芸の行儀(三遊亭圓生「寄席育ち」より)
三遊亭圓生「寄席育ち」が、岩波現代文庫として再刊されたのを機に読み直してみた。
私は落語家や芸能評論家の書いたものをあまり読まないが、圓生と桂米朝は別格だと考えている。この二人は名人の名に相応しいからだ。
米朝は埋もれてしまった過去の多くの作品を掘り起こし、現代に通じるように手を加えて蘇られさせた。米朝を抜きにしては戦後の上方落語の隆盛は語れまい。
圓生は、東京(江戸)落語のあらゆるジャンル-滑稽噺、人情噺、芝居噺、音曲噺など-の作品を高度に演じてみせてくれた。これは同時代の名人と云われる桂文楽や古今亭志ん生も及ばず、他の追随を許さない。
なかには大した芸の持ち主でもないのに、芸談の本を何本も書いたり、高座で得々と芸談を語る噺家もいるが、しゃらくせえ。
この本の中で圓生は「芸の行儀」について述べている。
例えば、旅のマクラを振っておいて、旅の噺をせずに廓の噺に入ってしまう。それから甲の噺のクスグリを乙の噺で使ってしまう。
後から出る演者は、前の演者のネタ帳を見て演目を決めるので、知らずに同じクスグリが重なってしまうことがある。以前はこういうことは「つかみこみ」と言ってやかましく注意していたが、それが段々といい加減になっている。確かにこうした事は寄席や落語会などで度々経験していて、客も反応に戸惑うことになる。
決まったクスグリをあっちへ持っていったりこっちへ持っていったりしてはいけない。落語の公徳心という意味で、そういうことはやってはいけない。
また昔は、あんまり客を笑わせると、おりてから小言を言われた。15分の高座なら2か所か3か所お客がどっと笑うところがあれば良い。のべつまくなしに笑わせるのは、「大道芸」だと言って嫌がられた。
まあ好みにもよるが、笑わせることに力を注ぐようなガツガツした芸は好きになれない。。
噺家は一人で何役も演じるが、その際にあまり強調した声色を使うのも、「八人芸」といって叱られた。
私見だが、東京落語で大事なのは「粋」であって、「粋」を逸脱したような演じ方は「行儀が悪い」ということになろう。
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