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2018/11/01

日本の抒情歌謡10選

抒情歌の定義について「Wikipedia」では、作詞者の主観的な感情を表現した日本語の歌詞に、それにふさわしい曲を付け、歌う人や聴く人の琴線に触れ、哀感や郷愁、懐かしさなどをそそるものとしている。
故郷や家族、愛する人への思いを歌い上げた歌謡曲の中から、特に印象に深く残っている10曲を選んでみた。
戦前の3曲はいずれも太平洋戦争とは切っても切れない曲だ。
戦後の7曲は、復興から高度経済成長期にかけて多くの若者が農村から都会へ移動してきた。彼らの望郷の念や別離の悲しみ、家族や親しかった人たちへの思いを歌ったものになった。
選曲された10曲は大半が1940-1950年代のもので、同じ境遇に置かれた同時代の人たちの共感を得ることが出来たのだろう。

「湖畔の宿」(1940年、高峰三枝子)
歌う映画スターっといえば、男優なら高田浩吉で、女優なら高峰三枝子だった。松竹の看板女優として活躍しながら、戦前から戦後にかけて多くのヒット曲を放った高峰三枝子の代表曲の一つ。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が時局に適さないとして発売禁止となった。しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあった。

「誰か故郷を思わざる」(1940年、霧島昇)
次々とヒットを飛ばし、「コロムビアのドル箱」と称された霧島昇の代表曲の一つ。
発売したレコードはタイトルが硬いということで、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたところ、前線の兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた歌手がこの曲をこの歌を歌うと、居合わせた将校から末端の兵士まで等しく泣いたという。
内地の工場などでは「士気が下がる」と禁止したところもあったという。

「鈴懸の径」(1942年、灰田勝彦)
甘い歌声で一世を風靡した灰田勝彦の歌唱で、戦時中にも関わらず、戦時色が感じられない数少ない曲だ。
戦後にジャズにアレンジして鈴木章治とリズムエースが出したレコードもヒットした。
灰田勝彦の母校でもある立教大学のキャンパス内に記念の歌碑がある。
灰田がハワイ生まれであることと、甘く切ない歌声が感傷的で好ましくないと、内務省をはじめとする当局から睨まれた。

「白い花が咲くころ」(1950年、岡本敦郎)
NHKラジオ歌謡といえば岡本敦郎の名が浮かぶ。高音の伸びのある美声で、数々のヒットを飛ばした岡本敦郎、「ミスターラジオ歌謡」の代表的な曲。
他に抒情歌として、「リラの花咲く頃」(1951年)「チャペルの鐘」(1953年)「ここは静かなり」(1956年)「今日の日はさようなら」(1974年)など、昭和を代表する抒情歌手と言える。

「ふるさとの燈台」(1952年、田端義夫)
NHKの歌番組でバタやんがこの歌を涙を拭きながら歌っていた姿を思い出す。
御前崎に歌碑があり、次の様な作詞家の清水みのるの言葉が刻まれている。
「時は昭和20年の初夏、三回目の応召をうけた私は、本土決戦のため千浜より池新田に亘る海岸線の防衛舞台に配属を命ぜられた。玉砕の日の近きを知ったその頃、御前崎燈台の偉容を遠望しつつ、郷里浜名湖の風景にも思いを走らせ、望郷の念やみ難きものをこの作品に織り込んだ。
今ここに再びこの燈台を仰ぎ見て、当時を偲ぶ懐かしくも哀しみに満ちた思い出は、余りにも鮮やかに私の胸によみがえる。
昭和49年5月23日   清水みのる (碑文より)」

「別れの一本杉」(1955年、春日八郎)
作詞は高野公男、作曲は船村徹による、代表的楽曲。二人は大学在学中に知り合い、二人は新人でこれといったヒットに恵まれず苦しい時代を過ごしていた。そのような中でいくつかの曲をキングレコードの春日八郎のもとに売り込みにいき、その中で目に留められた曲がこの「別れの一本杉」であった。この曲のヒットにより二人は世に出たが、高野公男は翌年病を得て世を去る。
春日八郎のヒット曲とあると同時に、高野公男、船村徹コンビの代表作ともなった。

「リンゴ村から」(1956年、三橋美智也)
ラジオ全盛期にはレコード会社各社が、独自の番組を持っていた。番組冒頭のテーマ曲はその会社の看板歌手の曲が使われていた。コロムビアなら美空ひばり、キングレコードは三橋美智也の「リンゴ村から」だった。それもその筈、このレコードは当時とすれば驚異的ともいえる270万枚も売り上げたのだ。それだけ当時の庶民の琴線に触れたということだ。

「柿の木坂の家」(1957年、青木光一)
これぞ抒情歌謡という曲。抒情歌謡としてのあらゆる要素がこの一曲に凝縮されている。

「からたち日記」(1958年、島倉千代子)
当時の台詞入りの歌は売れないというジンクスを破って130万枚を売り上げる大ヒットとなった。
曲の間のセリフで、島倉がポロリと涙を流すという評判だった。だが、その当時TVを持ってる家庭は極めて稀で、その話をただ羨ましいと思って聞いていた覚えがある。
島倉千代子という歌手の特質を最も表した曲だと思う。

「北上夜曲」(1961年、和田弘&マヒナスターズ/多摩幸子・その他、競作)
北上夜曲は、当時18歳の「菊地規(のりみ)」が作詞、当時17歳の「安藤睦夫」が作曲したもので、昭和16年の戦時中に生まれた。その後は口から口へと伝えられ、戦後はうたごえ喫茶やうたごえ運動の中で広まっていった。私も高校生の頃にはこの歌を歌っていた。
1961年になってレコード各社がレコーディングし、その数は6社から22種類に及んだ。
この様に民間で歌い継がれ、うたごえ運動やうたごえ喫茶を通じて火がついてレコーディングに及びヒットした例は他に、
「さくら貝の歌」(1950年、辻輝子)
「北帰行」(1961年、小林旭・その他、競作)
などがある。
余談だが、「さくら貝の歌」の歌唱を岡本敦郎としている記事が多いが、引用されている元の記事が誤っていて、それをそのまま転載している様だ。正しくは「辻輝子」だ。

他に、
「あざみの歌」(1951年、伊藤久男)
「山のけむり」(1952年、伊藤久男)
「山小舎の灯」(1947年、近江俊郎)
といった名曲があり、いずれも典型的な抒情歌謡といえる。

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コメント

どれもいいなあ。
「すずかけ」「柿木坂」はカラオケでも歌います。

佐平次様
これらの歌の歌詞に共感できるのは、私たちの世代、あるいはその上の年代の方々でしょう。
歌詞もメロディも美しく、当今の歌謡曲では失われたものです。

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