反戦川柳作家「鶴彬」
12月8日付東京新聞に「鶴彬獄死の末にある戦」というタイトルの社説が掲載された。この見出しは「つるあきら ごくしのすえに あるいくさ」という五七五の俳句の形式になっている。79年前に日本が太平洋戦争に突入した日に鶴彬(つるあきら)の業績を通して言論弾圧について記したものだ。
鶴彬は本名・喜多一二(きたかつじ)。 明治42年(1909年)、石川県高松村(現かほく市)生まれ 。 15歳で川柳界にデビュ ー。大阪の町工場で働きながら、“プロレタリア川柳”を発表する。 川柳界の権威・井上剣花坊に師事し21歳で兵役。しかし機関誌「無産青年」を軍に持ち込んだとし、治安維持法違反により懲役2年の実刑判決を受ける。 出所し除隊後に多くの反戦川柳を発表する 。 昭和12年(1937年)12月3日に治安維持法違反の嫌疑で特別高等警察に検挙され、東京都中野区野方署に留置された。たび重なる拷問や留置場での赤痢によって、昭和13年1938年9月14日に29歳の若さで世を去った。
川柳の世界でも当時は国威発揚のものが主流となっており、新聞の「川柳」欄の選者になっていたような大御所たちは、むしろ鶴彬を排除する側に動いた。
今も政府による「日本学術会議」の任命拒否について、一部の学者が政府を支持する主張を行っているのと同様である。
故郷の石川県かほく市高松には鶴彬の句碑が建てられているが、これには同郷だった自民党の国会議員だった小川半次氏の尽力があったという。昔はこういう立派な自民党議員がいたということだ。
鶴彬作の代表的な川柳は次の通り。
銃剣で奪った美田の移民村
半島の生れでつぶし値の生き埋めとなる
ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり
ざん壕で読む妹を売る手紙
召集兵土産待つ子の夢に見る
枯れ芝よ!団結をして春を待つ
暁を抱いて闇にいる蕾
高粱の実りへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかえし
胎内の動き知るころ骨がつき
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