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2021/03/06

「弘田三枝子」の思い出

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昨年7月に亡くなった弘田三枝子について、病気療養中だったので追悼文が書けず時期を逸してしまった。ポップス系の歌手として私が唯一ライブをみた歌手として思い出深い。
弘田は私の3歳年下で、ライブは20歳の頃にみた記憶があるので、彼女は17歳ということになる。TVで顔を見ない日がない超売っ子だった弘田のショーなど、私の乏しい小遣いではとてもみに行けなかったのだが、当時は労音(未だあるのかな?)の会員になっていてかなり安い入場料だったのが幸いした。
弘田三枝子は14歳で「子供ぢゃないの」でデビュー、以後「悲しき片思い」「すてきな16才」「ヴァケーション」「渚のデイト」「悲しきハート」「私のベイビー」「砂に消えた涙」「ナポリは恋人」「夢みるシャンソン人形」と次々ヒットをとばしていた。
弘田の特長はパンチ力に溢れた歌唱力で、これは同世代のポップス系歌手に比べ遥かに優れていた。
ライブの時の弘田は司会もゲストも無しで、およそ1時間半ほど一人で歌いまくった。10代の彼女はキラキラと輝いており、はちきれんばかりの肢体だったと記憶している。
自身のヒット曲を中心にしたポップスと、ジャズのスタンダードナンバーを次々と披露し会場を沸かした。声量、歌唱力、表現力とも、とても10代の歌手とは思えない期待通りでの舞台で、さすが8歳の頃から進駐軍のキャンプで歌っていたと言われるだけの事があると思った。その実力は1965年、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待されたことからも分かる。
1960年代の中頃から大きなヒットに恵まれず、TVへの露出も減っていたが、1969年に「人形の家」のヒットでカムバックした。しかし、整形とダイエット後の弘田は以前とは別人の様だった。
以後はスキャンダラスな報道もあり、かつての弘田三枝子ファンとして落胆することが多かった。
弘田は後輩のミュージシャンたちに大きな影響を与えていて、桑田佳祐は「チャコの海岸物語」の歌詞にある「ミーコ」は弘田を指し、アルバム「綺麗」では弘田の愛称である「MICO」という作品を収録し、彼女をリスペクトしている。
レコードデビュー60周年の年に73歳で亡くなったのは早世の感もあるが、早足で駆け抜けた人生であったのだと思う。

 

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音楽」カテゴリの記事

コメント

待ち遠しいのは夏休み!
とはこちとらの心を言い当てられた気がしました。
ご紹介された曲群は10代で歌うには難しいものばかりですね。
歌謡界の一派にアメポプを改変して歌うのに長けた人たちが存在しますが、
その代表だったんですね。

福さん
弘田三枝子はポップスのみならず、ジャズのオールディーズからR&B、レゲエに至るまで幅広く歌える歌手でした。英語の様に日本語を歌うという評価もありました。

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