憲法に「男女同権」を入れたベアテ・シロタ・ゴードン
前回のメルケルに続いてとりあげる女性は、ベアテ・シロタ・ゴードン。
ウクライナ出身の父親レオは天才ピアニストと言われていたが、ロシア革命を逃れるようのオーストラリアに渡り、そこではユダヤ人排斥運動が起きて、かつて演奏旅行で訪れて好感を持っていた日本へ。
両親はベアテに音楽の才能がないと見抜くと語学を学ばせ、6ヶ国語を身につけたベアテを米国に留学させる。
しかし日米開戦により両親の安否も分からなくなり送金も途絶えて、ベアテはアルバイトとしながら大学を卒業。タイム誌に就職するがそこは男性社会で、記者は男性しかなれにずに、彼女は補助的な業務しか与えられなかった。「自由、平等の国で、私は女性の非力さを知った」と、ベアテは自伝で書いている。
日本にいたベアテの両親は、敵性外国人として強制疎開させられ、食料も十分に与えられず、憲兵から尋問される日々を送っていた。
戦争が終わると、ベアテは日本に行く手立てを探し、1945年12月にGHQ民生局員として日本に戻る。重篤な栄養失調になっていた両親との再会を果たす。
1946年2月に、ベアテら25人が日本国憲法の草案作りに携わることになり、ベアテは人権委員会に配属された。与えらた時間は9日間。ベアテは語学力を活かして、世界各国の憲法について書かれた文書を集めた。
「私は日本の女性が幸せになるには、何が一番大事かを考えた。男性の後ろを俯き加減に歩く女性、親の決めた相手と渋々見合いさせられる娘さん。子どもが生まれないと離婚させられる日本女性。法律的には財産権を持たない日本女性。これを何とかしなければいけない。女性の権利をはっきり掲げなければならない」、そうベアテは考えた。
妾と妻が同居している家庭、夫がよその女性に産ませた子を育てる妻。農村では口減らしのために奉公や子守に出され、飢饉になれば娘は身売りされる。
ベアテは日本女性を守りたい一心で「男女同権」の草案を書きあげた。
民生局の上司からは、憲法に入れるのには細か過ぎる、詳細は制定法によるべきだと注意されたが、ベアテは、憲法に掲げなければ民法に反映されないと必死に食い下がった。
3月から始まった内閣とGHQの交渉の場では、日本側から「男女同権は日本の風土になじまない」と反対されたが、「日本を深く知るベアテが、日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものだ」と主張し、日本側も了承した。
日本国憲法に男女同権を明記したのは、欧米に先んじた先駆的なものだ。
女性も帝国大学に入れるようになり、1946年には初の女性東大生が誕生した。
1947年にベアテは米国に戻るが、日本国憲法草案に携わったことは晩年になるまで秘した。それが憲法改正の口実にされることを恐れたのだ。
日本人は一人一人は優しいが、集団になると変わってしまう。自分の意見をはっきり持たず付和雷同する。封建的な支配に馴れ服従が文化として根付き、強い者、上の者には無条件で従う。「だからこそ、憲法に書くことが大事だと思った」とベアテは語っている。
(以上、月刊誌『選択』5月号の記事を参考にした)
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