寄席な人々

2009/11/22

【寄席な人々】落語にみる「いい夫婦」

今日11月22日は「いい夫婦の日」だそうですね。するってぇと「わるい夫婦の日」ってぇのは、いつなんですかねぇ。
そんな日にちなんで、落語に出てくる「いい夫婦」像について書いてみた。

落語にも仲のいい夫婦は出てくるのだが、ただただ仲がいいというのでは物語になりにくいので、少しひねっている。
「短命」では夫婦仲がよすぎて励むあまり、亭主が次々と若死にする。「何よりも側(そば)が毒だと医者がいい」。 長生きしたけりゃ、あまり美しい妻を娶らぬことだという教訓だ。やはり「長命」がなにより。
「三年目」では先立つ妻が夫に心を残してしまうあまり、夫の再婚を防ぐべく新婚初夜(もう死語になりましたね)に幽霊になって現れると約束する。ここでは死ぬもの貧乏、生きていりゃこそ人生ということになる。
「小間物屋政談」では、手違いで旅の途中で死んだと判断されてしまった亭主が江戸に戻ると、女房と弟が所帯を持っていた。悲劇と思いきや、奉行の裁きで一転して亭主も幸せになる。まさに「禍福は糾える縄の如し」。

「大山詣り」では、亭主たちが水死したとウソを聞かされた女房たちが皆、頭を丸めて尼さんになってしまう。そこへ亭主たちが戻ってきて、「お毛が(お怪我)なくってお目出度い」となる。
「小言幸兵衛」で借家を借りにくる豆腐屋も夫婦仲がいいらしい。所帯を持って七年も経つのに未だに子どもが出来ないならそんな女房は追い出しちまえ、腰の温まった子どもをどっさり産むような女を世話してやると大家が言うと、泣き出してしまう。よほど恋女房なんだろう。
「替わり目」も亭主が飲んだくれだが、夫婦仲はいい。夜中に呑んで帰ってきた亭主のためにおでんを買いに行く。その後姿を拝んで感謝する亭主だったが・・・、という話。

「ざこ八」では婚礼の直前に逃亡してしまった男が十年ぶりに江戸の戻り、悪い亭主を持って乞食同然に落ちぶれてしまっていたかつての婚約者と所帯をもって、商家を建て直すというストーリー。鶴吉とお絹の純愛物語である。
「お直し」では、落ちる所まで落ちてしまった夫婦が、なんとかどん底から這い上がっていこうとする姿を描く。これも一種の純愛ものだといえる。

「芝浜」では、浜で財布を拾って有頂天になる亭主を夢だと騙し、仕事一途にさせる女房が描かれる。「女房と畳は・・・、やっぱり古いほうがいい」のだ。
「中村仲蔵」の女房も貞女だ。失敗して落ち込んでいる亭主を励まし、一流の役者に仕立てあげるのを手助けする。「夢でもいいから持ちたいものは、金のなる木といい女房」。
「猫久」では、普段おとなしい亭主がある日血相を変えて家に帰り「刀を出せ」と女房に言うと、女房は神棚の下で三度押し戴き亭主に手渡す。そのことを聞いた侍が「女丈夫。貞女なり、烈女なり、賢女なり」と讃える。

まだまだ沢山ありそうだが、ここらでお後が宜しいようで。

「楽しみは春の桜に秋の月、夫婦仲良く三度食う飯」
どちらさんも末永く、ご夫婦仲睦まじく過ごされるよう心よりお祈り申し上げます。

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2009/02/09

【寄席な人々】“笑点”の功罪

ある落語家の話だが、地方寄席を開く準備をしていたらその会場の係員から電話があり、「座布団は何枚くらい用意しますか?」という問い合わせだった由。高座の座布団なら、出演者が何人いても1枚で足りる。会場の係員にとっては恐らく、寄席=“笑点”というイメージがあったのだろう。
寄席に来たことがない人、ナマの落語を聴いたことがない人にとっては、そうかも知れない。

似たような話では、初対面の方に「ご趣味は?」と訊かれ「落語です」とか「寄席が好きです」と答えると、相手の方が気を利かしてか“笑点”のことを話題に振ってくることが多い。
私自身はその“笑点”をめったに見ないものだから、逆に返事に困る。何せ、司会者がいつの間にか圓楽から歌丸に代ったことや、回答者に昇太が出ているのを先日知ったばかりなのだ。
そんなわけだから、“笑点”の話題を振られてもアイマイな返事しかできなくて、心苦しい思いをする。

“笑点”は1966年に放送開始以来(その当時はよく見ていた)、放送回数が2000回を越える長寿番組であり、演芸バラエティとしてはお化け番組だ。
戦後の落語ブームがラジオ放送によって火がついたとすれば、昨今の寄席・落語ブームは落語家を主人公にしたTVドラマの影響だ。しかし数十年の長きにわたり全国津々浦々に寄席演芸を宣伝してきたという点では、“笑点”の貢献は大だ。落語家は“笑点”に足を向けて寝られないだろう。
その反面、“笑点”が寄席演芸だという誤った理解を生んでいることも否定できない。
“笑点”、特にその中の「大喜利」は寄席とか落語とかとは根本的に頃なるジャンルだ。

先日、三遊亭圓楽一門会に出向いた時に、圓楽が“笑点”について次のように語っていた。
「TV局には何度も、番組を降ろしてくれとお願いしてきたが、視聴率の関係から断られ続けてきた。
“笑点”で、毎週2日間拘束された。これが大変だった。
出演者と番組スタッフが相談しながら問題を考えるのが1日、もう1日は番組の収録のためだ。」
放送時間はわずか30分足らずだが、それに2日間の準備をしていたわけだ。やはり時間をかけないと良い番組はできない。
放送ではいかにもその場で問題を出して即興で答えているように見せているが、実は周到な準備がされている。長寿番組になるには秘訣があったのだ。
一時期、他局でも“笑点”の類似番組が放送されていたが、全て永続きしなかったのは、これだけの準備時間をかけていなかったためだろう。
“笑点”が、寄席や落語とは全く違うという意味はこの辺りにある。

人気落語家がそれだけ拘束されるということは、人気という緬からすればプラスにはなるが、その一方本業への影響も無視できない。
談志や志ん朝だって若い自分はバラエティ番組に出ていたが、ある時を境にして高座に専念するようになっていった。そうしなければ本物の芸は磨けない。
ところが“笑点”の主要なレギュラーは、もう数十年もこの番組に出続けている。この間、しっかりと芸を磨いてきた人もいるが、“笑点”人気にのって明らかに修行を怠ってきた出演者もいる。
圓楽が再三にわたり番組を降りたいと願ったのは、この辺りに理由があったのだろう。

さて落語フアンの方々が“笑点”をどう見ておられるのか、ご意見を拝聴できたら幸いである。

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2009/01/21

【寄席な人々】近ごろのハードな落語フアン

初対面の人などに「趣味は?」と訊かれると、以前は「落語(寄席)ですかねぇ」と答えていたが、昨今はとてもそんな事を言っていられないと感じるようになった。近ごろのハードな落語フアンと比べたら、私の「好きさ」加減など物の数ではないのだ。だから最近は落語会に行っても隅のほうで小さくなっている、というのは嘘だが。

開演前や仲入りで顔を合わせての会話がすごい。もちろん、アカの他人様同士だ。
「やあ、昨日はどちらへ?」「私は00独演会に行ってました。」「どうりで、XX落語会にはお見えにならなかったと思いましたよ。」「その前は△△寄席に行きました。」「私も行ってたんですよ、あれぇ、気がつかなかったなぁ。」ってな会話が、会場のあちこちで繰り広げられている。
その昨日や前の日というのが平日だったりするので、驚かされるのだ。

昔も寄席にせっせと通うフアンというのはいたが、大抵は学生か年寄りだった。
最近のハードな落語フアン層というのは30代から40代あたりが中心なので、世間でいう働き盛りの年代だ。
フアンとしての熱心さより、平日に、あるいは週に何回もそうした催しに行けることが驚きである。
私のサラリーマン現役時代、平日に寄席や落語会に行った経験がない。仕事人間とは程遠い存在だったのは自他共に認めるところだが、それでも土日か祝日にしか行けなった。時間的に無理だったのだ。定時に終わっても取引先や仕事仲間と飲みに行くことが多く、やはり時間は無かった。
周囲の企業の状態も似たりよったり、というよりは他社に比べ私のいた会社はまだまだ退社時間が早い方だったので、どこのサラリーマンもそういう状況だと認識していた。

だからハードな落語フアンに出会うと、勤め先はどちらで、どういうお仕事に就かれているのですかと訊いてみたくなる。
理想的には、仕事帰りに好きなエンターテイメントを観に行ければ最高だろうが、果たして日本全体で何%位の勤労者がそうした生活を送れているのだろうか。
ハードな落語フアンの会話を聞きながら、ついついそんな事を考えてしまうのである。

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2008/10/29

【寄席な人々】弾き出されるオールドファン

柳家権太楼のCDで1999年のライブ録音のものがあり、そのマクラで寄席の客が年寄りばかりで若い人はさっぱり来ないと嘆いていた。
確かに10年ほど前まではその通りだった。若い客が少なく、このままだと寄席の将来はどうなっていくのかと、ひそかに心配していた。
古今亭志ん朝ファンだったので、土日に東京周辺で行われる志ん朝の独演会は出来るかぎり出向いた。当時はサラリーマン現役だったので、いつも発売日から数日経ってから手配していたが、それでもチケットが取れないということは先ず無かった。
志ん朝以外の落語家なら当日に入れたし、前売り完売などというのは、談志の独演会ぐらいなものだった。
振り返れば、幸せな時代だったといえる。

ファン層の変化を感じ始めたのは、2000年の喬太郎とたい平の真打同時昇進の頃からだ。鈴本演芸場の披露公演では前列の2列が若い女性ファンで占められていて、驚いた。
その後、民放TVの連ドラや、NHKテレビ小説などで落語家を主人公にしたドラマが話題となり、今日の落語ブーム、寄席ブームといわれる隆盛に至ったというわけだ。
落語好きな人が増える、寄席に行っても沢山の人、特に若い人(と言っても30~40代位)が来場するようになったということは、古くからの落語ファンにとっても嬉しいことだ。このまま衰退していくのではと心配していたのが嘘のようだ。

しかし落語人気の高まりは、入場チケットの入手に大きな変化をもたらした。私が利用している劇場でもここ数年変化が起きた。
①国立演芸場では通常興行も全席指定となり、全ての番組で前月より前売りが行われるようになった。また名人会や花形演芸会ではインターネットと電話予約が優先され、完売した時は劇場窓口での前売りが無くなった。全ての番組はプレイガイドで購入できる。
②横浜にぎわい座では志の輔の独演会のみプレイガイドだけの前売りとなった。つまり直接劇場に出向いても前売りは購入できない。11月は喬太郎勉強会もプレイガイドのみの前売りとなった。この分では談春の独演会が同じ扱いになるのは、時間の問題だろう。
③鈴本演芸場の特別興行の前売りでは、以前は劇場窓口とプレイガイドの二本立てだったが、今年からは全席プレイガイドのみの扱いとなった。
要するに、人気のある番組は前売りを買うしかなく、それも多くは大手プレイガイドで購入するしか選択肢が無くなってきている。

プレイガイドを利用された方はご存知のとおり、人気の番組になると発売日の午前10時に電話をするとなかなか繋がらない。リダイヤルボタンを押し続け、30分後位にようやく繋がると完売ということになる。
インターネットではこのブログでも再三書いている通り、接続が10秒20秒遅れただけで既に完売ということも珍しくない。にぎわい座の志の輔の独演会だと、時報と共に接続しても既に完売となっていたりして、一体どういうことだと嘆くしかない。
つまり秒速で売り切れてしまうわけで、これでは購入できる人は限られてしまう。
年配者の中にはインターネットでの購入など不得手の方も多いと思われ、そういう人々は次第に寄席や落語会から弾き出されてしまう。
近ごろは人気番組ともなると、若い人たちが多数を占めていて、年寄りは少数派になることもある。

費用の問題もある。
プレイガイドで購入すると、通常の入場料の他に、次のような費用が発生する。
・システム利用料: 210円/枚 
・店頭引取利用料: 105円/枚
(自宅に送って貰う場合は、配送+システム利用料:600円/件)
この他に、人気の番組では先行抽選販売「プレリザーブ」という制度があり、前売り発売日前に申し込み、抽選であたると前売りが買えるという仕組みだ。この場合、次の費用が別途かかる。
・特別販売利用料: 240円/枚
寄席の入場料は通常2000~3000円程度なので、これらの加算は利用者にとっては負担である。

こうなるとオールドファンにとっては、若い人が増えて、寄席ファンが増えて、良かった良かったと単純に喜んでばかりいられない。
グループでチケットを購入したり、座席を確保したりする人が増えたのも、こうした傾向に拍車をかけているようだ。
ルールに従って入場券を買い、観に来ているわけだから何ら文句のつけようが無いのだが、オールドファンの一人としては、何かシックリこない気持ちを抱いているのも事実である。
お互いがハッピーになるような、上手い手立てが無いものだろうか。
ないでしょうねえ。

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2008/09/04

【寄席な人々】数字の付く落語のネタ

一、二、三という様な数字がアタマに付くネタ(演目)を集めてみました。古典落語で、一度は聞いたことのある演目に限定しています。
さすがに一から十まではみな揃っていて、中でも一と三の付くネタの数が多いようです。
他にもこんな噺が、というのがあれば教えて下さい。

一目上がり
一つ穴
一眼国
一文惜しみ
一分茶番
一人酒盛り
二番煎じ
二階ぞめき
二人癖
三人旅
三年目
三方一両損
三枚起請
三軒長屋
三井の大黒
三人無筆
三味線栗毛
四段目
五貫裁き
五目講釈
五人廻し
六尺棒
七段目
七度狐
八五郎坊主
八五郎出世(妾馬)
九段目
十徳
二十四孝
三十石
百年目
百川
千両みかん
万病圓
萬金丹

毎日毎日ニュースは自民党の総裁選に誰が出るだの出ないだの、それとアメリカの共和党大会の報道ばかりです。いずれにしろ、あっしにゃぁ係わりの無いことでござんして、もうウンザリです。
こういう時は、小ネタで残暑見舞いということで。

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2008/08/09

【寄席な人々】独演会に「前座」を出演させるな

以前から不思議に思っていたのだが、独演会や落語会の開口一番になぜ前座を出すのだろう。全てではない。例えば立川志らくは前座を使わないし、立川談春もつい最近まで前座を出さなかった。
前座を出しても良いが、それなら寄席(定席)に習い、開演前に出すべきだろう。前座はまだ一人前の芸人になっていないので、お金を取って客に見せるわけにはいかない。稽古の一環として開演前に喋らせている。
まして独演会などの落語会は、客は特定の噺家を観にくるわけで、開演後に前座を出演させるのは失礼ではなかろうか。

寄席に行く時は必ず開演15分前には会場に入り、前座の高座から観るのを楽しみにしている。これは見込みがあるなと思っていた芸人が売れてくると、こちらも嬉しくなる。しかしそれとこれとは別問題である。
公演にはケジメが必要だ。

こう考えた理由の一つに、半世紀ぶりに観た歌謡曲歌手のコンサートがある。
かつての歌謡曲歌手のコンサートというのは、どの歌手でもパターンが決まっていて、先ず司会者が出てきて「1週間のご無沙汰です」とか何とか言いながらお喋りをする。次いで前座歌手というのが出てきて、何曲か唄う。ようやくお目当ての本人が登場して歌を披露するが、その途中にゲストが登場して時間をつなぐ。結局ご本人が唄う時間は全体の半分程度になっていた。
しかし昨年から今年にかけて観た石川さゆりや五木ひろしのコンサートでは、最初から最後まで本人しか出演せず、一人で3時間以上のステージをこなしていたのである。これには驚いた。
何せ半世紀ぶりだから、いつの頃からこうした形式に変わったのか、あるいは別の歌手のコンサートでは異なったスタイルで行っているのか詳らかでないが、要は変えようと思えば変えられるということだ。
落語界でも出来るはずだ。

大半の独演会がこうした番組構成になっている。
1、前座
2、弟子(二ツ目以上)
3、本人
仲入り
4、ゲスト
5、本人
これを前座は開演前に出すようにして、必要に応じて弟子やゲストを出演させる。その分ご本人がタップリと時間をかけて口演してくれれば、全体が充実した独演会や落語会になると思うが、どうだろうか。

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2008/06/28

【寄席な人々】あなたは長嶋タイプ?それとも村山タイプ?

Murayama_minoruプロ野球全盛期に活躍したスーパースターに、長嶋茂雄と村山実がいる。片やミスタージャイアンツならもう一方はミスタータイガース、バッターとピッチャー、長嶋が華麗なら村山は熱血と、ライバル同士対照的なスタイルだった。
現役を引退して解説者になっても、長嶋は楽天的で選手の長所を褒め上げるのに対し、悲観的な村山は選手の欠点を指摘するタイプだった(村山を知らない方は野村監督に置き換えて下さい)。
作家・清水義範の短編小説「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」は、こうした対照的な二人が、一つの物事をどう評価するかというテーマで書かれていて、とても面白い作品である。

誉める長嶋、キビシイ村山、どちらも野球にかける情熱は同じだ。それぞれの人生観や性格に起因するものであって、どっちが良いか悪いかという問題ではない。
HPやブログで寄席や落語の評を書いている人も、大まかに二つのタイプがある。噺家の良い点を褒め上げて良かった面白かったと書くタイプと、欠点を指摘してメッタに誉めないタイプの人もいる。しかし、これを以って、誉める人は落語を愛していて、けなす人は落語ファンとはいえないと言うのは、違う。
どちらも寄席や落語が好きだが、表現の仕方が異なるのだ。

以前書いたことがあるが、子どもの頃よく寄席に連れて行ってくれた近所の女性は、寄席で笑ったのを見たことが無い。場内が大爆笑している時でも、隣の席を見るとニコリともしない。周囲から見れば何が面白いんだろうと思うだろうが、本人は寄席が大好きなのだ。実際に隣にこういう人が座ると、気にはなるが。
外観で人は判断できないと、その人を見て思った。

芸人と観客では立場が違う。芸人は芸を披露して生活の糧とし、観客はお金を払ってそれを観に行く。芸人は客を楽しませようと一生懸命に演じるが、客はそれを面白いと思うか、つまらないと思うかはそれぞれの判断だ。面白ければ面白いと感想を書き、つまらないと思えばそう書くだけのこと。愛情だの情熱だの関係ない。
他のサイトを見て、自分と異なる評価が載っていれば、ナルホドそういう見方もあるんだなと思うこともあるし、この人の評価は見当違いではないかと訝ることもある。それで良いのだ。
演者もそうだろう。そうした観客の反応を見て自信をつけたり、やっぱりもっと稽古をしなけりゃと反省したり、どちらにしても自身への励みとなるだろう。

あなたは長嶋茂雄タイプ?
それとも村山実タイプ?

<追記>
先日エントリーした“落語家に「師匠」付けはどうもネ”の記事に、予想以上のアクセスがありました。いくつかのサイトでこの拙文がとりあげられ、様々な論評が行われていて、それぞれ大変参考になりました。
この場を借りて、謝意を表します。

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2008/06/21

【寄席な人々】落語家に「師匠」付けはどうもネ

ブログで寄席や落語をテーマにしているものが増えたが、落語家の芸名に敬称として「師匠(師)」を付けるのが流行っているようだ。私のように呼び捨てにしているのは今や少数派である。これがホームページとなると、私同様に呼び捨て派が多数であるところが面白い。

全ての落語家に付けているかというと、そうではない。傾向としては真打にのみ「師匠(師)」を付け、二ツ目以下は「さん」付けにしている。
こういうのは趣味の問題だが、私はどうもこれに抵抗がある。二人称の場合は、呼び捨ては失礼になるから敬称を付けるのは礼儀だが、三人称の場合は不要ではなかろうか。

「師匠」というのは先生と同義であるが、それがお稽古ごとを教えてくれる人を指すようになり、転じて落語家の敬称になったが、本来は弟子が指導者を指す言葉だ。
三人称で語る場合、例えば柳家喬太郎がさん喬を師匠、先代の小さんを大師匠と呼ぶのは当然だが、同業や弟子でもない人が、芸名に敬称を付ける必要があるのだろうか。

そういうブログを見ると、他の古典芸能の芸人は呼び捨てにしている。落語家に師匠を付けるなら、歌舞伎役者には「丈」を付けねばならず、講釈師や浪曲師には「先生」を付けねばなるまい。
漫才師、曲芸師や狂言師などはなんと呼んだら良いのか、そんなこと考えていると頭が痛くなるから、いっそ全て呼び捨てにするのが公平というものだろう。

古典芸能の世界では、大向こうと言われる掛け声も全て呼び捨てだ。
歌舞伎では「成田屋!」と屋号を呼び捨てだし、新派は「水谷!」と苗字を呼び捨て。新国劇も「島田!」(なぜか最初の“し”を強音にするのが慣わし)であり、決して「音羽屋さん!」とか「喜多村さま!」とは言わない。第一、「水谷さま」ではその後に「お薬できました」と言いたくなってしまう。締まらないのだ。

教員や議員、弁護士の集まりに行くと、全員がお互いに「先生」という敬称で呼んでいるが、あれは異様だ。生徒や弟子がいるから先生なのであって、双方が先生と呼び合うのは異常な世界としか思えない。
「先生と言われるほどの馬鹿でなし」である。

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2008/04/20

【寄席な人々】噺家の出囃子

以前、「桂文楽に見る名人の条件」の中で書いたように、噺家にとって出囃子は大切な要素であり、これも芸のうちです。出囃子が鳴ると、お目当ての落語家が登場するのをワクワクして待つ瞬間、これも寄席の楽しみの一つです。
好みの問題と言われりゃそれまでですが、やはり「鳩ぽっぽ」や「ディビークロケット」じゃあ、雰囲気が出ませんやね。それに名人には絶対になれないですよ。
そこで(「どこだ」と探さないように)、今回は当ブログによく登場する噺家たちの出囃子を集めて見ました。(カッコ)の数字は何代目かを示しており、現役の人と一代限りの人は表示していません。
眺めているだけで、これはこれで楽しいものです。
もし誤りがあったら、是非ご指摘ください。

    芸    名   出  囃  子
 桂歌丸  大漁節
   三遊亭円歌(2)  踊り地
   三遊亭圓生(6)  正札付
   三遊亭圓楽  元禄花見踊り
 三笑亭可楽(8)  勧進帳
   古今亭菊之丞  元禄花見踊り
   柳家喜多八  梅の栄
   柳家喬太郎  まかしょ
   三遊亭金馬(3)  本調子カッコ
     春風亭小朝  さわぎ
   柳家小さん(5)  序の舞
   柳家小三治  二上りカッコ
   三遊亭小遊三  ボタンとリボン
   柳家権太楼  金毘羅船
 柳家さん喬  鞍馬獅子
   柳家三三  娘道成寺
   桂三枝  軒すだれ
   桂枝雀  昼まま
   立川志の輔  梅は咲いたか
   林家正蔵(8)  あやめ浴衣
   春風亭昇太  ディビークロケット
   立川志らく  鳩ぽっぽ
   古今亭志ん生(5)  一丁入り
   古今亭志ん朝(3)  老松
   入船亭扇橋  俄獅子
 立川談志  木賊刈り
   立川談春  鞍馬
 金原亭馬生(10)  鞍馬
   桂文珍  円馬ばやし
   桂文楽(8)  野崎
   桂米朝  三下りカッコ
 三遊亭遊雀  粟餅
 滝川鯉昇  鯉のぼり
   春風亭柳好(3)  梅は咲いたか
   春風亭柳朝(5)  さつまさ

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2008/02/05

【寄席な人々】寄席と独演会

Yose同じ落語を聴きに行くにしても、寄席と独演会(落語会)では全く違う。独演会はその噺家が持てる力を十分に発揮し(なかには発揮しない芸人もあるが)、客もそれを目当てに足を運ぶ。個人の芸を観に行く場所だ。
嫌いな人は最初から来ないし、ファンだけが集まることになる。9割の人に嫌われても、1割の熱狂的なファンがいれば興行として成り立つ。俺の芸が分かるヤツだけついて来いで済む。だから個性に強い落語家の独演会になると、まるで教祖を囲む信者の集まりみたいになってしまう。身内だけしか分らないギャグが飛ばされ、馴れない人は戸惑うばかりになる。

これに反して、寄席は集団芸と言える。高座に出る芸人は一人(グループもあるが)一人が自分の芸を披露するのだが、全ての出演者がトリと呼ばれる最後に出る噺家を盛り立てていく。最初に登場する「サラ」と呼ばれる芸人から、仲入り(途中休憩)の直前に出る「仲トリ」、仲入り直後に出る「ツカミ」、その後の「膝前」、トリの前に出る「膝替り」(大がいは色物の芸人)、これらの人々が後ろへ後ろへとトリを盛り立てて行く、それが寄席の世界だ。
時にトリが若手で、仲トリに出る人が大看板というケースもあるが、この場合仲トリは抑え気味に高座をつとめなければならない。
以前、当代の金原亭馬生の襲名披露が行われた鈴本演芸場の高座で、古今亭志ん朝が「膝」で出て「三方一両損」をやったが、後日に志ん朝の独演会で同じネタを聴いたところ、まるで別物のようだった。それほど鈴本では抑えて演じていたのだと、感心したことがある。それでいながら、決して手抜きをしていないところが志ん朝の力量だった。

寄席の出演者を「顔付け」というが、席亭(寄席の支配人、オーナー)が決める。何も人気者や芸達者を並べるだけが能じゃない。
若手とベテラン、古典と新作、落語と色物などの組み合わせと考慮し、数時間の上演時間に客が耐えられるように、時には息抜きのための芸人も配さねばならない。
私が、寄席は集団芸とよぶ由縁だ。
ツマラナイ芸人だと侮ってはいけない、その日の立派な役回りかも知れないからだ。

芸人から見た寄席というのは、役回りということ以外に、時間の制約というのがある。
大勢の出演者の都合で、早めに切り上げねばならない、逆に時間をつなげねばならないと、色々な場面に遭遇する。正月公演だと「3分間で」などという場合だってある。そうしたケースも柔軟に対応しなければいけない。
長講一席が得意だが、数分間のマクラや小咄で時間をつなぐのは苦手と言う噺家は、寄席は務まらない。

寄席のもう一つの特徴は、客にとって嫌いな芸人が出ることがある。これは独演会では有り得ないことだ。嫌われているという反応は高座の芸人にも伝わるだろうから、芸人はそこを凌いでいかねばならない。拒絶反応や野次をかわす力が求められる。
立川談志が未だ寄席に出ていたころ、客席の反応に怒り客と言い争いをすることが度々あった。いくら立派な芸を持っていても、これでは寄席芸人としては失格だ。
芸人は嫌われても平気で高座をつとめ、客は嫌な芸人が出てきても辛抱して聴く、これがお互いのマナーだ。
正に寄席こそが、人間形成の場だと言える。

お金を払って人格を磨く、実に贅沢な世界ですね。

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