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2022/04/13

ヤクザの番付「近世侠客有名鏡」と「天保水滸伝」

明治23年に作られた「近世侠客有名鏡」は、博徒の番付ともいうべき資料だ。名前をみるとこの時点では既に亡くなっている人が多く、19世紀半ばの天保年間に勢力をふるったヤクザの親分衆をランク付けしたものと思われる。
講談や浪曲、時代劇などでお馴染みの名前が並んでいて、大関のふたりは、武蔵の大前田英五郎と伊豆の大庭ノ久八。上野の国定忠治は関脇、甲斐の「ドモ安」こと武井安五郎は小結。前頭で私が知っている名をさがすと、下総の飯岡助五郎、同じく勢力富五郎、同じく佐原ノ喜三郎、甲斐の黒駒ノ勝蔵、武蔵の小金井小次郎、駿府の清水次郎長、下野の日光ノ圓蔵といったところ。勢力富五郎の親分である笹川繁蔵の名は見あたらない。
地方の名前を見ると分かるとおり、関東地方が圧倒的だ。この時代にはいると、
一つには、商品経済が発達して各地で名産品が生まれて百姓の間に格差が生じたこと
二つには、河川など流通を握った者が力をつけたこと
三つには、天保の大飢饉で食べられなくなった百姓が、職を求めて仕事がある地方に集まったこと
四つには、民衆が娯楽を求めて芝居(地方歌舞伎)や相撲、賭博などに人気が集まり、それらを主催する者が勢力を伸ばしてきたこと
などから、関東地方に有力な博徒が出現した。

ここで「天保水滸伝」の話題にはいるが、下総には干鰯(ほしか:鰯を乾燥したもの)と醤油という特産物があり、利根川を通じて江戸など消費地に運ばれていた。その中で九十九里浜の飯岡地域で勢力を伸ばしたのが飯岡助五郎だ。助五郎は相撲取りを目指すが挫折、その後は漁師の網本を経て博徒に。
徳川幕府の政策として、関東周辺には大大名を置かず、小大名や旗本が入り組んだ形で支配していた。幕府は治安維持のため関東取締出役(しゅつやく)を設置し、関八州一帯を取り締まる権限を与えた。しかし彼らは現地の情報を知らず、そのため特に博徒の情報に詳しい者を「道案内」に任命した。この道案内に飯岡助五郎が就き、いわゆる「二足の草鞋」で勢力を拡大してゆく。
一方、笹川河岸を拠点としていた笹川繁蔵も相撲取り崩れであり、両者は相撲興行権をめぐって争い、天保15年(1844年)に関東取締出役が助五郎に、繁蔵の捕縛を命じる。これを機に、両者が利根川を挟んだ「大利根の決闘」が起きる。いよいよ「天保水滸伝」の幕が切って落とされた。
さあ、ここからが面白くなりますが、ちょうど時間となりました、この続きは又の機会に。

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