女子アスリートの草分け「人見絹枝」
1896年に第1回オリンピック大会が開かれるが、参加は男子に限られた。創設者のクーベルタン男爵が「女子が参加するのは不快。女性がすべきことは出産。」という考えの持ち主だった。1900年の第2回大会でようやくテニスとゴルフに限って女子の参加が認められ、以後少しずつ競技が拡がったが、陸上競技だけは最後まで閉ざされていた。これに反発したアリス・ミリアが、万国女子オリンピック大会を主催する。この黎明期に活躍したのが人見絹枝で、彼女の功績は日本にとどまらず、世界においても大きく評価されている。
月刊誌「選択」6月号に、その人見絹枝の栄光と悲劇に関する記事が掲載されており、要点を引用する。
人見は1907年に岡山県の農家に生まれ、学業優秀で難関の県立岡山高等女学校に進む。学業の傍らテニスを始めるが、その顧問の教師から、競技陸上大会に出て欲しいと頼まれる。このことが人見の運命を決めてしまう。断りきれず参加すると、いきなり走り幅跳びで日本最高記録を出して優勝してしまう。
人見の志望は、高等師範に進み教師になることだったが、周囲の説得に負け、二階堂体操塾(後の日本女子体育学校)に入学。在学中に陸上大会に出場すると、三段跳びで世界記録(非公認)を樹立するなど、次々と日本記録を更新していった。賞賛を浴びる一方で、「日本人女性がはしたない」「伝統を破壊する気か」といった手紙がいくつも届いた。こういう輩は今も昔も変わらない。
卒業後は、大阪毎日新聞社の記者になり、1926年の第1回万国女子オリンピック大会に出場。外国選手との交流の中で、周囲は記録にこだわらず純粋にスポーツを楽しむ姿を見て、これが理想だと思った。だが日本では記録こそが大事なのだ。人見はそれを知っていた。100ヤード走3位、円盤投げ2位、走り幅跳び1位、立ち幅跳び1位と、超人的な活躍が始まった。周囲からは「ワンダフル人見」の賛辞が贈られた。
1928年のアムステルダム大会でようやく女子陸上競技が正式種目になった。人見はこの大会で100mの金メダルを期待されたが失速、思いつめた人見は急遽800mに出場、死のレースを制して銀メダルを獲得した。
1930年の第3回万国女子オリンピック大会には後輩女子5名を引き連れて参加。しかし彼女たちの旅費を稼ぐための募金イベントに忙殺され、無理を重ねていた。それでも60mで3位、走り幅跳びで1位、やり投げで3位、3種競技で2位となった。大会後も海外との交流試合が続き、人見は休むことが出来なかった。
ようやく帰国の途についたが、その船の中で日本からの新聞報道や手紙を読み、愕然とする。「期待はずれ」「出発の時、あれだけ大きなことを言って出かけたクセに情なくないのか。ベールをかぶって帰ってきなさい」。
あれだけ頑張ってもまだ満足してくれないのかと、人見は日記にこう書く。「なにが故国ぞ! なにが日本ぞ!」「日本選手が実力以上に働けないのは、あまり故郷の人が勝負にとらわれ過ぎるからである。罪深き世の人よ」。
帰国時に、人見の心身は限界に達していた。それでも無理を押して挨拶回りや講演にでかけ、ついに倒れて絶命する。24歳の若さだった。世界中の女子アスリートが、その早過ぎる死を嘆いた。
オリンピックをメダルの数と国威発揚しか考えない状況は、今も昔も変わらない。さらに商業主義にまみれたオリンピックを、この辺りで見直したらどうか。
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