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2022/03/06

柳家小三治とその周辺(上)

月刊誌「図書」3月号に、芸能評論家の矢野誠一の「柳家小三治とその周辺(上)」が掲載されているので、中身のいくつかを紹介したい。
小三治の経歴は、
1959年 5代目柳家小さんに入門、前座名は小たけ
1963年 さん治で二ツ目
1969年 10代目小三治を襲名真打昇進
二ツ目から真打までが6年間と、かなりのスピード出世だ。私が未だ若い頃に、小さん門下で、さん治(後の小三治)とさん八(後の入船亭扇橋)という有望な若手がいると聞いていたので、以前から注目を集めていたんだろう。
矢野は当初は新劇を目指していたが、60年安保の挫折のなかで寄席通いが始まり、未だ三遊亭全生時代の5代目圓楽と知り合う。ただ当時の寄席は落語の口演時間が短く、色物が多かったため、物足りなさを感じていた。そこで、好きな落語家の好きな落語を自分の手で聴きたいと考えて全生に相談したところ、「どんな大看板でも口説いてあげる」と、落語会のプロデュースの背中を押してくれた。
会場は出来たばかりのイイノホールに決め、出演者として8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん、8代目林家正蔵、8代目三笑亭可楽をリストアップし、出演依頼した。27歳の若造に大看板たちが快諾してくれたのは、全生の尽力のお陰だった。かくして、毎偶数月に開催の「精選落語会」が発足した。
開口一番は、圓楽、談志、柳朝、志ん朝の4人の輪番制だったというから、贅沢な顔ぶれだ。その後、吉生(圓窓)、さん八(扇橋)、さん治(小三治)を加えて7人制にした。この時、矢野が初めて小三治との出会いになったのだが、出演依頼を喜んで引き受けてくれると思っていたら、小三治は不愛想な表情で、「あ、そう」と言うだけだった。
若手の中には、目上の人間にへつらう者もいるが、小三治は孤高の姿を見せていた。
1969年1月に、矢野誠一、永六輔、江國滋、小沢昭一、永井哲夫、柳家さん八、桂米朝、大西信行、三田純一、柳家さん治の10人で、「東京やなぎ句会」の第1回を開き、以後は月に一度の句会を重ねた。
1969年9月には柳家小三治の襲名真打披露が行われ、お祝いの「後ろ幕」に句会のメンバーが、小三治得意のネタにかけて作った句を記した。矢野誠一の句は「百川」に因んで、
「風かをる百兵衛も居た山車の列」。
この後ろ幕は概ね評判が良かったが、当の小三治は、「みんな後ろ幕の俳句ばかり読んでて、俺の噺をきいてくれない」と言っていた。
「東京やなぎ句会」は、海外の10回を含め100回以上の吟行旅行を行ったが、これだけの友人を持っている人なんて、世の中にそういるもんじゃないだろうと、矢野は書いている。

「図書」に続編が掲載されたら、改めて紹介する予定である。

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コメント

>全生に相談したところ、「どんな大看板でも
驚きました。
先代圓楽は気難しくて有名なのに、
矢野誠一の示した新しいムーヴメントにのってくれたなんて。
四天王の開口一番というのも聴いてみたかった。わくわくするもんがありますね。

福さん
私もこの記事を読んで、圓楽を見直しました。いい話です。

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