噺家の死、そして失われる出囃子
この20数年の間に、多くの噺家と別れを告げねばならなくなった。
志ん朝、談志、小三治、喜多八、5代目圓楽、米朝、枝雀と、ほかにも沢山いる。好きだった色物の芸人も数多く亡くなってしまった。
枝雀の様に突然の悲報を受ける場合もあれば、次第に弱ってゆく姿を見ながらこちらも覚悟していったケースもある。
柳家喜多八のケースでは、死の直前まで毎月のように高座を見続けてきた。最後の方は声もかすれてきて見るのも辛かったが、それでも全力を振り絞っての高座には感動をおぼえた。
5代目三遊亭圓楽の最後の高座では、椅子と机という姿だった。それも事務机で背の高いもので、紙をひろげていたので恐らくはメモを見ながらの口演だったのだろう。
古今亭志ん朝の場合は以前から異変に気付いていたので、後から弟子や周辺の人々が何も予測していなかったと聞いて意外な感じを持った。あの痩せ方は尋常ではなかった。もっと周りが注意していれば、最悪の事態は免れただろうと残念に思う。
好きな噺家の死は、親友を失ったような寂寥感に襲われる。
もう一つ寂しいのは、出囃子まであの世へ持って行ってしまうことだ。「野崎」や「鞍馬」の様に複数の人が使っていた場合は残るのだが、それ以外はそのまま「永久欠番」になってしまう例が多い。
有名な所では古今亭志ん生の「一丁入り」がある。あの独特のリズムと志ん生の芸風がよくマッチしていた。
もう再び聞く機会がないと思っていたら、先年、桂米朝がネタの中で使っていた。「骨釣り」で石川五右衛門の幽霊が出てくる場面があるが、ここで「一丁入り」が演奏されていた。
5代目春風亭柳朝の出囃子「薩摩さ」は、孫弟子の一之輔が使っている。
志ん朝の出囃子「老松」もよい曲だった。「老松」が鳴り志ん朝が登場するまでのワクワク感が堪らなかった。
米朝の「地獄八景」じゃないが、あちらで「志ん生・志ん朝親子会」や「米朝・枝雀二人会」に出会えるのを楽しみにしておこう。
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