志ん朝を見たかい?
先日のある落語会、後ろの席の中年の男性客ふたり。片方の人はネタ別に演者を評価するノートをつけていて、「どのネタでも、結局は志ん朝が一番になるね」と言った。もう片方のちょっと年下と思われる人が「志ん朝を見てるんですか?」と訊くと、「独演会に随分と通ったよ」と答えていた。片方の人は「僕は見てないんですよ」と残念そうに言っていた。
志ん朝が亡くなったのは2001年だから、今年は没後20年ということになる。寄席に若い女性客が目立つようになったのは2000年辺りだったから、志ん朝を知らない落語ファンも増えてきた。だから、志ん朝を見たなんて、ちょっと得意げになるのだろう。
今日の東京新聞に、志ん朝の思い出について二人の人が書いている。
一人は矢野誠一で、志ん朝が昭和の落語の集大成、古典落語の規範を作り上げた、と語っている。志ん朝のノートを見ると、並の精神じゃない、噺家としての規格を自ら作り、そこに自分をはめ込んでいった気がする、とも。素質があったのは勿論のこと、研究を重ねて自らを鍛え上げていたのだ。
もう一人は水谷八重子で、志ん朝とはメディアの企画で、成人式の若者同士として会ってからの長い付き合い。舞台でもよく一緒で、脚本が遅くセリフが覚えられない時に、「舞台より落語を覚えることが多いじゃないの」と訊いたら、「芝居と違って人に迷惑かけねえもん、自分でやりくりすれば、どうにかなる」と言っていた。志ん朝も若い頃は、舞台や、TVドラマからバラエティまで幅広く活躍していた。水谷が朝さま(志ん朝をこう呼んでいる)に、志ん生襲名について尋ねたところ、「落語家の襲名の口上なんて、周りが言いたいことを言うだけ、そんなことやってられるか」と笑い話で終わったそうだ。
矢野が言っているように、志ん朝は芸のピークで亡くなった。私が高座での姿を見て、志ん朝の異変に気付いたのは、当代馬生の襲名披露公演の1999年9月だから、亡くなる丁度2年前。死後、周囲の家族や弟子たちが志ん朝の病気に気付かなかったと語っていて驚いたが、周りがもっと早く気が付いて上げたらと、そこが悔やまれる。
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志ん朝が小三治にゴルフをすすめたんだとか。
当時、小三治はボーリングにはまっていたので、「自分ちに庭がないからって、あんな人のうちの庭借りてやるなんて、貧乏人のやることだ」と断ると、「ボーリングは自分ちに廊下がないからって、人のウチの廊下借りて玉を転がしているだけ」と志ん朝が返したそうです。
古典落語かよ、とつっこみました。
投稿: 福 | 2021/08/30 06:41
福さん
小三治が一時期ゴルフに凝っていたことは知ってましたが、志ん朝の勧めだったんですか。
投稿: home-9 | 2021/08/30 16:39