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2016/05/19

【思い出の落語家21】古今亭志ん朝(4)志ん朝の気になる「マクラ」

ここで紹介する古今亭志ん朝の「マクラ」は「にっかん飛切落語会 第261夜」での高座で、この時のネタは『試し酒』だ。
「マクラ」の中で、志ん朝の体調が思わしくない様子が窺われる。
時系列で並べてみると、よりこの事が明確になると思う。

1999年1月25日 本「マクラ」の口演。
1999年9月 11代目馬生の襲名披露興行の際の高座で、鈴本演芸場の最前列で見ていた私が、志ん朝の体調の異変(痩せて体が一回り小さく見え、顔色がどす黒くなっていた)に気付いた。
2001年10月1日 志ん朝の死去。

この高座で、ご本人は健康問題は飲酒が原因と思っていたようだが、実際には肝臓癌が体を蝕んでいたのだろう。

***********************
えー、ただいま昇太君という、ねぇ、売れっ子でございまして、ああいう方を袖で聞いてますと自分の年を感じますな。ああいう時代も、あたしもあったんです。段々勢いが無くなってきて、今このまんま寝たいくらいで。
うー、正月は寄席の方をつとめます。元旦から、えー、これ10日まで、初席ですな。あたくしの場合は、えー、浅草と上野。11日から20日まで、これを二之席といいますが、お正月は。えー、池袋から新宿にまいります。でー、元旦から10日の間は忙しいんで、ガチャガチャしてますから。もう昼夜の2興業じゃないんです。浅草なんか4興業ぐらいになっちゃう。だから、そこへ大勢入れますから。そうですね、ひと高座5分ぐらい、ご挨拶。でまあ、掛け持ちったって近いし、昼間だけですから。ちょっと家に帰ってゆっくりできるんです。ところが、こんだ二之席では、池袋で夜仲入りをつとめまして、そして、えー、新宿へ行って夜のトリをつとめさして頂く。大変ありがたいが、これが急にねぇ、長くなるんで疲れるんです。そこへもってきて、あたくしが夜トリを取ってる。
前に色物さんがあがります、その前にこん平*1)がいる。医者に言われてるんです、「こん平は気をつけなさい」。もう、とにかく、もう、いつまでも飲んでんですから。だからもう、なんですよ、この前、たい平*2)に会った時に「今度の”にっかん”*3)、宜しくお願いします」っていうから「そう、一緒かい」。そしたら「ええ、一緒です。ウチの師匠も一緒です」って、「え、えー!」。やだなぁ、さっきまで随分気が重かったんですけど、したら「これから、あたしね、卓球なんですよ」って言うから、「そりゃいい、行った方がいい、そっち行った方がいい」。
うー、とにかくもう、ああいう乱暴者というか、もっとも酒ですけどね。もー、とにかく、もー、ほうぼうの店で断られるんですよ。賑やかですからね。他のお客さまの迷惑になるってんで。だからもう、ちょっと早めに帰って貰いたいなんて。えー、そういうお店はちょっと遅くなると、「すいません、閉店なんで」って追い出そうとする。「そぉ、ラストオーダー? うーん、じゃねぇ、焼酎のウーロン割り18杯!」とかなんとか言うんで。店がかわいそうですよ。付き合っている連中もかわいそうです。「お送りいたしますよ、兄さん、ねぇ、ウチまで送りましょう」。送り狼ってぇのは聞いたことがありますが、送りこん平。
ねぇ、そいでもう、あいつの顔を見ると、それだけで酔うんです。で、実際、噺家を二人殺してましてね。梅橋*4)という、ねー、なかなか新作ではいい噺家ですよ。えー、機転のきく、謎かけなんぞやらしたら大変に上手い。いまだに名作として残ってるなんていくつもある。ね、うー、やられちゃった。その後にやられたのは小圓遊*5)。ね、あれ見栄っ張りだから、おだてに乗るんですよ。「いいねぇ、兄さんの飲みっぷりいいなぁ、きゅーってやった時なんか、ぶるぶるって来るね」、「そうかい」なんて言いながら「きゅうー!」。「もっと見たいなぁ」「見たい?」なんて、とうとう死んじゃったんです。いま、あたしが狙われてるらしいんです。もう、だから、もう、正月の疲れが今残ってねぇ。もう少し反り身になって一番後ろの方にもお顔を見せたいですけど、身体がなかなかもちゃがんないんです。どうぞ、しばらくの間、お付き合いを頂きます。
ヤケになって、酒の話でもしたいと思いますが。まあ、あの、お酒もねぇ、そうですねぇ、「たまに休肝日を作った方がいいよ」って言われるんです、お医者さんに。「ええ、じゃそうしましょう」なんて休肝日を作るんですが、上手くいかないんですよ、ねー。で、こやって、こういう所で一席やらせて頂く。あるいは寄席をつとめて終わる。ウチへ帰る。ね、湯に入って飯を食い、さあ、どうしよう。なんにもすることぁないんですよ。はなっから飲まない人なんか、なんてことないんですよ、えー。その時間がとっても楽しいんです、なんてぇのもいる。ねー、小朝*6)なんかそうですよ。あれ、はなっから飲まないから。「君、どうすんの? 飯食ったら」、「そうですね、デザートを頂きながら、紅茶を飲んで、好きな音楽を聴きます」。引っ叩いてやろうかと。あたしら飲む人間は、そうはいかないんですよ。終わっちゃって、じゃ、飯食っちゃって、歯も磨いちゃって。で、ね、もうしょうがないから寝るかと、とりあえず寝床に入るんです。で、普段酔っぱらって寝るんですから、シラフじゃとても寝られません。ね、しょうがないから又起きて、寝床から出て、本かなんか読んでる。なんか知らないけど、なんか忘れ物したようで、読んでても気乗りがしないですな。おんなじ行を何度も読んじゃたりなんかして。で、ちょっと飲もうかななんて考えながら読んでるんです。それじゃ音楽でも聞こうかなと。シラフの時に音楽を聴いても、気乗りがしない。よくこの人たちぁこんなこと出来るなぁ、なんて冷静になったりして。そうなると、よけい寝られない。とどのつまり明け方になって、ほら、あした仕事があるんだから、少し寝とかなきゃいけない。いきなり冷蔵庫を開けてガーっと飲んじゃって。これが残っちゃって、何にもならない。まあ、そうですね、何日かやめられるんならといいと思うんですが。体にいいからと、あたしもやめたことがあるんですが、これがなかなか難しいんですよ。
***********************
【註記】
*1)林家こん平、元「笑点」メンバー
*2)林家たい平、現「笑点」メンバー
*3)にっかん飛切落語会 
*4)2代目春風亭梅橋、前名は初代柳亭小痴楽、「笑点」初代メンバー
*5)4代目三遊亭小圓遊、「笑点」初代メンバー
*6)春風亭小朝

2012/01/07

【思い出の落語家20】古今亭志ん朝(3)

前回は1997-98年頃に三郷市文化会館で行われた「古今亭志ん朝独演会」での1席目「寝床」について記した。
仲入り後の2席目、固唾をのんで待っているとこれが「富久」だった。
「富久」といえば文楽と相場が決まっているが、志ん生も高座にかけている。いかにも志ん生らしいギャグ満載の飄々とした味わいのあるもので、志ん朝の「富久」は父・志ん生の型を受け継いでいる。
文楽とはどこが違うのかというと、久蔵の住まいや旦那の家の住所といった形式的なことだけではなく、富くじを勧められて買う文楽型に対して、志ん朝はこれに運勢を賭けるのだと自分からすすんで買う。
旦那の家に居候した久蔵だが気持ちが落ち着かず、早く幇間の仕事に復帰したいと願うという設定も文楽とは異なる。
杉の森神社での富突きのシーンでは、富を買った客たちがもし千両当ったら池に酒を入れて泳ぐだとか、質屋が遠くて不便だから自分で質屋をやるとか妄想する場面も文楽とは違うところだ。
反面、久蔵が旦那の家に駆けつける際の緊迫した姿や、火事見舞いに訪れた客への応接にあたる久蔵の愛想のふりまき具合などは、文楽スタイルを採っている。

「富久」の勘所は、幇間である久蔵の人物像にかかっている。
噺に出て来る大神宮様というのは伊勢神宮のことで、特に芸人たちの信仰が厚く、昔は自宅に分不相応な神棚を祀っていたようだ。年末になると伊勢の神官がお札を取り換えにくる、これがお祓い。
この噺に出て来るタイコモチは珍しく宴席で客にヨイショする場面がない。つまりラシサが出しにくいネタだ。そこを最初から最後までタイコモチに見せなくてはならない、これが難しい。下手な人が演ると職人や商人にしか見えなくなる。
そこいくと志ん朝の描く久蔵はどこからどう見ても幇間である。何より愛嬌と色気があるのだ。ここが並みの噺家とはまるで違う。
ストーリーは希望と絶望が交互に訪れる、正に「禍福は糾える縄の如し」の筋立てだ。起伏に富み緊迫感あふれる物語を最後の大団円までグイグイと観客を惹きつける、その話芸の力は並大抵のことではない。
全体の仕上がりは、文楽と志ん生を越えるような素晴らしい出来だった。

そしてこの日の「寝床」「富久」は尊敬する亡き父・志ん生に捧げる高座でもあったような気がする。

旨い料理を食すると人間は幸せな気分になる。
それと同様に、素晴らしい高座に出会うとやはり幸せな気分になることを、この時の志ん朝独演会で味わった。
私だけではない。会場から駅まで数分かかるのだが、帰路につく誰もが幸せそうな顔に見えた。
この日の志ん朝の高座は、生涯の宝だと思っている。

2011/12/16

【思い出の落語家19】古今亭志ん朝(2)

数えきれぬ落語家の独演会の中で、これがベストだといえるのは1997-98年頃に三郷市文化会館で行われた「古今亭志ん朝独演会」だ。
生涯からみれば晩年といえるこの時期の志ん朝の独演会は通常、軽めの1席と仲入り後に大ネタや人情噺という組合せが多かったと記憶している。
処がこの会では珍しく「寝床」「富久」の2席をかけた。

「寝床」という噺はお馴染みだろうが、下手なのに義太夫好きの家主が義太夫の会を催し、番頭の茂蔵に客集めに行かせる。毎度の事に懲りている長屋の連中は、適当な理由をつけて全員が断ってしまう。
仕方がないので今度は奉公人に聴かせようとすると、これまた全員が仮病をつかう。怒った家主は、長屋の連中には店立て、奉公人には暇を出すと息巻く。
慌てた番頭は再度長屋を回って客を集め、家主をなだめる。
渋々集まった長屋の連中には酒、肴がふるまわれ、やがて家主の義太夫が始まるが・・・。
会社のエライさんなどが、下手なカラオケを立て続けに唄い部下に迷惑をかける光景は今でもあり、そんな時に「まるで寝床だね」と嘆きの声が上がる。「下手の横好き」の代名詞にもなっている。

オチは、店子や奉公人がみな寝込んでしまった中で、一人小僧だけが泣いている。旦那が私の義太夫のどこが悲しかったのかと訊くと、
小僧「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
旦那「あれは、あたしが義太夫を語った床じゃないか」
小僧「あたくしは、あすこが寝床でございます」
いうまでもなく八代目桂文楽の十八番中の十八番。他の演者も多少のアレンジはあっても基本は文楽スタイルだ。

これに対して五代目古今亭志ん生の演出は異なり、旦那が肚を立てて番頭がまた一回りするあたりから少し違いが出てくる。
店子が集まって義太夫の会に出るか出ないか相談する場面が加わり、そこで元いた番頭のエピソードが語られる。
旦那が逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、番頭がが蔵に逃げ込むとその周りをグルグル回ったあげく、最後に蔵の窓から語り込み中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶したというもの。
「その後だよ、あの番頭さんがいなくなったのは。だんだん聞いたら、あの人は今ドイツにいるんだってねえ。」
肝心の旦那の義太夫語りのシーンも、タイトルに結びつくサゲもないというのが志ん生流なのだ。

志ん朝も若いころは文楽型で演じていたようだが、この独演会では父志ん生の演出を踏襲していた。
文楽が描く旦那(家主)が下手な義太夫が好きなだけが欠点の好人物に描かれているのに対し、志ん朝のそれは「はた迷惑」で、時には「理不尽」とも思える人物として描かれている。
文楽にはない、お内儀が子どもを連れて実家に避難し、女中がそれにすがるように付いて行ったというエピソードを加えているのもそのためだろう。
そうした難しい理屈を抜きにして、終始会場は爆笑に包まれていた。
そして最後にいなくなった番頭は「共産党に入っちゃった」としていた。
志ん生の「ドイツ」は何かシュールな感じがあるが、現実味を増す意味で共産党が選ばれたのだろう。
それもソ連崩壊前の二大陣営時代が終りを告げていた時期なので、ある種の時代錯誤をも物語っていると思われ、志ん朝のセンスを示すものだ。

1席目が終わると会場はざわめき、「共産党できたか、参ったな」という声と、「寝床」の後に一体何を演るのかという期待感に溢れた。

ここまでで長くなってしまったので、後半は次回に。

2011/09/30

【思い出の落語家18】古今亭志ん朝(1)

明日10月1日は古今亭志ん朝(近ごろ三代目という表記もあるが、この人の場合は不要だろう)の命日だ。亡くなって既に10年が過ぎた。
10年前の2001年10月1日のあの日、あまりのショックに呆然となり、全身から力が抜けるような思いがした。
サラリーマンの現役当時、休日になると志ん朝の出る寄席や、都内と近県で行われている独演会を探しては出かけるのを楽しみにしていた。
好きな噺家はいたが、ファンと呼べるのは志ん朝だけだった。
あの日、まるで肉親を失ったような悲しみに打ちひしがれた。

本人の体調の変化は、家族やお弟子さんのように毎日接している人たちより、たまにしか会わない私たちの方が先に気付くことがある。
志ん朝の場合も、亡くなる2,3年前前からオヤッと思うことがあった。顔色が少しどす黒くなり、痩せていくのが気になっていた。
はっきり異変に気が付いたのは、亡くなる2年前の当代馬生の襲名披露の時だった。
私は鈴本演芸場の最前列にいたのだが、口上の席に着いていた目の前の志ん朝の、特に顔が痩せてしまっていて、身体も一回り小さく見えた。
その時、もしかして癌ではないかという疑いを抱いた。

この時の鈴本の高座では、志ん朝はトリの当代馬生の前に上がり、「三方一両損」をかけた。
マクラなしでネタに入りオチまで。ただ全体に抑え気味の高座で、客席も大きく沸くとというより静かに耳を傾ける、そんな光景だった。
その約2か月くらい後の独演会で、志ん朝は同じ演目をかけた。
マクラこそ振ったが、後は鈴本と全く同じ内容の口演だった。しかしこちらの方は大受けで、客席は笑いに包まれた。
同じネタを同じように演じながら、全く違う高座にしてしまう。
改めて志ん朝という人の芸の深さに感嘆した憶えがある。

お盆恒例の、浅草演芸ホールでの「住吉踊り」は前年の2000年まで観に行っていた。
高座を観る限りでは相変わらず華やかで、病の兆候は全く感じさせなかった。
だが2001年8月の「住吉踊り」を観た実姉・美濃部美津子は志ん朝の声がおかしいのに気づき、本人に電話する。初めて、既に病院から寄席に通っていた事を知らされる。
夫人から「実はもうダメなんですよ」と聞かされるのは、このあと直ぐだ。

志ん朝の臨終の様子は、姉・美津子の「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」に書かれているが、志ん朝ファンにとっては涙無しでは読めないだろう。
以下に、その一部を引用する。
【引用開始】
弟子たちが、「師匠、お姉さんが来ましたよ。しっかりしてください!」って、大きな声で呼んだのよ。眠らせちゃうと、そのまんま逝っちゃうから、あたしが着くまで皆して声をかけ続けてくれたんですね。
枕元に駆け寄ったら、もう目がこんなに大きく開いちゃってるの。あたしも必死で叫びました。
「強次っ! 強次っ! 姉ちゃんだよ、姉ちゃんだよっ」
そんとき、何かかすかに目の玉が動いたような気がすんですよ。でも、身体はもう動かなくなっちゃってる。ああ、もうこれは無理だなって思ってね。
「真っ直ぐ父ちゃんと母ちゃんのとこへ行くんだよっ。いいね。真っ直ぐ父ちゃんと母ちゃんのとこへ行くんだよっ!」
うーんって、わかったーって顔したように、あたしには見えました。
【引用終り】

志ん朝の芸は、高座は、これから幾世代にもわたって語り継がれていくことだろう。
ほぼ同時代をすごしてきた者として、そのことを誇りに思う。
志ん朝は私にとってあまりに記憶に生々しく、今まで書くのを避けてきた。
志ん朝を知らない若い落語ファンも増えてきたいま、これから少しづつ思い出を書いて行こうと思う。

2010/07/06

【思い出の落語家17】十代目金原亭馬生

Photo枕元にCDラジカセを置き、落語を聴きながら寝るのを習慣にしているが、ここ2ヶ月ばかりは毎夜のように十代目金原亭馬生の録音を聴いている。
聴けば聴くほど味わいが分かるというのが、十代目馬生の落語だ。
先代の馬生については書籍も出版されているし、多くの人たちが「馬生論」を書いているので、個人的な思い出を中心に話を進めることにする。

就職し、その後所帯を持った時期の前後、およそ10年ほど寄席から遠ざかっていた。
結婚して2年目に子どもが授かり、9ヶ月のとき急に胎教を思い立った。
何をしようかと考えた末、胎教には落語が一番だと思い立ち、身重の妻を伴って人形町末広に行った。
女房は、寄席はもちろん落語を聴くのも初めてだったが終始楽しそうで、たまたま出演していた柳家三亀松の色気に圧倒されて身体がブルブルッと震えたというエピソードは前に紹介した。
三亀松のフェロモンは、それほど凄かったのだろう。
その日のトリが十代目馬生だった。馬生41歳のときだ。
出囃子の「鞍馬」がなって馬生が高座に出てくると、客席からは軽い「え~」という反応が返っていた。
私も久々に見た馬生のあまりの変わりように驚いた。
白髪で背中が少し丸くなっていて、パッと見は老人のようなのだ。
話し出すとあの艶やかな声が響いて、ああヤッパリ馬生だなと思った。

先代馬生が40代で今からは信じられないほど老けていたことは、先日の落語会でも弟子たちが証言していた。
若い頃から楽屋では「ご隠居」という仇名がついていたそうだ。
これには分けがある。
先代馬生は生活のために画家になる夢をあきらめ落語家になった人だ。
父・志ん生が満州に渡っていた戦中から戦後、馬生が一家を支えていた。
昭和22年に19歳で真打になるが、親の七光りだと陰口をたたかれ、仲間内からはイジメにあう。
家庭内ではどうだったのかというと、これは又聞きなので真偽のほどは不明だが、長男ということで志ん生からは随分と厳しく当たられてようだ。
その一方、志ん生は弟の志ん朝を可愛がり、行く行くは志ん朝に志ん生を継がせることを早くから公言する。
芸の上では後輩の志ん朝だが、TVのバラエティーではレギュラー番組を持ち、ドラマや芝居に出演するなど一時期はマスコミの寵児になる。
名人の父親と人気と実力を兼ね備えた弟に挟まれ、ひたすら耐える人生だったのだろう。
おのれを殺して、黙々と芸を磨く日々だったに違いない。
そういう姿をとらえて、仲間内は「ご隠居」と揶揄していたのだろうと想像する。

馬生の落語を聴いていると、非常に緻密な演出の中に、時に志ん生ゆずりの天衣無縫な部分が顔をのぞかせる。画に例えれば、墨絵の中にチョコッと色が混じっているような。
そのバランスが絶妙で、父親や弟にない独特の芸風をこさえている。
絶品の「笠碁」はもちろん、「明烏」「船徳」「妾馬(八五郎出世)」「芝浜」などの大ネタでは、志ん朝より上ではないかと思う。
反面、バランスが崩れたときは目も当てられない不出来となるが、それもまた先代馬生の魅力でもある。

十代目金原亭馬生の晩年は、楽屋で酒を飲んでから高座に上がることが多く、録音でも呂律の怪しい口演が残されている。
これも、癌の末期で食べ物がほとんど喉を通らなかったため、酒を流動食代りに摂っていたという証言がある。
だとしたら、芸人として最期まで壮烈な人生だったわけだ。
54才の死はあまりに早過ぎた。
もうあと10年生きていれば、立派に名人として名を残していただろう。

死後に評価が高まっているのは、当然である。

2009/12/12

【思い出の落語家16】八代目春風亭柳枝

Photo今でもそうだが、いわゆる名人級や人気者は名人会やホール落語会が中心となり、寄席(定席)に出る回数が少なかった。
だから、普段の寄席を支えていたのは中堅クラスの人たちが中心だった。
もちろんお客を呼べるには実力とある程度の知名度が必要で、昭和20-30年代にかけて活躍した八代目春風亭柳枝は、そうした落語家の一人だ。
高座というのは生身なので、芸人の性格が現れてくる。
八代目柳枝はいかにも温厚そうな人柄で物腰が柔らかく、「でございます」「あそばします」「おぼし召す」など、他の落語家ではお目にかかれない丁寧な言葉使いをする人だった。
仲間内では「お結構の勝ちゃん(本名が勝巳)」という仇名がつけられていたそうである。
こうした高座姿は、客席をジロっと眺めて「良く来たなぁ」と切り出す四代目鈴々舎馬風と対照的だった。刑務所に慰問に行き、開口一番「満場の悪漢諸君!」とやった馬風の芸風も、それはそれで貴重ではあったが。

ネタの数は多かったが、長講や大ネタを演じることは無く、軽い噺が得意だったと記憶している。それも軽くサッと一席演じてから踊りをサービスした。
この人の「王子の狐」と「花筏」は、現在も柳枝を超える人がいない。
前者の狐を騙す男や後者の提灯屋は、柳枝本人の人柄が映し出されている。
地味だが確かな芸の持ち主で、53歳での死は惜しまれる。
なお、春風亭柳枝は落語家の名跡なのに、50年間誰も名を継ぐ者がいないというのは、いかにも寂しい。
伝統的に柳枝は小柳枝を前名にしているが、現在柳枝の名は落語協会に帰属していて、小柳枝は芸術協会に所属しているというネジレが原因とのことだが、勿体ない話だ。

2009/11/26

【思い出の落語家15】「静岡落語」の二代目桂小南

Konan桂小南、よほどの寄席通でなければ忘れられかけていたが、昨今の寄席ブームで再びその功績が見直されてきているようだ。
二代目桂小南は、東京の寄席で上方落語を演じた珍しい噺家だった。
かつては落語は東京、漫才は大阪と言われた時代があり、特に東京の落語フアンからすると上方落語を一段低くみるような傾向があった。
一つには、関西弁が分かりにくかったということがある。
今はもう随分とマイルドになっているが、一昔前の関西弁は訛りが強く、しかも早口に感じられて内容がつかみづらかったのだ(これが「金明竹」のネタになっている)。
それまでも東京の寄席で上方落語を演じた噺家はいた。
例えば小南の師匠である(最初の師匠は三代目金馬)桂小文治という当時の大看板がいたが、これがさっぱり面白くない。ただ踊りは上手かったので、早く噺が終って後の踊りを楽しみにしていた。
他に三遊亭百生がいて、この人は面白かったが訛りとアクが強く、フアンは一部の人に限られていた。

小南の最大の功績は、上方落語を東京の落語フアンにも分かり易く語ったことだ。
本人は相当な苦労をしたようだが、訛りが弱くしかも比較的ユックリと喋るので聴きやすいのだ。小南の出身が京都だということも幸いしたのかも知れない。
小南本人は「大阪と東京の中間で静岡落語」と称していたそうだが、マトを得ていると思う。
顔も目も鼻も丸く唇に色気があり、とにかく愛嬌のある落語家だった。甲高いがよくとおる声で、陽気な高座姿を見せていた。
ネタの数は多かったが、とりわけ子どもが登場してくる噺が得意で、なかでも「鋳掛(いかけ)屋」はひっくり返るほど笑えた。一方、「しじみ売り」には泣かされた。
「代書屋」は、今もこの人が最高である。
晩年に芸術選奨文部大臣賞を受賞しているが、昭和30-40年代がこの人の全盛期だった。
二代目桂小南は当時の東京の落語フアンに、上方落語の面白さを知らせた一番の功労者だったと思う。

2009/07/11

【思い出の落語家14】九代目桂文治

9bunjiよく名前を言う時に、「XXの〇〇」と呼ばれるのを「二つ名」というが、九代目桂文治はこの二つ名の多い芸人だった。
先ずは本名(高安留吉)から「留さん文治」、性格から「ケチの文治」、前名(翁家さん馬)から「さん馬の文治」。

まだ私が小学生のころの翁家さん馬時代に、頻繁に高座を観た。他の落語家と違って休演することがなく、とにかく良く寄席に出ていたことを記憶している。
下手だなあというのが当時の印象だが、母なぞはさん馬が出る度に「またさん馬だよ、イヤだねー。」と言って嫌っていた。だから文治を襲名した時も、「なんであんなのを文治にしたんだ。」と怒っていた。
いま録音をCDで聴いても、やっぱり下手だと思う。
ところが落語というのは不思議なもので、上手ければ良く下手ならダメというわけではない。上手いんだがなんだか面白くない、下手だけど愛嬌があるね、という類の噺家は今でも沢山いる。
そこがこの世界の難しいところだ。
文治は下手だが、高座に独特の魅力があった。

野崎の出囃子が鳴ると、直ぐに高座に現れる。長い顔に奥の方に丸い目が光っていて、アゴを引いて上目使いに客席を見る。
声は低い方だったが、時々素っ頓狂な高い声を出すのが特長だった。
映画が好きだったようで、しばしば映画の話題をマクラに使っていた。
古典落語のなかのクスグリでも「あんたエデンの東の方から来たんじゃないのかい」とか「それが人間の条件だ」とか、「岸田今日子って女優ね、まあすけべったらしい顔をしてね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんだ」などなど。
「俺んとこへめり込んできやがって、小野田セメントみたいだ」なんていうのもあった。

飄々とした芸風で、人情噺やいわゆる大ネタには全く縁が無く、もっぱら軽い滑稽噺を得意としていた。
若いころ大阪で修行したことがあり、上方ネタの「不動坊」を東京に持ってきたのはたぶん文治ではなかろうか。
個人的にはこの人の「今戸焼」が好きで、このネタだけ今でも文治が一番だと思っている。サゲが変っていて、「渥美清」で落している。

ケチだったのは有名で、当時、都電の回数券を買って寄席を移動していたという。寄席を休まなかったのもケチのせいかも知れない。
そのケチを地でいったのが「片棒」、これもなかなか味があった。
名人上手とはほど遠かったが、愛嬌があって愛された落語だったと思う。

<記事の訂正>
ジャマさんという方から指摘があり、「上方ネタの『不動坊』を東京に持ってきたのはたぶん文治・・・」の部分を、
「『不動坊』を東京に持ってきたのは三代目の小さん」に訂正いたします。

2009/06/25

【思い出の落語家13】古今亭志ん生の凄さ(2)

五代目古今亭志ん生や八代目桂文楽が健在のころは、彼らが十八番としていたネタは、他の噺家は遠慮して高座にかけなかった。それだけ聞くと、昔の落語家の世界は上下関係が厳しかったと思われてしまうが、そうではない。
例えば、志ん生が得意としていた「火焔太鼓」について見てみよう。

ストーリーはざっとこんな具合だ。
道具屋の甚兵衛は普段から女房に「商売が下手だ」と馬鹿にされている。
今日も甚兵衛が市で仕入れてきた太鼓を女房から散々にけなされる。
甚兵衛が小僧に言いつけて、ハタキで太鼓のホコリをはたかせていると、ちょうどお駕籠で通り掛かった赤井御門守というお大名の耳にその太鼓の音が入り、家来に命じて甚兵衛に屋敷に持参するよう命じる。
甚兵衛が太鼓を屋敷へ持ってゆくと、「これは火焔太鼓といって、世に二つという名器」と、三百両で買い上げられた。
三百両を懐に宙を飛ぶように帰ってきた甚兵衛は、女房から「お前さんは商売が上手だ」と手の平を返したように褒められる。
甚兵衛も得意になって「今度は半鐘を仕入れる」と言うと、女房は「半鐘はいけないよ。オジャンになる」。

実はこのネタ、伝えられていた古典の形を志ん生が随分と手を入れているのだ。
例えば、
(1)オリジナルでは道具屋が始めから「火焔太鼓」と知っていて仕入れてくる。
(2)だから殿様から「火焔太鼓」だと言われても驚く場面がない。
(3)オリジナルではこの後、道具屋が本当に半鐘を仕入れてくる。
(4)小僧が半鐘を叩くと、火事と間違われて大勢が店に踏み込み、売り物をメチャメチャに壊してしまう。
(5)サゲは、「ドンと太鼓で儲けたが、半鐘でおジャンになった」。
こうなるとオリジナルは換骨奪胎、いま演じられている「火焔太鼓」は、志ん生による「改作」といっても良い。

こうした改作は、他に志ん生については前回とりあげた「品川心中」、文楽なら「船徳」、三木助なら「芝浜」、柳好なら「野晒し」、金馬なら「薮入り」や「居酒屋」など沢山の例がある。
こうした噺は古典には違いないが、演者のオリジナリティーが非常に高い。だから他の落語家が遠慮して高座にかけなかったのだ。
一口に古典落語と言っても、昔ながらの形でそのまま演じていたら、とっくに廃れたネタも多かった筈だ。
昭和の初め頃に活躍した彼ら名人・上手と言われた落語家たちが苦心して改作してくれたお陰で、現在わたしたちも楽しめているわけだ。

五代目古今亭志ん生の芸風を評して「ぞろっぺい」と言われるが、「ぞろっぺい」どころか、緻密に計算され尽くした演出をしていたのだ。
それなのに観客には「いい加減」に映ってしまう、そこが志ん生の凄さである。

2009/02/27

【思い出の落語家12】古今亭志ん生の凄さ(1)

Shinsho私が小学生のころ、兄に「志ん生の落語って、どうしてあんなに面白いの?」ときいたことがある。
落語フアンだった兄はこう答えた。
「そりゃあ志ん生がしゃべるからさ」。
志ん生の落語の魅力はこの一言に尽きるのだ。
数多の「五代目古今亭志ん生論」がある中で、この兄の一言がもっとも的確だと思っている。
八代目文楽や圓生なら、そのうち芸風が似た人が出てくるかも知れないが、志ん生はそういかない。オンリーワンの不世出の芸人だといえる。

かつてある雑誌が各界著名人に、無人島にもっていくレコード(今ならCD)を1枚選ぶというアンケートをとったことがあり、その中の一人が志ん生の「品川心中」と答えたのを記憶している。
私も落語家の中で誰を選ぶかと問われればやはり志ん生で、演目を一つといわれれば「品川心中」に落ち着く。
あらすじは、ざっとこうなる。

品川宿の白木屋の女郎お染は、若い頃は売れっ子で板頭(ナンバーワン)をはっていたが、歳と共に客が減っていき、今では紋日に必要な40両も工面できない有り様。
こうなればいっそ心中してしまえば面子が立つと、心中相手を物色し、白羽の矢が立てられたのは本屋の金蔵。金蔵はお染に心中をする約束をさせられる。
心中の決行日に、お染は金蔵を品川の桟橋に連れて行く。身投げをしようという。ぐずぐずしている金蔵をお染は突き落とし、自分も飛び込もうとした。その時店の者が駆けつけ、ヒイキの客が40両の金を用立てたと告げ、お染は身投げをやめて店に戻ってしまう。
裏切られたと知った金蔵はようやく海から上がり、親分のもとに行くが、そこでは博打の真っ最中。金蔵が戸を叩く音を役人の手入れと勘違いして、一同大騒ぎとなる。
後半は、金蔵が仲間の力を借りてお染をおどかすのだが、滅多に高座にかかることがなく、殆んど前半で切る。

志ん生以外の噺家が演じると、お染が心中を決意する場面、相手を金蔵に決める場面、金蔵が一緒に死ぬことを約束する場面、これらがどうしても説明的になってしまう。心中を決意するまでの心理状態などが描かれるのだ。
それはそうだろう。この部分に説得力がないと、この噺は成り立たないからだ。
それに対して志ん生の演出は、ここを実にあっさりと描く。お染が「それじゃ一緒に死んでおくれかい」というと、金蔵は「おおくれだとも」と応じ、簡単に心中の約束をしてしまう。あんまり深く考えない。シャレだよ、シャレ・・・程度の軽いノリで決めてしまうのだ。
志ん生が演じると、聞き手はこれで十分納得してしまう。
志ん生の「品川心中」をヒントにして、作家井上ひさしが小説「手鎖心中」を書いて直木賞をとったのは有名なエピソードだが、他の噺家ではこう行かなかったろう。

五代目古今亭志ん生は明治23年に生まれ、43年に入門している。
若い頃から「飲む打つ買う」の三道楽、長屋住まいの家庭は火の車。赤貧洗うがごとしの生活で、借金をこさえては夜逃げを繰り返す。
芸人としてはさっぱり鳴かず飛ばずで、芸名を17回も変える始末。
昭和10年代に入ってからようやく人気が出始め、本格的に売れ出したのは昭和22年に満州から帰国してからだ。
戦後の日本映画で、家族で落語を聞く場面があると、たいがいは志ん生の落語が使われていた。先代文楽がいわゆる落語通のご贔屓が多かったのに対し、志ん生は大衆的な人気を博していた。

経歴をみれば分かるように、志ん生の生き方そのものが落語の世界なのだ。そうした人生経験に裏打ちされているから、話に説得力が出てくる。
長屋住まいで貧乏暮らし、道楽は酒と博打と女郎買いというのが、落語の登場人物と相場が決まっているが、それはそっくり志ん生が辿ってきた道だ。
「あんな亭主とは別れちまいな」「だって寒いんだもん」という会話一つとっても、それは志ん生の人生そのものなのだ。
古今亭志ん生の凄さは、ここにある。