”『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった”記事への補遺
前に掲載した”『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった”は、『図書』に掲載された田淵句美子の推論を紹介したもの。
この推論に納得できたのは、定家の編んだ歌集が、蓮生からの依頼だったという点だ。蓮生が幕府の重鎮であったことや、定家の置かれた立場からすれば、後鳥羽院と順徳院の2首を採らなかったことは説得力がある。これ以前に定家が編んだ勅撰和歌集にもこの二人の和歌は採られていない。
この事から百人一首が定家が編んだものではないだろうという推論は成り立つ。
それでは仮に後世の人が百人一首を編んだとして、百人秀歌の101首から97首を採っているなら、後鳥羽院と順徳院の2首に加えもう1首はどの和歌を採ったのかが田淵の記事では触れていない。
詰るところ、百人一首がいつ誰が編んだかは不明である以上、後鳥羽院と順徳院の2首をどの様な理由(あるいは事情)で加えたのかが依然謎だ。
百人一首の編者が不明なうちは、結論はでないのだ。
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