHKしか無かったので、この影響は絶大だった。これはまたNHK放送が政治的影響を与えた最初の出来事となる。
松岡全権の背後にはこうした国民の声があった。
2月の閣議決定を受けて、日本は正式に国際連盟から脱退し、国際的孤立化の道を歩むことになる。
いまヨーロッパ各国でポピュリズムを唱える政党や極右政党が勢力を伸ばしており、既に政権に参加している国まで現れている。米国の大統領もこの流れと見てよい。
わが国では、政権が一部のメディアに対する圧力を強めながら、政権のお先棒をかつぐメディアには優先的に重要な情報を流すなど、メディア選別を強めている。
私たちは戦前を教訓として、決して同じ轍を踏まぬようにせねばなるまい。
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