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2020/12/04

記号としての「焼跡」「闇市」

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逆井聡人 「〈焼跡〉の戦後空間論」( 青弓社 2018年8月8日初版)

戦後を語るときに、その象徴的な風景として「焼跡」「闇市」が語られ、描かれてきた。今でも映画やドラマで戦後を映し出すシーンとしてこの両者がしばしば登場する。
「焼跡」「闇市」が本来は敗戦の負のイメージだったはずだが、それが「~からの復興」というむしろプラスの言葉として結び付けられることも多い。
戦後70年以上も経って、戦中や戦争直後を、言い換えれば「焼跡」や「闇市」の実態を知らぬ人がほとんどとなってしまった現在、両者はもはや記号としか存在していない。
先日「〈焼跡〉の戦後空間論」という著書を読んだ。この書籍は戦後の日本について多くの示唆に富むものだが、その中から「焼跡」と「闇市」の部分について感じたことを記す。

1.焼跡
アジア太平洋戦争の末期、大都市の大半が米軍機による空襲を受けた。特に昭和25年2月以降は、ターゲットがそれまで軍事施設から住民を目標とする市街に変わってゆく。
米軍による空襲の多くは都市、それも例えば東京では下町を中心としており、山手ではほとんど大きな被害は出ていない。地方においても中心となる都市部だけがターゲットとなっていた。それは目的が軍事施設の破壊であり、密集地を狙って住民を効率的に殺害できたからだ。
焼跡の被害の実態は被害を受けた人々は直接目にしたが、実はそれ以外の人の目に触れることはなかった。戦時中は軍部が空襲や焼跡について報道することを禁じており、戦後はGHQがにより禁止されていた。日本国民に実態が知れることが占領政策に影響すると考えたからだ。写真などの放送や新聞報道は検閲され、その手の映像や画像は排除された。原爆の被害の写真が公開されたのはサンフランシスコ条約の発効以後だったのと同じことだ。
話は変わるが、「パンパン(米兵相手の街娼)」も検閲の対象だった。私自身の戦後の記憶は、パンパンと米兵が乗っていたジープだ。
だがGHQは、日本に駐留する米兵が日本人女性を買春していることが米国本土の米国人に知られることを恐れた。映像や画像はもちろんのこと、イラストに至るまで検閲を受け、米兵と日本人女性が腕を組んでいるイラストさえも削除させられた。
かくして日本人全体が焼跡の実態を知るのは昭和28年以降であり、焼跡が戦後の象徴となるのは戦後しばらく経ってからになる。
あれだけGHQが神経を尖らせていたが、映画『長屋紳士録』(小津安二郎監督の戦後第一作となる作品)のロケに焼跡が映ってしまった。GHQの劇映画だから目が届かなかったかも知れない。映画そのものも名作だが、映像としても貴重な作品となった。

2.闇市
闇市が立った土地は、新宿、上野、渋谷、池袋、新橋などで、元は生産地から物流の集積地としての建物疎開地だった所。
闇市は、戦時中は闇取引と言われていたが、戦時中から存在していた。一般の人が手に入らないものを持っていたのは軍隊で、それを闇で横流しするのは小規模だったが戦時中から行われていた。
それが戦後になって大規模にマーケットとして成立したのが闇市だった。敗戦になって軍の統制も乱れて、大量の物資が闇市に流れこんだ。
むろん非合法であったが、生活物資の配給が滞りがちだった都市部では、闇市は重要な流通の調整弁の役割を果たしていたので、当局もその存在を黙認せざるを得なかった。
また、戦後に外地から多くの引き揚げ者が帰還してきたが、住む所も生きる手段もない人も少なくなく、そうした人々が闇市で糊口をしのいでいたという側面もあった。
GHQは、当初は闇市には大きな関心を寄せなかったが、米兵も闇で物資を横流ししていた現実から取締りに力を入れるようになる。
闇市には朝鮮人の人たちも参加していたが、当初は日本人のテキヤ(闇市を仕切っていたのが暴力団だった)との縄張りをめぐる小競り合い程度だったのが、朝鮮戦争が始まるころになるとGHQ自体が朝鮮人を取り締まるようになる。それと戦後に生まれた「第三国人」という呼称に代表されるような朝鮮人差別とが合流し、朝鮮人を差別し排除していく流れになってゆく。

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