コロムビア・ローズ(初代)論
年配の歌謡曲ファンにとっては懐かしい名前として、そうでない方も名前は知ってる人は多いだろう。
コロムビア・ローズ(初代、以下同じ)は昭和20年代後半から30年代にかけて活躍した女性歌手だ。
1951年(昭和26年)、「第2回日本コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝し、日本コロムビアに入社した。
コロムビアレコードでは有望な歌手に社名をつけることがあり(ミス・コロムビアの前例あり)、ローズは戦後有名だった東京ローズに因んだという説があるが、東京ローズは当時批判も多かったところからこの説には疑問が持たれている。
コロムビア・ローズは当初、アイマスクした覆面歌手として1952年にレコードデビューした。
デビュー曲の「娘十九はまだ純情よ」
次いで「リンゴの花は咲いたけど」
とたて続けにヒットを飛ばした。しかし、その後の2年間はヒットに恵まれない時期を迎えた。
この状況を打ち破ったのはコロムビアの文芸路線だ。
1954年に「哀愁日記」がヒット。
翌年の1955年には、玉ノ井の娼婦を描いた「渡り鳥いつ帰る」がヒットし、
以後は、揺れる女心を陰影をつけて巧みに表現する歌唱力に磨きがかかる。
同年の「かりそめの唇」
1956年に「しあわせはどこに」
続いて「どうせ拾った恋だもの」
と文芸路線のヒット曲が続く。
ここで再び路線転換が図られる。彼女が持っている清新な歌声を活かした曲、
1957年に「東京のバスガール」が大ヒットし、
続いて「プリンセス・ワルツ」がヒットする。
最初に「東京のバスガール」を聴いたとき、こんな歌を敢えてコロムビア・ローズに歌わせる必要がないのではと思ったが、聴き直してみると明るい歌声の中にペーソスがあり、やはりコロムビア・ローズでなければあれ程のヒットにはならなかっただろう。
しかし、彼女は歌手生活10周年を前にして1961年に突如引退しまう。
引退理由は結婚とされていたが、真相はよく分からない。
コロムビア・ローズの魅力は声の美しさにあり、特に中音から高音にいたる歌声の美しさは同年代の歌手の中でもずば抜けている。
歌唱力も昭和30年代の女性歌手としてはナンバーワンだったという評価がなされている。
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