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2021/09/01

柳家三三の「無駄と遠回りと」

月刊誌『図書』9月号に、柳家三三の「無駄と遠回りと、行きあたりばったりと」というエッセーが掲載されている。内容のいくつか紹介と、感想を述べてみたい。
三三と落語との出会いは、小学1年生の頃に両親がみていたTVで「文違い」を聴いたのがきっかけだったと。「文違い」は新宿の遊郭を舞台に、女郎と客の騙し合いを描いたもので、落語の中でも凝ったストーリーになっている。およそ子ども向きとはいえないネタだが、三三は噺の世界に引き込まれ、事の成り行きを物陰から息をひそめて見ているような不思議な高揚感があったと言う。落語好きな人には同じ様な経験をした方がいると思う。私も三三と同じ年頃に寄席に連れていかれたが、落語、漫才、講談など全てが面白かった。だから芸人はジャリ(子ども)だと言ってバカにしてはいけない。廓噺だろうと、色っぽい都々逸だろうと、一流なら子どもでもその良さが分かるのだ。
「落語ってやつは演者の人柄が出る。素直な奴の噺は素直だし、ずるい奴の噺はどこかずるくなる。だから落語の技術以上に人間を磨かなくちゃいけない」とは5代目柳家小さんの教えで、一門はその薫陶を受けて心に留めるものが多いと言う。今の落語界をけん引する噺家に、小さん門下の人が多いのはそのせいだろうか。
落語家として入門してから前座までの仕事は、師匠の自宅に通っては掃除、洗濯、電話番、カバン持ちといった雑用がほとんど。合間をぬって着物のたたみ方、太鼓の叩き方、さらにその合間をぬって落語の稽古。加えて寄席での楽屋働きがあり、楽屋の支度から番組進行の調整、太鼓叩きから出演料を渡すといった仕事がある。何より大事なのは、出演する人たちが楽屋入りしてから出番が終えて帰るまでの手伝い。落語家も十人十色で、それぞれ好みが違う。時には、「どこの弟子だ、何を教わってきやがったんだ」と怒鳴られることもあり、その理不尽さに耐えられない人もいる。面白いのが、こうした理不尽が一体なんの役に立つのか、誰も教えてくれない。
高座に上がって落語を演じることは、暗記したセリフをペラペラしゃべることではない。客の反応という外部の要素によって演じ方は左右される。客が自分の噺にどれくらい興味を持っているか、どの程度理解してくれているかを耳や肌で感じ取り、しゃべる速度や言葉の言い回しを常に微調整しながら演じるという、まさに「ご機嫌を伺う」という稼業だ。この相手の様子を察しながら働くという、これが前座の修行時代に経験する師匠やその家族に受け入れてもらえるように、楽屋の師匠がたが気分良く高座に上がれるように最善の手伝いするといった行為が、何年も経って自分自身に還ってきた、これが無駄と遠回りなのだと。落語のプロとアマの違いっていうのは、この辺りが決定的なんだね。以前に古今亭菊之丞が、アマチュアでもプロより上手い人はいるが、時間(5分、15分、30分と指定されても)で演じることが出来るのがプロの証と言っていたが、その通りだろう。
三三は、前座時代に覚えた噺は6席か7席で、師匠の用事や楽屋の仕事に追われて、「落語なんて、覚えてる場合じゃねえよ」といった具合。ネタ下ろしは、一夜漬けどころかその日漬けも何度もあったという。そうした計画性の無さが、今日まで、そしてこれからといった話は、また機会があったら続きを申し上げるそうで、楽しみに待っていましょう。

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