美空ひばりは、いつから国民的歌手になったんだろう
先日、ある書籍のキャッチコピーに「焼跡にひばりの歌声が流れた」とあった。チョット待ってくれよ、ひばりのレコードデビューは1949年で、その頃には既に焼跡は見られなくなっていた。ひばりが昭和最後の年(正確には平成元年)に亡くなったこともあって、なんとなく昭和史と重ねてしまうのだろう。
1989年に死去した美空ひばりだが、死後もその人気は衰えず、数々の歌謡番組では頻繁に「ひばり特集」が組まれ、永遠の歌姫、歌謡界の女王の名を恣にし、国民的歌手としての地位を築いた。
しかし、ひばりほど毀誉褒貶が多かった歌手は他にいないだろう。熱烈なひばりファンがいた一方、「アンチひばり」もそれに劣らず多かったのだ。
アンチ派は、
①山口組(田岡組長)の影。美空ひばりと山口組とは二人三脚で、双方が力をつけてきた。ひばりの興行を山口組が仕切り、その代りひばりのボディガードや会場警備を山口組が務めた。ひばりの要所要所の会見や、他社との交渉の場には、常に田岡組長が同席し眼を光らせていた。
②何かと口を出す母親の存在。ひばりの私生活から楽曲にまで口を出してきて、一卵性母娘と陰口を叩かれるほどだった。その家族愛が、暴力団員だったひばりの弟が起こした不祥事をひばり一家がが擁護したことにより、NHKとは疎遠になった。
を問題にしていた。
私の周囲でいえば、ひばりの名を口に出すことさえ憚れる状態だった。もしかすると隠れひばりファンはいたかも知れないが、それを公言すれば馬鹿にされる雰囲気があったので、黙っていただろう。
ひばり好きは低俗、あるいは田舎者という図式が固定されていたように思う。
その雰囲気に変化が起きたのは1980年代になって、母親と二人の弟が亡くなり、田岡組長も死去、さらには親友の江利チエミの急死と続き、ひばりは孤独になっていく。世間のアンチ派もその頃にはひばりに同情的になっていた。
晩年のひばりは、病魔との闘いだった。1987年の入院の時は、歌手として再起できるかという声もあったが、1988年4月11日の「不死鳥コンサート」でカムバックした。立っていることさえ困難な状態だったにも拘わらず、ひばりは予定の39曲を歌いきった。
かくて、ひばりは国民的歌手となった。
今にして思えば、ひばりの舞台を一度見ておきたかった。そこが心残りだ。
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