思い出の落語家

2009/12/12

【思い出の落語家16】八代目春風亭柳枝

Photo今でもそうだが、いわゆる名人級や人気者は名人会やホール落語会が中心となり、寄席(定席)に出る回数が少なかった。
だから、普段の寄席を支えていたのは中堅クラスの人たちが中心だった。
もちろんお客を呼べるには実力とある程度の知名度が必要で、昭和20-30年代にかけて活躍した八代目春風亭柳枝は、そうした落語家の一人だ。
高座というのは生身なので、芸人の性格が現れてくる。
八代目柳枝はいかにも温厚そうな人柄で物腰が柔らかく、「でございます」「あそばします」「おぼし召す」など、他の落語家ではお目にかかれない丁寧な言葉使いをする人だった。
仲間内では「お結構の勝ちゃん(本名が勝巳)」という仇名がつけられていたそうである。
こうした高座姿は、客席をジロっと眺めて「良く来たなぁ」と切り出す四代目鈴々舎馬風と対照的だった。刑務所に慰問に行き、開口一番「満場の悪漢諸君!」とやった馬風の芸風も、それはそれで貴重ではあったが。

ネタの数は多かったが、長講や大ネタを演じることは無く、軽い噺が得意だったと記憶している。それも軽くサッと一席演じてから踊りをサービスした。
この人の「王子の狐」と「花筏」は、現在も柳枝を超える人がいない。
前者の狐を騙す男や後者の提灯屋は、柳枝本人の人柄が映し出されている。
地味だが確かな芸の持ち主で、53歳での死は惜しまれる。
なお、春風亭柳枝は落語家の名跡なのに、50年間誰も名を継ぐ者がいないというのは、いかにも寂しい。
伝統的に柳枝は小柳枝を前名にしているが、現在柳枝の名は落語協会に帰属していて、小柳枝は芸術協会に所属しているというネジレが原因とのことだが、勿体ない話だ。

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2009/11/26

【思い出の落語家15】「静岡落語」の二代目桂小南

Konan桂小南、よほどの寄席通でなければ忘れられかけていたが、昨今の寄席ブームで再びその功績が見直されてきているようだ。
二代目桂小南は、東京の寄席で上方落語を演じた珍しい噺家だった。
かつては落語は東京、漫才は大阪と言われた時代があり、特に東京の落語フアンからすると上方落語を一段低くみるような傾向があった。
一つには、関西弁が分かりにくかったということがある。
今はもう随分とマイルドになっているが、一昔前の関西弁は訛りが強く、しかも早口に感じられて内容がつかみづらかったのだ(これが「金明竹」のネタになっている)。
それまでも東京の寄席で上方落語を演じた噺家はいた。
例えば小南の師匠である(最初の師匠は三代目金馬)桂小文治という当時の大看板がいたが、これがさっぱり面白くない。ただ踊りは上手かったので、早く噺が終って後の踊りを楽しみにしていた。
他に三遊亭百生がいて、この人は面白かったが訛りとアクが強く、フアンは一部の人に限られていた。

小南の最大の功績は、上方落語を東京の落語フアンにも分かり易く語ったことだ。
本人は相当な苦労をしたようだが、訛りが弱くしかも比較的ユックリと喋るので聴きやすいのだ。小南の出身が京都だということも幸いしたのかも知れない。
小南本人は「大阪と東京の中間で静岡落語」と称していたそうだが、マトを得ていると思う。
顔も目も鼻も丸く唇に色気があり、とにかく愛嬌のある落語家だった。甲高いがよくとおる声で、陽気な高座姿を見せていた。
ネタの数は多かったが、とりわけ子どもが登場してくる噺が得意で、なかでも「鋳掛(いかけ)屋」はひっくり返るほど笑えた。一方、「しじみ売り」には泣かされた。
「代書屋」は、今もこの人が最高である。
晩年に芸術選奨文部大臣賞を受賞しているが、昭和30-40年代がこの人の全盛期だった。
二代目桂小南は当時の東京の落語フアンに、上方落語の面白さを知らせた一番の功労者だったと思う。

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2009/07/11

【思い出の落語家14】二つ名の九代目桂文治

9bunjiよく名前を言う時に、「XXの〇〇」と呼ばれるのを「二つ名」というが、九代目桂文治はこの二つ名の多い芸人だった。
先ずは本名(高安留吉)から「留さんの文治」、性格から「ケチの文治」、前名(翁家さん馬)から「さん馬の文治」。

まだ私が小学生のころの翁家さん馬時代に、頻繁に高座を観た。他の落語家と違って休演することがなく、とにかく良く寄席に出ていたことを記憶している。
下手だなあというのが当時の印象だが、母なぞはさん馬が出る度に「またさん馬だよ、イヤだねー。」と言って嫌っていた。だから文治を襲名した時も、「なんであんなのを文治にしたんだ。」と怒っていた。
いま録音をCDで聴いても、やっぱり下手だと思う。
ところが落語というのは不思議なもので、上手ければ良く下手ならダメというわけではない。上手いんだがなんだか面白くない、下手だけど愛嬌があるね、という類の噺家は今でも沢山いる。
そこがこの世界の難しいところだ。
文治は下手だが、高座に独特の魅力があった。

野崎の出囃子が鳴ると、直ぐに高座に現れる。長い顔に奥の方に丸い目が光っていて、アゴを引いて上目使いに客席を見る。
声は低い方だったが、時々素っ頓狂な高い声を出すのが特長だった。
映画が好きだったようで、しばしば映画の話題をマクラに使っていた。
古典落語のなかのクスグリでも「あんたエデンの東の方から来たんじゃないのかい」とか「それが人間の条件だ」とか、「岸田今日子って女優ね、まあすけべったらしい顔をしてね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんだ」などなど。
「俺んとこへめり込んできやがって、小野田セメントみたいだ」なんていうのもあった。

飄々とした芸風で、人情噺やいわゆる大ネタには全く縁が無く、もっぱら軽い滑稽噺を得意としていた。
若いころ大阪で修行したことがあり、上方ネタの「不動坊」を東京に持ってきたのはたぶん文治ではなかろうか。
個人的にはこの人の「今戸焼」が好きで、このネタだけ今でも文治が一番だと思っている。サゲが変っていて、「渥美清」で落している。

ケチだったのは有名で、当時、都電の回数券を買って寄席を移動していたという。寄席を休まなかったのもケチのせいかも知れない。
そのケチを地でいったのが「片棒」、これもなかなか味があった。
名人上手とはほど遠かったが、愛嬌があって愛された落語だったと思う。

<記事の訂正>
ジャマさんという方から指摘があり、「上方ネタの『不動坊』を東京に持ってきたのはたぶん文治・・・」の部分を、
「『不動坊』を東京に持ってきたのは三代目の小さん」に訂正いたします。

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2009/06/25

【思い出の落語家13】古今亭志ん生の凄さ(2)

五代目古今亭志ん生や八代目桂文楽が健在のころは、彼らが十八番としていたネタは、他の噺家は遠慮して高座にかけなかった。それだけ聞くと、昔の落語家の世界は上下関係が厳しかったと思われてしまうが、そうではない。
例えば、志ん生が得意としていた「火焔太鼓」について見てみよう。

ストーリーはざっとこんな具合だ。
道具屋の甚兵衛は普段から女房に「商売が下手だ」と馬鹿にされている。
今日も甚兵衛が市で仕入れてきた太鼓を女房から散々にけなされる。
甚兵衛が小僧に言いつけて、ハタキで太鼓のホコリをはたかせていると、ちょうどお駕籠で通り掛かった赤井御門守というお大名の耳にその太鼓の音が入り、家来に命じて甚兵衛に屋敷に持参するよう命じる。
甚兵衛が太鼓を屋敷へ持ってゆくと、「これは火焔太鼓といって、世に二つという名器」と、三百両で買い上げられた。
三百両を懐に宙を飛ぶように帰ってきた甚兵衛は、女房から「お前さんは商売が上手だ」と手の平を返したように褒められる。
甚兵衛も得意になって「今度は半鐘を仕入れる」と言うと、女房は「半鐘はいけないよ。オジャンになる」。

実はこのネタ、伝えられていた古典の形を志ん生が随分と手を入れているのだ。
例えば、
(1)オリジナルでは道具屋が始めから「火焔太鼓」と知っていて仕入れてくる。
(2)だから殿様から「火焔太鼓」だと言われても驚く場面がない。
(3)オリジナルではこの後、道具屋が本当に半鐘を仕入れてくる。
(4)小僧が半鐘を叩くと、火事と間違われて大勢が店に踏み込み、売り物をメチャメチャに壊してしまう。
(5)サゲは、「ドンと太鼓で儲けたが、半鐘でおジャンになった」。
こうなるとオリジナルは換骨奪胎、いま演じられている「火焔太鼓」は、志ん生による「改作」といっても良い。

こうした改作は、他に志ん生については前回とりあげた「品川心中」、文楽なら「船徳」、三木助なら「芝浜」、柳好なら「野晒し」、金馬なら「薮入り」や「居酒屋」など沢山の例がある。
こうした噺は古典には違いないが、演者のオリジナリティーが非常に高い。だから他の落語家が遠慮して高座にかけなかったのだ。
一口に古典落語と言っても、昔ながらの形でそのまま演じていたら、とっくに廃れたネタも多かった筈だ。
昭和の初め頃に活躍した彼ら名人・上手と言われた落語家たちが苦心して改作してくれたお陰で、現在わたしたちも楽しめているわけだ。

五代目古今亭志ん生の芸風を評して「ぞろっぺい」と言われるが、「ぞろっぺい」どころか、緻密に計算され尽くした演出をしていたのだ。
それなのに観客には「いい加減」に映ってしまう、そこが志ん生の凄さである。

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2009/02/27

【思い出の落語家12】古今亭志ん生の凄さ(1)

Shinsho私が小学生のころ、兄に「志ん生の落語って、どうしてあんなに面白いの?」ときいたことがある。
落語フアンだった兄はこう答えた。
「そりゃあ志ん生がしゃべるからさ」。
志ん生の落語の魅力はこの一言に尽きるのだ。
数多の「五代目古今亭志ん生論」がある中で、この兄の一言がもっとも的確だと思っている。
八代目文楽や圓生なら、そのうち芸風が似た人が出てくるかも知れないが、志ん生はそういかない。オンリーワンの不世出の芸人だといえる。

かつてある雑誌が各界著名人に、無人島にもっていくレコード(今ならCD)を1枚選ぶというアンケートをとったことがあり、その中の一人が志ん生の「品川心中」と答えたのを記憶している。
私も落語家の中で誰を選ぶかと問われればやはり志ん生で、演目を一つといわれれば「品川心中」に落ち着く。
あらすじは、ざっとこうなる。

品川宿の白木屋の女郎お染は、若い頃は売れっ子で板頭(ナンバーワン)をはっていたが、歳と共に客が減っていき、今では紋日に必要な40両も工面できない有り様。
こうなればいっそ心中してしまえば面子が立つと、心中相手を物色し、白羽の矢が立てられたのは本屋の金蔵。金蔵はお染に心中をする約束をさせられる。
心中の決行日に、お染は金蔵を品川の桟橋に連れて行く。身投げをしようという。ぐずぐずしている金蔵をお染は突き落とし、自分も飛び込もうとした。その時店の者が駆けつけ、ヒイキの客が40両の金を用立てたと告げ、お染は身投げをやめて店に戻ってしまう。
裏切られたと知った金蔵はようやく海から上がり、親分のもとに行くが、そこでは博打の真っ最中。金蔵が戸を叩く音を役人の手入れと勘違いして、一同大騒ぎとなる。
後半は、金蔵が仲間の力を借りてお染をおどかすのだが、滅多に高座にかかることがなく、殆んど前半で切る。

志ん生以外の噺家が演じると、お染が心中を決意する場面、相手を金蔵に決める場面、金蔵が一緒に死ぬことを約束する場面、これらがどうしても説明的になってしまう。心中を決意するまでの心理状態などが描かれるのだ。
それはそうだろう。この部分に説得力がないと、この噺は成り立たないからだ。
それに対して志ん生の演出は、ここを実にあっさりと描く。お染が「それじゃ一緒に死んでおくれかい」というと、金蔵は「おおくれだとも」と応じ、簡単に心中の約束をしてしまう。あんまり深く考えない。シャレだよ、シャレ・・・程度の軽いノリで決めてしまうのだ。
志ん生が演じると、聞き手はこれで十分納得してしまう。
志ん生の「品川心中」をヒントにして、作家井上ひさしが小説「手鎖心中」を書いて直木賞をとったのは有名なエピソードだが、他の噺家ではこう行かなかったろう。

五代目古今亭志ん生は明治23年に生まれ、43年に入門している。
若い頃から「飲む打つ買う」の三道楽、長屋住まいの家庭は火の車。赤貧洗うがごとしの生活で、借金をこさえては夜逃げを繰り返す。
芸人としてはさっぱり鳴かず飛ばずで、芸名を17回も変える始末。
昭和10年代に入ってからようやく人気が出始め、本格的に売れ出したのは昭和22年に満州から帰国してからだ。
戦後の日本映画で、家族で落語を聞く場面があると、たいがいは志ん生の落語が使われていた。先代文楽がいわゆる落語通のご贔屓が多かったのに対し、志ん生は大衆的な人気を博していた。

経歴をみれば分かるように、志ん生の生き方そのものが落語の世界なのだ。そうした人生経験に裏打ちされているから、話に説得力が出てくる。
長屋住まいで貧乏暮らし、道楽は酒と博打と女郎買いというのが、落語の登場人物と相場が決まっているが、それはそっくり志ん生が辿ってきた道だ。
「あんな亭主とは別れちまいな」「だって寒いんだもん」という会話一つとっても、それは志ん生の人生そのものなのだ。
古今亭志ん生の凄さは、ここにある。

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2008/10/18

【思い出の落語家11】「あやつり踊り」八代目雷門助六

Kaminarimon_sukeroku落語家にとって踊りは必須科目で、得手不得手はあっても踊れない噺家はいない。最近の寄席では少なくなったが、かつては一日に一人は一席終えたあと踊りを披露していた。高座でしばしば踊りを見せてくれたのは八代目春風亭柳枝だ。
私の兄は、寄席で志ん生が踊るのを見たと自慢していたが、確かに珍しかったのだろう。意外のようだが、彦六の先代林家正蔵が時々踊りを披露していた。一度何かの機会に、正蔵一門が全員で「かっぽれ」を踊るのを見たことがある。
最近の落語家の中では志ん朝が上手かった。毎年恒例の「住吉踊り」で、志ん朝の踊りを見るのが楽しみだった。先代の三木助や馬生、圓生も名手だったそうだが、残念ながら見るチャンスが無かった。
現役では当代の金原亭馬生が上手いし、度々高座で踊る姿を見ている。
上手い踊りを見たければ、歌舞伎や舞踊家の舞台を見に行けばよい。落語家の踊りというのは、上手いだけでは駄目で、粋で色気と愛嬌がなくっちゃいけない。それさえ備わっていれば、多少下手でも構わないのだ。

噺を聞くより、どちらかというと踊りの方を楽しみにしていた落語家がいた。八代目雷門助六である。この人は一席終わると必ずといって良いほど、踊っていた。ご覧になった方もあるだろうが、「あやつり踊り」だ。糸あやつりの人形振りで、つまり操り人形と同じ動きで踊るのである。
人形振りといえば、歌舞伎の世界では「伊達娘恋緋鹿子」の櫓のお七が有名だが、あちらは文楽の人形振りで、助六のものは全く違う。

あまりお馴染がないかと思うが、日本の伝統的な芸能に「江戸糸操り人形」というのがある。現在も「結城座」という劇団が伝統を守っていると思う。
約370年の伝統も持つ芸能で、私が寄席に通い始めたころには、色物としてしばしば高座にかかっていた。歌舞伎の名場面などをあやつり人形で見せるという芸で、舞台の袖には美太夫語りと三味線弾きまで配置されていて、時々大きな茶碗でお湯を飲む仕種が実に可愛かった。舞台で瞬時に衣装が変わる「引き抜き」の芸などは極めて高度で、恐らく世界的にも最高の水準ではなかろうか。私は大好きだったが、高座で目にすることが無くなったのは残念だ。

先代の雷門助六は、この糸あやつりの人形振りを高座で見せてくれたが、これが実に見事なのだ。特に両足を大きく開いたまま、すっと足を閉じながら上半身が伸びてゆく場面では、いつも場内は拍手喝さいだった。子どものころ家に帰って真似してみたが、全く上手くいかなかった。当たり前だが、難しいのだ。
ちょっと目が奥に引っ込んでいて、垂れ目で、愛嬌のある芸人だった。
5才で高座に上がり、16才で真打になったというのだから、今では想像もつかない。一時期寄席を離れて、当時の芸名だった「雷門五郎一座」を率いて、軽演劇で全国を回っていた。一度「妾馬」を芝居にしたものを観たことがある。
その後高座に復帰し、「長短」や「虱茶屋」など所作の入ったネタを得意としていた。踊りは何をやらせても上手かったが、何といってもやはり助六は「あやつり踊り」につきる。
現在は、当代の助六が芸を継承している。

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2008/04/22

思い出の落語家10「ご存知」柳家三亀松

Mikimatsuたまにはイロっぽい所をということで、今回は初代柳家三亀松を。ジャンルからいうと音曲師ということになるが、三味線漫談、粋曲、粋談と多彩な芸の分類に困って、しまいには「ご存知・柳家三亀松」とチラシに書かれた、伝説的な色物の芸人である。
1901年生まれの三亀松の全盛期は戦前になるらしいが、戦後も大看板として寄席に出ていて、色物の芸人には珍しく度々トリをとっていた。私は小学校3~4年にかけて信濃町に住んでいた関係から、親に連れられ新宿末広亭に通っていたので、三亀松の高座を数回観ている。

なにせお色気が過剰で、戦前の検閲で31枚のレコードが発禁になった人なので、芸が子ども向きとはいえない。ウットリするような良い声で都々逸を唄っているときは、子ども心にも思わず聴き惚れていたが、漫談になると途端に女の鼻声で「イヤァ~ン、バカァ~ン」や「うっふん、イジワルゥ」「ヤッッテ」(音声は想像してください)と始まるので、なかなか刺激的だった。
その都々逸も、
♪緋緬(ひぢりめん) 肩から滑って のぞいた乳房 にっこり笑って 消す灯り♪
というような文句なので、9歳の子どもがどこまで理解できたか、心許ない。
三亀松の方だって、最前列の中央にチョコンと子どもが座ってられたのでは、さぞかしやりにくかったろう。
なかには、
♪金も出来たし 着物も出来た そろそろあなたと 別れよう♪
なんて、素っ気無い文句もあった。
よくまあこんな芸を子どもに見せていた、我が母親の神経はどうなっていたんだろう。

一度、代表作である「新婚熱海(箱根だったかも)の一夜」の一部を聴く機会があったが、この中で「いけませんわ、さっきのお風呂の中の、あのおイタは。」というセリフだけは、身体に電流が走った。あの時、私は目覚めたのだ! 以来ずっと目覚めっぱなしで、今日に至る。

芸にムラのある人で、やる気のある時は都々逸から「さのさ」、新内と次々に良い喉を披露するが、やる気のない時はサッパリで唄は二つ三つ、後は当時の時代劇映画スターだった阪東妻三郎や大河内傳次郎のモノマネでお茶を濁していた。

結婚して妻が妊娠し5ヵ月だった時に、お腹の赤ちゃんへの胎教として、妻を伴って人形町末広に出かけた。この時に柳家三亀松が出ていたが、顔はどす黒く、身体はやせ、目ばかり大きく見えるという状態だった。それでも喉は衰えず、当日は気分が良かったのか次々と都々逸を披露していた。
その三亀松の高座を初めて目にした妻は、あまりの男の色気にブルブルっと震えたそうだ。何のことはない、時を隔てて、夫婦揃って三亀松によって目覚めさせられたのである。
それからおよそ半年後の1968年1月に、三亀松は胃がんで亡くなった。享年66歳であった。
その2年後には、落語の殿堂と言われた人形町末広も閉館している。

音曲師で声が良かった芸人に、春風亭枝雀がいた。細長い首を鶴のように伸ばして唄うのが特徴だった。この人は元々落語家だったので、語りも面白かった。
それから遅れて、柳家紫朝が出てくる。この人も良い声で、新内流しの「蘭蝶」を得意としている。病を得てから高座に上がる機会が減ってしまったのは残念だ。
女流の芸人も、かつ江、鯉香、人形・お鯉など達者な芸人が揃っていた。

昔の寄席と比べて今の寄席は、落語家は今の方が充実しているように思う、だって昔は文楽、志ん生という名人がいたじゃないかという向きもあろうが、その人たちは当時からメッタに定席には出ていなかった。実力者の多くは名人会やホール落語会が中心で、出演者が限られるのに寄席の数が多かったから、質が落ちていたのだ。
今の方が明らかに劣っているのは、音曲など色物の芸人だと思う。

♪吾妻橋とは 吾が妻橋よ そばに渡しが ついている♪

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2008/03/19

思い出の落語家9「落語ブームの立役者」三代目三遊亭金馬

Kinba戦後の落語ブームは、昭和26年の民間放送(ラジオ)開局がきっかけとなる。ちょうど戦後の混乱も収まり、人々が笑いを求めていた時期とも重なって、毎日のようにラジオ各局から寄席番組が放送されるようになった。当時どこの家庭でも茶の間に1台だけラジオがおかれ、家族全員が同じものを聴いていたわけだから、親が落語を聴けば子どもも一緒になって聴いていた。小学校でも前の日の寄席番組が話題となり、オマセな子になれば、同級生の前で一席うかがうこともあった。金馬の口調を真似て、「孝行糖、孝行糖、孝行糖の本来は・・・」などとやっていた。全国の大学にオチ研が次々誕生したのも、この時期だ。

今でこそ昭和の名人といえば、文楽、志ん生、圓生となっているが、当時で最も人気があったのは三代目三遊亭金馬である。落語ブームの最盛期とされる昭和34年に、金馬はラジオに113回、TVにも68回出演している。つまり2日に1回は金馬の落語が放送されていた勘定になる。フリーだった事を割り引いても、いかに金馬の人気が高かったを物語っている。
当時の落語ファンの大半は、金馬ファンだったと言っても過言ではない。小柄だが顔が大きく、ハゲ頭に乱杭歯がトレードマークだった。
昭和29年には電車にはねられ、片足を失ったが、それでも元気に高座をつとめていた。
三代目三遊亭金馬の名が全国に知れ渡ったのは、昭和4年に発売した「居酒屋」のレコードが大当たりになってからだ。昭和39年に死去したが直前まで高座に上がっていたから、通算すれば35年間落語界を支えていたことになる。
それまでの落語は寄席でしか聴かれない、東京や大阪に住むファンのものだった。ラジオやTVを通して全国区になったわけで、金馬の功績は大だ。

今回この記事を書くにあたって、改めて金馬の録音を30席ほど聴いたが、やはり上手い。「間」のとり方が絶妙なのだ。
若いときは講釈師をしていたせいか、口調がとても明快だ。人物の性格描写もはっきりとしていて、とにかく聴いていて分かり易い。特に「やかん」「転失気」「金明竹」など一連の前座噺は、落語のお手本と言っても良いだろう。
噺家も真打、大看板ともなると、いわゆる前座噺を高座にかけなくなる。大家が今さらそんなネタを・・・という面もあるだろうが、本当は上手く出来ないから、難しいから手を出さないのではなかろうかと、私は推測している。
だって、文楽の「金明竹」や志ん生の「やかん」など想像もつかないし、多分下手でしょう。

ラジオ番組の出演が多かったせいか、金馬の落語は15分前後の短いネタが多い。その一方人情噺にも長けていて、「唐茄子屋政談」「佃祭」など名品も数々ある。「高野違い」「万病圓」などは、金馬の死後、後を継ぐ噺家は出てこない。
創作意欲も強く、「勉強」は金馬の新作であり、「薮入り」や「居酒屋」を現在の形に改作したのも金馬の功績だ。マクラやネタの間に差し挟む薀蓄を聞いていると、この人が実に研究熱心だったという事が分かる。
先の「居酒屋」を始め「茶の湯」「小言念仏」などは金馬の極め付けであり、この人を越す高座にお目にかかったことがない。

残念なことに、金馬は当時の落語通とよばれる人たち、特に久保田万太郎や安藤鶴夫といった権威者にウケが悪かった。理由は恐らく次の点であろう。
①確かに噺は上手いのだが、観客の心を打たない。
②ネタの途中に入れるクスグリや薀蓄が、文士たちの眼からから見ると小賢しいとうつったのでは。
③多くのネタを放送用に15分前後に仕上げたのが、権威者から邪道と見えたのでは。
三代目三遊亭金馬は、「名人」とはいえなかったが、「名手」ではあった。純文学では無く、直木賞なのだ。そういう落語家はいつの時代でも必要であり、金馬への評価が低すぎるのはなかろうか。

余談だが、釣り好きの金馬が戦前通っていた釣具屋があって、そこの娘が東京大空襲で家と家族全員を失い、戦災孤児となっていた。それを聞いた金馬はその娘を自宅に引き取り、養女にして育て上げ、落語家に嫁がせた。その娘の名は海老名香葉子、林家三平の夫人であり、当代の正蔵、いっ平の母である。
金馬は人情家でもあった。

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2007/12/24

思い出の落語家(番外編) 立川談志

Danshi2落語名演ガイド集というCDシリーズの「立川談志」の経歴欄に次のような記述があったので、少々気になった。
「(前略)40年10月に三一書房から『現代落語論』を出す。この中で、今まで落語通と言われる人の評価が低かった五代目古今亭志ん生の芸を高く評価する。これが後の志ん生ブームのきっかけとなる(後略)」
その当時を知らない人がこれを読むと、そのまま信じるといけないので敢えて申し上げるが、これは事実と反する。私が寄席に行き始めたのは昭和20年代の後半だが、その当時から八代目桂文楽と志ん生は別格であった。40年代以後に評価が変わったというのはあり得ない。
第一、一人の落語家が書いた本で評価をひっくり返すほど、落語ファンはヤワではない。
こうした提灯持ちの取り巻きがいるから、談志が増長するのであろう。

かつて安藤鶴夫という高名な評論家(直木賞作家でもある)がいて、芸術祭賞の審査員をやっていた関係から、落語界の中で権威者としてまかり通っていた時期がある。この人が極端な文楽びいきであった半面、志ん生に対しては辛らつであった。しかしこれは安藤の個人的な好みの問題であり、彼の意見だけで世評が左右されていたわけではない。
安藤は明るく華やかな芸風の落語家を嫌う傾向があり、談志もその標的にされていた。談志が志ん生を高く評価し、その一方で文楽に対して点数が辛いのは、安藤鶴夫の権威に対するアテツケもあるのではなかろうか。

立川談志の文楽評に、次のようなことが書かれている。
「79年の生涯、63年の芸人生活の中で『創り上げた』と本人のいう自信作はたったの30席。その自信作の中に『玉』ならず『石』もあり、『玉』の作品に比べ『石』の酷さ、その落差をどう説明すればいいのか・・・」
この批評は、一面確かに当たっている。というよりは、名人上手と言われている全ての噺家に当てはまる一般論だと言えよう。なかには「玉」無しの「石」ばかりの噺家もいるが。
持ちネタ全てが得意ネタで傑作などという噺家は皆無だ。誰だって得手不得手があり、本人は自信をもって高座にかけているのだが、聴き手から見るとイマイチという事だってある。
名演の多い六代目三遊亭圓生でさえ、箸にも棒にもかからない演目がある。
先の文楽評は、談志自身に対しても言えることだろう。

談志の文楽評の引用を続ける。
「だから家元、『談志は、桂文楽のネタの中で何が好き?』と聞かれりゃ、迷わず、『よかちょろ』と『酢豆腐』、そして『王子の幇間』と答えるし、それが理解る人を『噺の判る人』といい・・・」
こういう所が、私は談志がキライだ。
文楽のネタで好きなものはと問われたら、落語通と言われる人でも答は千差万別。評価の基準が異なるし、だいいち好みが一人一人違うのだから当然だ。
先の談志の言い方からすれば、談志の主張と同じくする者だけが「噺の判る人」ということになる。
大衆芸能の世界に、最高裁判所を持ってくるようなもので、時代錯誤もいい所だ。昔のソ連じゃあるまいし。

弟子の「人格は最低だが芸は最高」という評を待つまでもなく、立川談志が現在の落語界を代表する一人であることは多くの落語ファンが認めるところだろう。門下の弟子たちにも優秀な人材が揃っており、指導者としての腕も確かなのだろう。
ただ談志は噺家なのだから、自己の落語理論、メッセージを高座の芸を通して観客に示したらどうだろうか。
桂文楽が裸足で逃げ出すほどの芸を見せれば、それだけで談志の主張は人々の納得が得られると思う。

現役で活躍している人を「思い出」とするのは失礼なので、これは番外編ということで。

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2007/11/18

思い出の落語家8「芝浜」の三代目桂三木助

Mikisuke三木助の「芝浜」か、「芝浜」の三木助かと称された三代目桂三木助、三木助を襲名して売れ出してから10年余りの58歳でこの世を去った。もう少し長生きしていれば、間違いなく名人に列せられただろう。あまりに活躍期間が短過ぎたのが惜しまれる。三木助のナマの高座を観た人も、もう数は限られていると思われる。

明治生まれの三木助だが、売れ出したのは戦後で50歳を過ぎた頃からだった。一時は落語家を辞めた時期もあったくらい、若い頃はさっぱり売れなかったようだ。
その理由だが、私の想像では次のことがあげられる。
一つは、芸風が地味な上に声が細く、全体に陰気な印象を与えたのではないだろうか。噺家である以上声は大事で、美声でなくても良いが、張りのある良く通る声の持ち主が有利だ。
三木助の場合、音域が狭いという欠点があった。
二つ目は、芸人としては不器用な部類に属する噺家だった。マクラで面白いことを言えるわけではないし、若い頃は客席の笑いを取れなかったのだろう。

若い頃から人気が出る噺家というのは、例外なく器用な人が多い。マクラも面白いし、5-6分の短い時間でも観客を楽しませる術を知っている落語家が、人気が高くなる。だが年齢が高くなってもサッパリ上手くならないのが多いのも、このタイプだ。
当代の円歌、円蔵あたりがそれに該当する。
処が、後年名人上手と言われている人は、どちらかというと不器用で、じっくり聞くと始めて味が出るタイプが多い。上手い落語家に大器晩成型が多いのはそのためだ。その典型が三代目桂三木助だろう。

三木助が人気が出だしたのは、戦後のNHKラジオ番組「とんち」教室に出演するようになってからだ。ただ同じ出演者だった六代目春風亭柳橋と違うのは、人気が出た時期にレギュラーを降りたことだ。その後NHK専属にはなったが、落語一筋であった。
滑稽噺も得意で、「へっつい幽霊」では若い頃のバクチ修行のお陰で、サイコロの振り方がプロ級だった。
「蛇含草」では餅の食い方が上手く、その仕草だけで観客を笑わせていた。

しかし何といっても三木助の本領は人情噺、極めつけは「芝浜」だ。昭和29年に三木助はこのネタで芸術祭奨励賞を受賞したが、これは落語家の初の受賞だった。
私は、今でも三木助の「芝浜」を越える高座に出会っていない。
何が良いのかというと、全編に溢れる詩情だと思う。
先ず冒頭の夜明け前から日の出の芝の浜の描写が良い。人っ子一人いない早朝の浜辺、道成寺の鐘の音、打ち寄せる波、潮水で顔を洗い、一服していると財布を見つける、まるで静かな波の音が聞こえてくるような感じがする。
それと最終場面での、当時の商家の大晦日の描写が優れている。掛取りに来る人のために火をおこしておく、ソバ屋が忙しいだろうからと奉公人に出前の空容器を届けさせる、こうした描写により、主人公がこの3年間で商売に成功し、人間的にも成長したことを示している。
「芝浜」のようなネタは、こうした細部の描写が肝要なのだ。

もう一つあげるとすれば、「ざこ八」だろう。
元々が、三代目三木助が大阪の二代目三木助から教わり、東京に持ってきたネタだから当然ではあるが、これまた三木助を越える演者が出現していない。
10年ぶりに江戸に戻った鶴吉と、大店だった「ざこ八」がつぶれるに至った経過を語る枡屋新兵衛との会話が実に小気味良い。
新兵衛に「お前さんがつぶしたんだ」と言われ激高するが、諄々と説かれて納得し後悔する鶴吉。この二人の火の出るようなぶつかり合いが活きて、今は病気で乞食同然となった「ざこ八」の娘お絹と所帯を持つという鶴吉の決心が、始めて説得力を持つのである。
とても良い噺なのに、三木助の死後、高座に掛かる機会が少ないのは、難しいせいだろうか。

こうした心理描写は、落語家になりながら若い頃バクチで身を持ち崩し、一時は踊りの師匠に転向するまでに至った三木助の、苦難の人生経験が生かされているのだろう。

他に「崇徳院」や一連の左甚五郎ものなど、今に至るまで他の追随を許さない三代目桂三木助。
早くこの芸を追い越す噺家の出現を、見てみたいものだ。

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