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2022/06/24

戦時下の寄席など(吉村昭「東京の戦争」より)

吉村昭「東京の戦争」は、昭和16年から20年の終戦に至る時期の、東京下町の暮しを中学生だった吉村の眼を通して描いたもので、貴重な記録文学になっている。
昭和17年といえば、東京に初の空襲があった年だが、15歳の吉村少年は映画館や芝居、寄席にせっせと通っている。中学生がそういう場所の出入りするのは保護者同伴というのが規則だったので、上野「鈴本」に行く時は制服や制帽、カバンを全て駅の一時預かりに預けてから行っていた。
客席は畳敷きで木製の箱枕が置かれ、客はそれに頭を乗せ横になっていたが、上手い人が出てくると起き上がって聴いていた。
出演者(以下、何代目は当方が想定して加えた)は、桂文楽(8代目)、三遊亭金馬(3代目)、春風亭柳好(3代目)、桂文治(8代目)、春風亭柳橋(6代目)、林家正蔵(7代目、初代三平の実父)といった顔ぶれだったというから、随分と豪華だったんだね。
正蔵は派手な着物で噺も華やかで、吉村はその個性が好きだった。
若い落語家が噺が終わった後、両手をついて、「召集令状を頂戴しまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」と、深々と頭を下げた。客席からは、「体に気を付けな」「又ここに戻ってこいよ」と声がかかる。
落語家は何度も頭を下げ、腰をかがめて高座を下りていった。
吉村少年は浅草六区にも足を運び、特に花月劇場がお気に入りだったようだ。
ここでは軽演劇がかかっていて、清水金一(シミキン)、森川信らが出演していた。森川の演技はしっとりとしていて、体がふるえるような可笑しさがあった。森川といえば「男はつらいよ」シリーズの初代おいちゃんを演じていたが、吉村によれば浅草時代の森川とは別人のようだった。
当時人気の「あきれたぼういず」も出演していた。川田義雄(晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、山茶花究による日本のヴォードヴィルグループで、その演芸様式は後にグループ名から取って「ボーイズ芸」と呼ばれるようになった。
その芸に客たちは興奮し、吉村は陶然としていたそうだ。
舞台には柳家三亀松も出演していて、「間」の効果を知り抜いた類い稀なる芸人だったと吉村は書いている。
私見だが、三亀松は出来不出来があり、明らかに手抜きする時もあったが、晩年に観た人形町末広での高座はゾクゾクするほどの魅力があった。
戦時下でも、こうした寄席や大衆芸能が盛んに行われ、浅草六区などは雑踏を極めていたという事実には驚かされる。
しかし、浅草の賑わいも劇場も、昭和20年3月10日の東京大空襲によって灰燼に帰してしまう。

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