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2021/02/01

【書評】波田野節子『李光洙-韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』

波田野節子『李光洙(イ・グァンス)-韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(2015/6/25初版 中公新書)
不勉強で、たまたま他の雑誌で李光洙の名に触れていたので本書を購読。李光洙は韓国の近代文学の祖とされ、知らぬ者はいないそうだ。日本でいえば夏目漱石に相当するのだろう。
本書では李光洙のヒストリーが詳しく紹介されていて、1892年、李は貧しい家庭に生まれながら韓国併合前後に日本に留学し明治学院で学び、文筆活動を始める。帰国してから住民への啓蒙活動を行い教師にもなるが、1915年に再び来日し早大に編入。
1919年、日本政府を糾弾し朝鮮の独立をうたった「2・8独立宣言」を起草し上海に亡命、「3・1独立運動」と臨時政府に参加する。このころ許英粛(韓国で初の産院を作った人)と結婚。
「3・1独立運動」が挫折すると李は、「東亜日報」に入社し編集局長などを務め、多くの小説を著した。長年の無理がたたったのか結核を患い、以後病苦と闘うことになる。
1937年日中戦争が勃発するが、その直前に李ら182名が治安維持法で逮捕される。これは完全なでっち上げ事件だったが、うち2名が死亡1名が廃人になるという過酷な取り調べを受けた。李は病気が悪化したため釈放されるが裁判にかけられる。
1938年、同事件で起訴された李を始め全員が転向を表明する。朝鮮人も帝国の臣民として生きるという内容だった。日本の統治から免れぬ以上は、朝鮮人も日本人と同様に権利を主張し差別を無くすような「内鮮一体化」を目指すことになる。
対日協力の第一歩として李が音頭をとって朝鮮の文学者を皇軍慰問団として戦地に赴くことにした。
第二歩は、李が「日本文学報国会」に真似た「朝鮮文人協会」を結成し会長におさまったことだ。
その後は田舎に引っ込んでしまう。
1940年には創氏改名により「香山光郎」の日本人名をなのる。この頃から日本語の論文を盛んに書くようになるが、当時の朝鮮では日本語を読める人はごく少数であったことを考えれば、対象はむしろ内地の日本人向けだったと思われる。
1941年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると李は西洋への反発からアジア解放を賛美し、1943年には日本の学徒動員に呼応して朝鮮人学生の学徒兵志願を勧誘する。これに対応しなかった学生は全員が大学から除籍されてしまう。
1948年に大韓民国が成立、李は「私は独立国の自由の民だ」という長詩を書き支持を表明する。その翌月に「反民族処罰法」が制定され、李は対日協力した罪で検挙されるが不起訴となる。しかし李の「親日」の烙印はその後も消えることがなかった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮に連行され消息を断った。息子の李栄根(米国に渡り大学教授になっていた)が1991年に北朝鮮を訪問し、父親の消息を調べたが1950年に死亡したようだというが明確なことは分からなかった。なお平壌近郊には李光洙の墓がある。
李光洙の歴史は日本と切っても切れない関係にある。彼の背後にあるものは日本の日清日露戦争から中国への侵出、アジア太平洋線戦争に至る軍国主義の歩みと、過酷な弾圧だ。
後年、李は「民族のために親日しました」と語っているが、あながち自己弁明だけとは言えず、本人の真意かも知れない。いくつもの挫折を乗り越えた末の次善の策と思っていたのかも知れない。
李は韓国では未だに「親日」のイメージが強いそうだが、再評価の動きも一部にあるという。

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