鈴木冬悠人「日本大空襲『実行犯』の告白」(新潮新書‐2021年8月20日初版)は、米軍に残された膨大な資料と、将校264名・300時間に及ぶ証言によって、なぜ46万人もの民間人が空襲によって殺されたのか、その真実を明らかにしたものだ。本書は2017年にNHKで放送の番組「なぜ日本は焼き尽くされたのか」の取材情報を基に、大幅に加筆されたもの。
ライト兄弟がは初めて空を飛んだ時、これを兵器として使えないかと考えた人がいる。米国「空軍の父」と呼ばれるアーノルド(太平洋戦争時の空軍司令官)だ。第一次世界大戦では、陣地を奪い合う塹壕作戦で、双方に膨大な犠牲者を出してしまった。しかし航空機を使えば、容易に敵陣に深く入り込むことができる。これからの戦争は航空機の時代だとアーノルドは見越した。しかし、こうした考えは軍の内部でも受け入れられず、航空機の役割は偵察だけということで、空軍は陸軍の中の一部として位置づけられたいた。第二次世界大戦開戦時には、アメリカの航空部隊は世界第6位の弱小部隊で、2位の日本に大きく離されていた。米国の両側は太平洋と大西洋という大きな海だったため、攻めるにも守るにも航空機は役に立たないとされていた。
アーノルドが目指していたのは、空軍が陸軍から独立した存在になることであり、それは又空軍関係者の悲願でもあった。
もう一人、米国空軍に大きな貢献をした人物がいた。かつてのアーノルドの上司だったミッチェルだ。彼は、航空機を使って初期に敵の中枢を叩くことができること、戦艦は航空機からの攻撃を防ぐことが出来なくなることを主張した。後者について懐疑的な声が高かったため、ミッチェルは実際の戦艦を使って航空機で沈められる実験を行い、実証してみせた。この結果は欧州や日本にいち早く伝わり重要性が認められたが、皮肉なことに米国だけはこれを無視し、海軍を侮辱した罪で軍法会議にかけられ、軍から追放されてしまう。
真珠湾攻撃に先立つ1924年に、ミッチェルは報告書の中で次の様な予言を行っていた。
「ある晴れた日曜日の7時半、日本の航空機が真珠湾の基地を攻撃する。海軍の戦艦停泊所、弾薬集積所などを爆撃し、太平洋で戦争が始まる。」
それから17年後に、ミッチェルの予言通りになった。前年に旅行者として日本を訪れたミッチェルは、日本の航空戦力を視察し、報告書を書いた。しかし米軍の中でこの報告書に目を通す者はいなかった。
米国が航空機の力に目が醒めたのは、皮肉にも日本軍の真珠湾攻撃だった。ここから航空機の増産とパイロットの育成が始まる。しかし、航空機の製造技術の遅れや未熟なパイロットのために、訓練中に4人に1人が犠牲になった。
航空部隊の使命は、敵の心臓部をピンポイントで叩くことにより、少ない犠牲で最大の成果をあげることができるという主張がようやくルーズベルト大統領にも認められ、そのための国家プロジェクトとして最新鋭の爆撃機の開発が進められた。こうして出来たのがB29爆撃機である。その開発費用は原爆の1・5倍という莫大なものだった。その期待の大きさは同時に空軍にとってプレッシャーになる。空軍は新鋭機のB29を使って、日本の軍需産業や発電所など中枢機能を破壊する精密爆撃を行うこととした。
また、ルーズベルト大統領もハーグ条約に基づき、一般市民を殺害することを禁ずるよう命令を出していた。
ところが、高度1万メートルから爆弾を落下させたが、分厚い雲と激しい偏西風に押され、目標への命中率はわずか7%で、他は無関係の一般住民の住宅にばらまかれた。レーダーの性能が悪いのが原因だった。この結果にルーズベルト大統領と軍の幹部は落胆し、アーノルド空軍司令官は追い詰められる。参謀本部からは、高度1万メートルからの精密爆撃を諦め、低空で市街地に焼夷弾をばらまく方法を求められる。
アーノルドは日本への空爆の指揮者としてルメイ少将を起用し、軍事目標に爆撃を行ったが、結果は同様だった。
そこでアーノルドがルメイに命じたのは、日本の都市に低空で侵入し、焼夷弾を落とすというもの。日本の家屋は木で出来ているので、容易に燃えるので効果的だと。
1945年3月9日の夕方、1機あたり1600トンの焼夷弾を積んだB29、329機が東京に向け出撃、一夜にして130万人が家を失い、12万人が死亡した。その後の10日間で名古屋、大阪、神戸など大都市への空爆で、192万発の焼夷弾を落とし、1万人の命を奪う。
太平洋戦争の帰趨は既に日本の敗戦は決定的になっていて、後は日本の都市を焼き払い、国民の戦争への意欲を失わせることだと米国は考えた。
その後、空爆は中小都市にも及び、その数は2000回に及ぶ。
さらに毒ガス攻撃も計画されていたが、それは実行されなかったが、広島・長崎への原爆投下で犠牲者は合計46万人に達した。その殆どは非戦闘員の民間人だった。
そして、日本は降伏した。
空軍はその圧倒的な力を見せつけた。
終戦から2年後に、空軍は念願の独立を果たした。
日本空襲を指揮したルメイは、その功績を認められ、空軍参謀総長というトップの座を射止めた。
1965年に日本はこのルメイに、勲一等旭日大綬章を授章した。
日本と、それを許した日本人はバカである。
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