「満州国」皇帝一族の運命
戦前、中国東北部に「満州国」という国家があったということは、歴史の一コマとして知ってる程度の人が多いだろう、私もその一人だ。年配の方なら「愛新覚羅」と聞くと、あの天城山心中の人かということになろう。
1932年に関東軍によって建国した満洲国は、その後に日本の国際連盟脱退の引き金になり、対米開戦の原因の一つとなった現代史上重要な位置を占める。
皇帝として、清朝のラストエンペラーだった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を据えた。皇帝とは名ばかりだったが、関東軍の横暴に苦しみ対立するようになる。
すると関東軍は溥儀の弟である愛新覚羅溥傑に目をつけ、日本の士官学校に入学させ、嵯峨公爵家の娘の嵯峨浩(ひろ)と結婚させる。
二人は暫くは幸せな生活を送るが、「盧溝橋事件」が起きて日本と中国との対立が始まると一変する。
日本の陸軍大尉として満洲にわたった溥傑一家は初めて皇帝溥儀に面会する。皇帝は、溥傑に男児が生まれたら自分は殺されるのではと警戒するが、男児は生まれなかった。
満洲の現実を見て溥傑は自伝でこう書いている。
「全ては『日本第一主義』でした。これではほかの民族の人達はついてくるはずはありません」
1945年8月の日本の敗戦とともに満州国は崩壊する。ソ連軍が首都新京を爆撃すると、皇帝一族は列車で脱出する。溥儀と溥傑は飛行機で朝鮮
を経由して日本に亡命することになった。処が何故か彼らの乗った飛行機は朝鮮ではなく奉天に着陸、その場でソ連軍に捕縛されてしまう。
一方、皇后と浩らは陸路で日本を目指すが途中で中国の八路軍に捕まり、捕虜として各地を連れまわされることになる。阿片が切れて狂乱状態になった皇后は、最後は道端に打ち捨てられ死亡。
浩らは満州開拓団員に紛れて引き揚げ船で日本に帰り、先に戻っていた長女の慧生(えいせい)と再会するが、夫たちの消息は不明だ。
慧生は優秀な子で学習院に通いながら、「日中の架け橋になりたい」という願いから中国語を学んでいた。
その慧生が天城山中で同級生の男と並んで、頭をピストルで撃ち抜かれて死んでいるのが発見される。マスコミは「天城山心中」と書き立てたが、浩は終生あれは無理心中だったと言い続けた。
ソ連の強制収容所から中国に引き渡された溥儀はそのまま収監されていたが、1960年になってようやく釈放され、再会した溥傑と共に以後は北京で暮らした。
皇帝一族の末路はあまりに悲惨で、「五族協和」と「王道楽土」の美名の下に、関東軍から言い様に利用された挙句、棄てられてしまった。
今年は満州国建国から90年にあたる。
(以上は月刊誌『選択』9月号の記事を参考にした)
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