ある満州引揚げ者の手記(七・最終回)帰国と兄の死
亡くなった母の実家にたどりついた。次々といとこ達親戚の者も朝鮮などから引き揚げて来ていた。父は母を連れて帰って来れなかった事を伯父に手をついてあやまっていた。伯父の家は昔は船を出した漁民の頭だったが、その時は網の修理や浮きなどをけずって作り、細々とした生活であった。従兄一家も広島より原爆を逃れて帰ってきていた。
漁村農村は物がないとお米も魚も分けてくれないように、外地へ出てた者はいい思いしたのだから仕方ないと見下げ、なり上がっている時代となった。
父は初めて愚痴をこぼし、母と代って自分が死んでいた方が、お前達の苦労は半分だったろうと男泣きした姿も見た。兄も私も、右も左も人も初めての人たちの中で言葉になれるのも馴染めなかったが、生きてゆく為にその日から何かしなければ食べていけない現実だったが、一月ばかりは伯父の家で休んだ。父の友人が倉庫半分にして私たち住む部屋にしてくれた。
次男の兄は寝込んだままだった。結核というとみんな伝染するので寄りつかない。だが食糧というとただタンメン、芋、コーリャンの粉、病んだ兄はほうれん草が食べたいなー、リンゴも食べたいなーと言った。どこをさがしてもない物ばかりで、農家へ買いに行っても、品物を持って行かないと出してくれない。買えない。お金はなく売るものもない引揚者の惨めな生活は、同じ日本人でもその頃の漁民や農民の人の冷たさは本当に鬼の様に思えた。
漁村と農村は敗戦で豊かになった。そして人間も日本人同士なのにと何度か思わされた時代だった。日本国中が何の治安もなく、女は身を売ってパンパンという長崎佐世保福岡とはなやかな夜に舞い込んでいくものも多かった。
自転車を求め、父は兄に地図を書いて地元で取れるアミ漬を売りにいくよう指導した。仕事を探す所もなく行商より他ないのである。人と話すことも下手な兄は父に言われるとおりハカリを持って、初めはリュックに担いで売ってきていた。
私も進学できればまだ女学校卒業していないことを、どうしていいのかわからなかったが、誰も何もいってくれなかった。妹だけが小学二年生に入った。「学校はどうするの」と熊本の伯母が来て初めて言ってくれたが、私は「行かれない」と初めて泣いた。母がいないし次兄は病で寝込んでいるし、父も感染していて肋膜炎となっていた。
病人ばかりの我が家は従姉が医者と結婚して近くにいたため何かと助けてくれたが、次兄は二十三歳で缶詰の空き缶に血を吐きながら息絶えた。今でも命日が来るとリンゴとほうれん草を仏壇はないが、私の心の仏壇にかざる。いっぱいいっぱい今はあるし、いっぱい食べさせたかった。栄養失調で妹も感染、私も足がむくみ歩けなくなった。
山を手に入れた父は食糧になるイモを少しでも作ろうと、荒れた山を毎日毎日登って畑にした。木の根を掘り起こしたので、一年は薪を買わずに済んだ。イモを作り麦を作り何もかも初めてだ。出来たものを持って帰る楽しさと言うような、甘い農業ではなかった。十代の私にはとてもつらい仕事だった。
父は母のない年頃の女の私たちを見て、つらい思いを手の届かない思いを、酒の力を借りて当り散らすこともあった。病で身体はだるい、仕事は出来ない。それでも町の仕事や区の仕事を少しずつでもさせてもらっていた。
従姉になる小柳の姉は男の子一人をかかえ、足の不自由な親戚になる軍医と結婚して、三人で東京より引き揚げて来ていた。
伯父の家の庭にささやかな診療室を建て開業していたが、その頃の医者と言っても保険も無く、田舎の人たちは米や魚を持ってくるだけで、現金はなかなか入らない。義足の技術も未だ不十分な品で、苦しそうな従兄の顔を何回と無く見る度に、胸の痛くなる思いだった。亡くなった兄を注射を打ち、また手を取り見送ってくれた医者であった。
後に私が商売に農村を歩き始めたのも従姉のさそいだった。桃子という女の子が生まれその子をおぶって私を連れて、イモで作ったアメを売りに歩き始めたのである。私は兄が残してきた佃煮や削り節などをもって一緒に歩いた。
朝六時すぎの列車に乗って行き白石平野を歩き始める。背中におんぶされてる桃子はおとなしくしていても、やはり疲れるのであろう。早くおさつを数えるよう両手をたたいたようにする。「おっぱいおっぱい」とお腹が空くとぐずってくる。
お寺のような所やお地蔵石のある所で一休みして汗をふきながらの夏、冬は寒くて一軒一軒でよくお茶を頂いた。
あれから、行商に来る人に対してのあつかいも体験した。相手も立派な人間なのだとして言葉態度を思い知らされた。
―終り―
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