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2024/08/16

毒婦「高橋お伝」の数奇な運命

高橋お伝、名前をきいたことがある人もいるだろう。落語の「転宅」にも名前が出てきますね。
明治時代に世間では毒婦として知られているが、その人生について月刊誌『選択』の記事で初めて知った。以下はその要約。
生まれは1850年、器量良しで評判で14歳で初婚、直ぐに離縁。
再婚の相手とは相思相愛だったが、夫がハンセン氏病に罹ってっしまう。看病の甲斐もなく病状は悪化、お伝は夫を連れて東京の名医に診てもらうために上京。
東京で偶然に生き別れの姉に出会い、一緒に横浜に移り住む。
だが、姉の情夫の後藤から病に効くといって渡された水薬を夫に飲ませると、死んでしまう。
お伝はその後、生糸や茶葉の先物買いなどのビジネスを行うが借財を作ってしまう。
その頃、後藤と再会したお伝は、夫を毒殺した真相を聞き出し、犯人であることを確信する。
彼女は後藤と争う際に深手を負わせてしまい、後藤はそのまま自害する。
お伝は、「この者は姉の仇であり、よって姉の仇討をした」と書き置きを残して去る。
しかし裁判でお伝の主張は退けられ、金を得るための犯行として死刑、それも斬首の刑に処せられ。
お伝の肖像画が残されているが、美人というより男好きなタイプに思える。
ここまでが高橋お伝の生涯だが、これから先が妙な展開になってゆく。
お伝の遺体は解剖され、医師の興味でその陰部がアルクール漬けにして保存された。
陰部は論文にもなり、陸軍軍医学校に保管される。
ここで興味深いのは、彼女の陰部を保存したり研究論文に仕立てた人物が、揃ってかの731部隊の関係者だったことだ。
昭和28年には、浅草の松屋デパートでお伝の陰部を陳列する催しがあり大盛況だったが、このイベントの主催者も731部隊関係者。
その後のドサクサに紛れ紛失していた標本は、元軍医の右翼・二木秀雄が持っていたが、二木も731部隊のメンバーだった。
二木は731部隊の仲間と共に、日本初の血液バンクを創設、それが「ミドリ十字」になる。
こうして見ると、高橋お伝の毒婦伝説は彼女の生涯そのものより、死後の周囲の思惑によって脚色されていた様だ。

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