吉村府知事発言の危険性
緊急事態宣言の発令が決定した4月23日、府庁で行われた大阪府の吉村洋文知事は、「社会不安、社会危機を解消するため、個人の自由を大きく制限することがあると、国会の場で決定していくことが重要だ」と述べた。
毎日新聞によると、吉村知事は現行の法令が個人の行動に踏み込んでいないとの認識から「自由の制限を含む法令が必要」と主張したとある。
20日に行われた会見でも、「究極のことを言うと」と前置きした上で「日本の法体系では個人の自由が重視されている。個人の自由を制限することはやってない。本質的にはそこをやらなければいけないのでは」と個人的な見解を述べていた。
この発言に対して多くの批判が寄せられているようだが、法律で個人の権利を制限しようとすれば、守られているかどうかを監視せねばならなくなる。それがどれだけ危険なものか。
世界的歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は(『サピエンス全史』の著者)、2020年3月20日付のイギリス経済有力紙FINANCIAL TIMESに「新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」と題した、以下の記事を寄稿した。
生体情報の監視を*)、非常事態の間に取る一時的措置だとして擁護することもむろんできる。感染症の流行が終息したら、解除すればいい、と。だが、一時的な措置には、非常事態の後まで続くという悪しき傾向がある。常に何かしら新たな非常事態が近い将来に待ち受けているから、なおさらだ。たとえば、私の祖国であるイスラエルは、1948年の独立戦争の間に非常事態宣言を出し、それによって、新聞の検閲や土地の没収からプディング作りに対する特別の規制(これは冗談ではない)まで、じつにさまざまな一時的措置が正当化された。イスラエルは独立戦争に勝利してから久しいが、非常事態の終息宣言はついにせず、1948年の「一時的」措置の多くは、廃止されぬままになっている(幸いにも、非常事態のプディング令は2011年に撤廃された)。
たとえ新型コロナウイルスの感染数がゼロになっても、データに飢えた政府のなかには、コロナウイルスの第二波が懸念されるとか、新種のエボラウイルスが中央アフリカで生まれつつあるとか、何かしら理由をつけて、生体情報の監視体制を継続する必要があると主張するものが出てきかねない。わかっていただけただろうか? 近年、私たちのプライバシーをめぐって激しい戦いが繰り広げられている。新型コロナウイルス危機は、この戦いの転機になるかもしれない。人はプライバシーと健康のどちらを選ぶかと言われたなら、たいてい健康を選ぶからだ。
*)「生体情報の監視」については後日とりあげる予定。
(「WEB河出)より引用)
緊急(非常)事態の法制化を行うことが、どれだけ危険かが分かると思う。
報道では、吉村府知事の個人的な思い付きのようにされているが、ここには「維新の会」の持つ体質が現れている。こういう政党が政権を握ったらと想像するとゾッとする。
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