『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった
『百人一首』の撰者は藤原定家というのが定説となっていたが、以前から専門家の間では異論があった。
月刊誌『図書』9月号に、田淵句美子が以下の様に推論している。
70年ほど前に宮内庁書陵部、近年では冷泉家から、『百人秀歌』が発見された。『百人秀歌』と『百人一首』では97首までが同じだが、巻末歌の2首が異なる。『百人秀歌』には『百人一首』に採られている後鳥羽院と順徳院の2首がない。
後鳥羽院と藤原定家は共に新古今時代に出合い、互いに才能を認め合いながら、やがて対立してゆく。承久の乱で後鳥羽院は討幕の側に立ち、敗れて隠岐に流され、二人は二度と会うことはなかった。
定家は勅命を受けて『新勅撰集』を編むが、ここには後鳥羽院とその子順徳院の歌は、1首なりとも採用していない。
定家の『明月記』の文歴2年(1235年)5月27日の記事で、蓮生(宇都宮順綱)からの依頼で、古来の人の歌各1首を、蓮生の山荘の障子を飾る色紙形(しきしがた、歌を1枚の色紙に揮毫したもの)を書いて送ったとある。これが従来は『百人一首』とされてきたが『百人秀歌』と見るべきだ。
蓮生は定家の嫡男である為家の義父であり、幕府の有力な御家人にして重鎮、幕府執権の北条一族とは縁戚関係にある。その様な人物からの依頼で編んだアンソロジーに、幕府と戦い敗れて配流されている後鳥羽院や順徳院の歌を撰ぶ筈がない。
ここまでで、『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかったことが分かる。
『百人一首』は又、『小倉百人一首』と呼ばれているが、これは小倉山の麓にある定家の山荘の障子を色紙形で飾ったとされていたからだ。しかし当時の定家の山荘は荒れ果てていて、定家は殆んど住んでいない。先に記したように色紙形を飾ったのは蓮生の山荘だ。
『百人一首』は定家が編み出した技法、即ち勅撰集から1首づつ選んで百首とし、カテゴリー別の配列にせず、時代順に歌人と歌を並べるという斬新な技法をそのまま受けついでいる。古代から中世前期までの長い和歌の歴史を感じることができ、序詞、枕詞、掛詞、縁語、歌枕といった和歌のレトリックが詰め込んであるので、初学者のテキストには最適だ。
それでは『百人一首』は誰が編んだのかという問題だが、分からない。
『百人一首』が初めて文献として出てくるのは、南北朝期だ。人々の話題にのぼるのは、15世紀末になる。
鎌倉時代中期以降に誰かが編纂したものだろうというのが、今の所の推定だ。
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この問題は、丸谷才一や井沢元彦なら、御霊信仰という切り口で推論を立てるだろう、
そう思います。
他にも、蝉丸なる人物の不可解さ、
人麻呂と猿丸太夫は同一人物か?などなど、百人一首には謎が多くあります。
投稿: 福 | 2022/09/08 06:33
福さん
本日アップした記事をご覧ください。
投稿: home-9 | 2022/09/08 10:28