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2022/07/12

三人の女性の「敗戦日記」

月刊誌『図書』7月号に、斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』が掲載されている。
いずれも日本が敗戦となった1945年の日記だ。
一人目は、作家の野上弥生子で当時60歳。北軽井沢に疎開していた野上は、畑仕事や炊事をこなし、息子たちの家族がおとずれれば孫を含む大所帯の世話をやき、その傍ら読書を続けてた。
驚くのはその食生活で、甘いもの好きな夫のために揚げまんじゅう、汁粉などを作っていた。大分の実家からは味噌、醤油、塩が送られてきて、米も豊富で白米をまとめて炊いて、おにぎりや弁当にして近所に配った。「しかし白米のご飯をもてあまして、他人に食べて貰うということは、今ではよそではできないゼイタクさであろう」と日記に書いているが、ある所にはあるもんだと感心するしかない。
5月7日の日記には、「こんな家事的なゴタゴタした数日のあいだに、ヨーロッパはすっかり別の姿になった」として、ムッソリーニの最期やヒットラーの死(この段階では戦死とされていた)いついて書いている。「ヒットラーは、自分に偶然にあたった弾丸に感謝すべきであろう」と手厳しい。
二人目は、後に家事評論家となる吉沢久子、27歳。住んでいた家は、後に夫となる評論家の古谷綱武の阿佐ヶ谷の家で、出征した古谷から頼まれて、「あくまで東京に踏みとどまって、外部のさまざまな変化から心持の変化まで、出来るだけ詳しい記録を残してくれること」を依頼される。
1945年3月になると、毎日新聞の記者だった綱武の弟綱正が、社員寮が爆撃で住なたくなったので、同僚と共に阿佐ヶ谷の家にやってくる。以後は、男性二人の下宿人の寮母の様な立場で奮闘し、ヤミの食材の調達に手腕を見せる。
電車で神田の事務所に通いながら、不規則な新聞記者の面倒を見るのは大変だったろう。一方でジャーナリストが傍にいるので、情報が伝わるのが早かった。
5月9日の日記では、「今日は各新聞がいっせいに大ニュースとして『独全軍が無条件降伏』を発表新聞記者の皆さんから何となくきいていたので驚きはなく、むしろ私の気持ちは軽くなった。日本はこれからどうしてゆくのだろう。ソ連と手を結んでゆくのかだろうか。私には分からないことだが、偉大な外交官がいてくれたらと思う」と書いている。
三人目は後に作家となる田辺聖子、この年に18歳となる学生だった。ドイツの降伏という事態に対して、5月23日の日記にはこう書いている。「日本の国民は違う。ドイツは遂に屈したが、日本はあくまで一億が玉砕するまで戦うであろう」
田辺はその頃、勤労学徒として寮に住み込み、航空機の部品を作っていた。野上や吉沢にあったような情報力は田辺にはない、食料もない。7月29日の日記には、「米はこの頃足りず、大豆をすりつぶしてメリケン粉と混ぜた代用品食ばかり作っている」とある。こちらの方が、当時の食料事情として一般的だ。
8月15日の日記には、「何事ぞ! 悲憤慷慨その極みを知らず、痛恨の涙、滂沱として流れ、肺腑は抉られるばかりである」「嗚呼日本の男児何ぞその意気の惰弱たる」と文語体で書かれている。
10代で敗戦を経験した人の率直な気持ちが表れている。同時に、前の二人と比べ、情報リテラシーの差を感じるのだ。
その一方で、ドイツの降伏に際して野上が書いた、「これで日本が全世界を相手にイクサすることになった」。ソ連の参戦に際して田辺が日記に「いよいよ、日本は世界を相手に戦うことになった」と記している。年齢も置かれている状況も異なるにも拘わらず、日本の孤立ぶりを同じ様に書き残している点は興味深い。

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