漁色家だった「勝海舟」
月刊誌「選択」9月号に石井妙子が勝海舟について書いている。
石井が「文芸春秋」編集者の依頼で、以前に勝海舟の家系図を調査したことがあったという。
勝といえば江戸っ子の旗本というイメージが強いが、代々の武士でもなければずっと江戸にいたわけでもない。
曾祖父は越後の生まれで盲人だった。江戸に出て金貸し業で成功し、その金で御家人株を買うと、息子の平蔵を武士にした。その息子・小吉が旗本の勝家に婿に入り、勝小吉となる。
余談だが、阪東妻三郎が遺作となった映画「あばれ獅子」でこの小吉を演じていた。
小吉の長男が麟太郎、後の勝海舟だ。
ただ、身分が低い上に幕末の混乱期とあって、暮らしは赤貧洗うがごとくだった。
正妻はお民といって、薪問屋兼質屋の娘で、一時は深川で芸者をしていた。
当時の海舟の生活は、天井さえも薪にしてしまい雨露も凌げないという悲惨な暮らしぶりだった。
それでも気丈なお民は必死に切り盛りをして、娘二人と長男・小鹿を産み育てた。
一方、勝海舟は才能を見込まれて幕府に取り立てられ、長崎の海軍伝習所に赴任する。出世し始めると同時に、勝の女道楽も始まる。
長崎では年若い未亡人と関係を持ち子どもをつくるが、この子を引き取るとお民に育てさせる。
その後米国に渡り帰国して赤坂に邸を構えると、家の女中や手伝いに来た女性たちに次々と手を付けだす。
お糸、お米、おかね、おとよ・・・・・・。妻妾同居を実践し、生まれた子どもは妻のお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。
お民としては、さぞかし辛い思いをしたに違いない。
それなのに勝は、「俺の関係した女が一緒に家で暮らしていても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っていた。
明治32年に勝が死去し、その6年後にお民が亡くなるのだが、この世を去る前にお民は「夫の隣は嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱりと言い残していた。
ここでしっぺ返しが来たわけだ。
長男の小鹿はとても優秀だったが、残念なことに病弱で、39歳の若さで亡くなっていた。
お民の遺言通りに、夫の隣ではなく、息子の隣に埋葬された。
処が、その後子孫の手で夫の隣に墓石が移されてしまった。
泉下で、果たしてお民はどう思っているだろうか。
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〈戸なし長屋〉の八公や熊さん並み生活だったのですね>貧しいころの海舟。
仄聞によれば「性被害に遭った女性は〈すき〉があったからだ」と言う刑事裁判官がいたそうですが♯Me too 以後の世界では忌避申し立てされるべきマッチョ判事といわねばなりますまい。「浮気は男の甲斐性」「女遊びは芸の肥やし」もう公には言い訳にならぬ世の中になったようです
(連れ合いとは同じ墓で眠りたいものです)
投稿: Yackle | 2018/09/05 22:44
Yackle様
まさに、戸なし長屋も顔負けの勝家の状態でした。
家の女中に次々と手を付けるとは、女遊びにしてもセコイです。
投稿: ほめ・く | 2018/09/06 04:05
また御無沙汰しています。今は東京ですので、近いうちに御挨拶出来ればと思います。
海舟の先祖については、山田風太郎の短編『からすがね検校』がありますね。意図的な変更があるようですが、「真実」と思わせる迫力です。
投稿: 明彦 | 2018/09/13 00:01
明彦様
お久ぶりです。
この記事で注目したのは、金で武家の株が買えるという点です。
徳川政権も末期になると、身分制度自体が崩壊していた。ヤクザの力を借りなくては治安が保てない状況にあった。
武家制度の崩壊は必然的だったということでしょう。
投稿: ほめ・く | 2018/09/13 04:50