【書評】「原節子の真実」
石井妙子「原節子の真実」 (新潮文庫-2019/1/27刊)
日本映画史上、最も美しい女優は?と問われたら、ある年齢以上の人であれば大多数の人は「原節子」と答えるだろう。日本映画を代表する女優は?と問われても、やはり大多数の人は彼女の名前をあげるだろう。
日本国内だけではない。小津安二郎監督の作品が国際的評価を受ける中で、原節子の名も世界に拡がっている。
大スターだった原節子だけに噂やゴシップには事欠かない。それも映画関係者や作家などから流されたものも少なくない。大半はガセネタだが、原がそうした情報を肯定も否定もせず一切無視してきたため、未だに事実として罷り通っているものさえある。
とりわけ、銀幕から突如引退し、以後は世間と隔絶した生活を死去するまで送ってきた彼女の生活態度が、多くの憶測や誤情報を生んだ。
本書は、原の関係者やその家族を取材し、文字通り「原節子の真実」を明らかにしたものだ。
原節子(1920年6月17日生 - 2015年9月5日死去)が映画界入りしたのは1935年、15歳の時だ。幼い頃から成績が良く、本人も教師になることが夢だったが、家業が傾いた事や母親が精神を病んだりし、彼女が生活費を稼がねばならなくなった。
原より美人と言われていた次姉が映画界入りしていて、夫の監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることになった。これ以後、原は終生、義兄の熊谷久虎から大きな影響を受け続ける。
映画界が無声映画からトーキーに移り、それまで男優が女形を演じていたのが女役は女性が演じる風になったので、女優への需要が一気に増えた。当初は芸者など花柳界から採用されていたが、次第に普通の子女を採用するようになっていた。
ただ、当時の女優の地位は低く、撮影所でも女中がわりに酒食の接待や、時には監督やスタッフの夜のお相手までさせられていた。原がずっと映画も女優も好きになれずにいたのは、こうした女優の状況への反発があったようだ。
彼女はこうした周囲に溶けこまず、撮影所の往き帰りは電車に揺られ駅からは徒歩で通い、昼食は自分で用意した弁当を一人で食べ、撮影の合間は読書に耽り、仕事が終われば真っ直ぐ家に帰る。宴席に出ることはなかった。接待や舞台挨拶、水着撮影は一切お断り。付け人は付けず、身の回りのことは全て自分でやった。このスタイルは後年大スターになっても崩すことは無かった。
原の女優としての運命を決定づけたのは、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢されたことだ。撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督が、映画会社から推薦された女優たちを蹴って、無名の新人だった原を主役に選んだのだ。この映画はその後に締結される日独防共協定の下準備になる国策映画だった。ドイツに渡った原はゲッペルスと面会するなど大歓迎を受け、帰国するまでフランスやアメリカを巡る。
ここで原が気付いたのは、海外での女優の立場が日本と全く異なり、俳優として尊重されていたことである。
帰国後、一躍スターとなった原に次々と仕事が舞いこむ。だが時は日中戦争から太平洋戦争に至る時期で、戦意高揚映画に数多く出演することになる。原の清純な容姿が出征する兵士を励ましたり、銃後を健気に守る娘役にピッタリだったのだ。
この時期、義兄の熊谷は映画界から離れ、国粋主義思想団体「スメラ学塾」を作り、軍部と結んで本土決戦を叫び、また敗戦前には九州独立運動を起こす。原もまた、この義兄の思想に深く共鳴し、一時期運動を手助けすることもあった様だ。
敗戦を迎え国民全部が茫然自失する中、家族を養うために原は自らが栄養失調になりながらも農村に買い出しに出かけ、2斗の米を背負って自宅に持ち帰る生活を送っていく。
実は、米軍占領下で映画会社からはGHQの幹部への接待や、米軍相手の舞台出演などの要請が原にあった。そうした要請に応じていれば、有り余るほどの食料が手に入れられたし、当時の人気スターたちの多くがその恩恵に与っていたのだが、原は一切拒否していた。
それに、敗戦になった途端に、戦中には上からの命令で止むを得ず戦争協力をしたとして、戦後は手のひらを反す様にGHQの指示に従う映画人たちに心から愛想が尽きていたのだ。
GHQから公職追放の指示が来ると、映画人が集まって戦争協力の犯人捜しを始め、映画監督としてはこれといった実績の無かった義兄の熊谷を指名して熊谷が映画界から追われた事も、原の反感を増幅した。
原にとって戦後の民主主義の良かった点は、女性への差別を否定し権利を認めていたことだ。これは戦前から原が望んでいたのだ。
また、戦後外国の映画が一斉に日本で公開されると、そこに描かれる自立した女性の姿に共鳴し、イングリット・バーグマンらの映像を見て自分もああした内面の美しさを表現できる女優を目指す決意を原は固める。
女性が自らの意志で運命を切り開いてゆく、そうした役を演じる女優になりたかった原にとって、最も尊敬できる監督は黒澤明だった。作風が、どこか義兄の熊谷久虎に似ている所も惹かれた。黒澤監督のもとで主演した作品『わが青春に悔なし』のヒロインは、原にとってこれこそ演じてみたかった役に巡り合えたのだ。
ところが、最後は米軍の戦車まで出てきた東宝映画の大争議の影響で、原は東宝を去り黒澤監督との縁も切れてしまい、以後は主に松竹映画に出演するようになる。
原は、1949年に初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演し、以後1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。特に1953年の『東京物語』は小津にとっても、原にとっても代表作となる。一連の小津作品によって、原は代表的スターになる。
しかし、小津作品はホームドラマであり、役どころはいずれも父親や夫に尽くす良妻賢母タイプのものだった。
つまり原に求められる役は、戦前戦後を通じて男性から見た理想的女性だった。
原が必死に求めた、自らの手で運命を切り開く女性像とはほど遠いものだった。そうした役を求めて、1951年に黒澤明監督の『白痴』や、義兄の熊谷監督のいくつかの作品に出演するが、皮肉な事にいずれも興行的には惨敗する。
原は、細川ガラシャを主人公にした映画を希望し続けたが、終生実現せずに映画人生を閉じてしまう。
40歳に近づくと、原は容姿の衰えという残酷な事実に向き合うことになる。先輩女優たちの姿を見てきて、自分には老け役になる気がない。映画の中身も変わってきて、次第に自分の居場所もなくなりつつあることに気付く。
戦後の栄養失調の影響もあって健康にすぐれず、何より長年の撮影で視力が衰えていた。
遂に1962年に引退を決意したが、その翌年には小津監督が60歳の誕生日の日に亡くなってしまう。
原は終生独身を通し、死去するまで人目を避け、ごく少数の人しか会わぬ隠遁生活に入ってしまう。
原節子は人間的にも優れた人だったようで、ある映画雑誌が新人女優に「最も尊敬できる俳優は?」というアンケートを取ったところ、全員が「原節子」と回答したため、企画が流れてしまった。
戦後、良家の子女が安心して映画界入り出来たのも、原節子の影響とのこと。
本書のあとがきで、原の映画を見たイタリアの若者が、彼女の印象を「聖母」や「女神」に例えていた事が紹介されているが、内面の美しさが表出した稀有な日本人女優だったと言える。
本書はタイトルの通り原節子の評伝であるが、日本映画の裏面史ともなっている。
多くの映画監督が戦時中徴兵され戦地に送られているが、黒澤明だけは免れている。軍部と繋がりの深かった東宝が、そのツテで有望な黒澤が戦地に行くのを防いだようだ。
反対に小津安二郎は中国戦線の、それも毒ガス部隊に送られた。村に毒ガス弾を撃ち込み、逃げ惑う住民を刺し殺すという任務だった。娘を強姦され抗議に来た母親を上官が斬り殺した現場も見ている。
小津は、戦前に戦争映画を見て、戦争なんてこんなもんじゃない、自分なら本当の戦争映画が描けるとずっと思っていたそうだ。
しかし、最後まで小津は戦争映画を撮ることはなかった。
ただ、1962年に撮った作品『小早川家の秋』は、小津の戦争体験と、中国で戦死した親しかった山中貞雄監督へのオマージュになっていたようだ。
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コメント
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読まなければならないかな。
原節子は「小早川家の秋」くらいしかリアルにはみていませんが。
投稿: 佐平次 | 2019/05/01 10:00
佐平次様
原節子が小津監督作品をあまり評価していなかったことや、小津が黒澤作品を評価しなかったのは、自分は戦地に行かされたのに黒澤は免れていた憾みがあったためであるとか、意外なエピソードが散りばれられていて興味深かったです。
私は原の代表作は、木下惠介監督の『お嬢さん乾杯』だと思っています。
投稿: home-9 | 2019/05/01 10:55
>原は東宝を去り黒澤監督との縁も切れてしまい、以後は主に松竹映画に出演するようになる。
もちろん松竹映画にも多く出ていますが、そんなことはないですよ。東宝争議で新東宝からフリーとなり、また製作再開した東宝に1951年ころに復帰して、成瀬巳喜男監督『めし』を始めとして、東宝映画にも多数し出演していて、引退まで在籍します。『小早川家の秋』も小津安二郎監督が始めて東宝に呼ばれて撮った作品です(但し製作は、関西の宝塚映画)。
投稿: ハマダ | 2019/05/02 00:59
ハマダ様
ご指摘の通り、原は東宝を退社後に新東宝へ、更にフリーとなって各社の映画に出演しています。この部分はザックリ書きすぎました。
投稿: home-9 | 2019/05/02 08:01