ある満州引揚げ者の手記

2008/05/28

ある満州引揚げ者の手記(七・最終回)帰国と兄の死

亡くなった母の実家にたどりついた。次々といとこ達親戚の者も朝鮮などから引き揚げて来ていた。父は母を連れて帰って来れなかった事を伯父に手をついてあやまっていた。伯父の家は昔は船を出した漁民の頭だったが、その時は網の修理や浮きなどをけずって作り、細々とした生活であった。従兄一家も広島より原爆を逃れて帰ってきていた。
漁村農村は物がないとお米も魚も分けてくれないように、外地へ出てた者はいい思いしたのだから仕方ないと見下げ、なり上がっている時代となった。
父は初めて愚痴をこぼし、母と代って自分が死んでいた方が、お前達の苦労は半分だったろうと男泣きした姿も見た。兄も私も、右も左も人も初めての人たちの中で言葉になれるのも馴染めなかったが、生きてゆく為にその日から何かしなければ食べていけない現実だったが、一月ばかりは伯父の家で休んだ。父の友人が倉庫半分にして私たち住む部屋にしてくれた。

次男の兄は寝込んだままだった。結核というとみんな伝染するので寄りつかない。だが食糧というとただタンメン、芋、コーリャンの粉、病んだ兄はほうれん草が食べたいなー、リンゴも食べたいなーと言った。どこをさがしてもない物ばかりで、農家へ買いに行っても、品物を持って行かないと出してくれない。買えない。お金はなく売るものもない引揚者の惨めな生活は、同じ日本人でもその頃の漁民や農民の人の冷たさは本当に鬼の様に思えた。
漁村と農村は敗戦で豊かになった。そして人間も日本人同士なのにと何度か思わされた時代だった。日本国中が何の治安もなく、女は身を売ってパンパンという長崎佐世保福岡とはなやかな夜に舞い込んでいくものも多かった。
自転車を求め、父は兄に地図を書いて地元で取れるアミ漬を売りにいくよう指導した。仕事を探す所もなく行商より他ないのである。人と話すことも下手な兄は父に言われるとおりハカリを持って、初めはリュックに担いで売ってきていた。

私も進学できればまだ女学校卒業していないことを、どうしていいのかわからなかったが、誰も何もいってくれなかった。妹だけが小学二年生に入った。「学校はどうするの」と熊本の伯母が来て初めて言ってくれたが、私は「行かれない」と初めて泣いた。母がいないし次兄は病で寝込んでいるし、父も感染していて肋膜炎となっていた。
病人ばかりの我が家は従姉が医者と結婚して近くにいたため何かと助けてくれたが、次兄は二十三歳で缶詰の空き缶に血を吐きながら息絶えた。今でも命日が来るとリンゴとほうれん草を仏壇はないが、私の心の仏壇にかざる。いっぱいいっぱい今はあるし、いっぱい食べさせたかった。栄養失調で妹も感染、私も足がむくみ歩けなくなった。

山を手に入れた父は食糧になるイモを少しでも作ろうと、荒れた山を毎日毎日登って畑にした。木の根を掘り起こしたので、一年は薪を買わずに済んだ。イモを作り麦を作り何もかも初めてだ。出来たものを持って帰る楽しさと言うような、甘い農業ではなかった。十代の私にはとてもつらい仕事だった。
父は母のない年頃の女の私たちを見て、つらい思いを手の届かない思いを、酒の力を借りて当り散らすこともあった。病で身体はだるい、仕事は出来ない。それでも町の仕事や区の仕事を少しずつでもさせてもらっていた。

従姉になる小柳の姉は男の子一人をかかえ、足の不自由な親戚になる軍医と結婚して、三人で東京より引き揚げて来ていた。
伯父の家の庭にささやかな診療室を建て開業していたが、その頃の医者と言っても保険も無く、田舎の人たちは米や魚を持ってくるだけで、現金はなかなか入らない。義足の技術も未だ不十分な品で、苦しそうな従兄の顔を何回と無く見る度に、胸の痛くなる思いだった。亡くなった兄を注射を打ち、また手を取り見送ってくれた医者であった。

後に私が商売に農村を歩き始めたのも従姉のさそいだった。桃子という女の子が生まれその子をおぶって私を連れて、イモで作ったアメを売りに歩き始めたのである。私は兄が残してきた佃煮や削り節などをもって一緒に歩いた。
朝六時すぎの列車に乗って行き白石平野を歩き始める。背中におんぶされてる桃子はおとなしくしていても、やはり疲れるのであろう。早くおさつを数えるよう両手をたたいたようにする。「おっぱいおっぱい」とお腹が空くとぐずってくる。
お寺のような所やお地蔵石のある所で一休みして汗をふきながらの夏、冬は寒くて一軒一軒でよくお茶を頂いた。
あれから、行商に来る人に対してのあつかいも体験した。相手も立派な人間なのだとして言葉態度を思い知らされた。

―終り―

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2008/05/27

ある満州引揚げ者の手記(六)祖国へ

戦争の惨めさを味わい始めたのは吉林を離れる頃からだった。九月ようやく最後の病人ばかりの家族の引揚げの日が来た。ごはんをいっぱい炊きおにぎりをつくった。
また王さんが焼酎や保存食などを持って馬車に乗って来て、私たちのリュックを今のふとん袋位の大きさに、重さどれくらいあったろう。とにかく今は抱える事も動かす事も出来ない位の重さだった。馬車に積んで出発する列車の近くまで運んでくれた。私たちが歩いて着いた時には、小高い所にわかる様にまとめておいて去っていた。
日本人に良くすると、他の反日感情の満人たちから冷たくされる事はわかっている王さんの親切は、深く深く私たちに教えてくれた。

屋根の無い無蓋車、お皿だけの上に乗せられた人たちもいた。新京を通って奉天の方へ向かって走る。
途中止まった所で小用をすませたり死んだ人を下ろして捨てたり、駅でない所でたまたま止まったのを覚えている。雨になるとみんなで幌のように厚い布地で少しでもしのいだ。奉天の駅では通化の方よりの日本人の引揚者が一夜雨の中張るものも無く、お皿の貨物列車に乗せられていた。お互い哀れな目で見つめ合いはげまし合った。
コロ島に着いたのは何日目だったか忘れているが、二・三日はすごしたと思う。

病人の兄は痔ろうでおしりに穴が開いていた。父は毎日化膿したガーゼを取り替えてやっていた。兄と妹と私は、その回りを人に見せない様に背を向けて囲んだ。ガーゼや消毒液など何日分持って歩いたのか覚えていないが、両足をあげて汗を流し、我慢していた兄の顔が悲しく残る。手当てする父、痛さを歯を食いしばっていた兄、何時も自分の名前はいいと言っていた猛の字の自慢の顔、結核が痔ろうにまでなると、おしまいである。だが兄は頑張ってリュックも担いであるいた。
八才の妹は頑張り屋で、小さい身体に大きなリュックを担いで薄いふとんを上に乗せ、父と兄と私の荷物は大変なものだったが、父と兄は棒を妹のリュックにさして両側を支えて歩いた。日本へたどり着かなければとただそれだけ祖国への一歩一歩であった。

リュックの中まで出して地べたで広げ調べられた。水筒の中の水の中にお金を入れて帰ろうとした人がいて、団体全部引揚げ中止になった人たちがいたと聞いた。みんな捨てた人も多かったようだが、船に乗船する時お金は一人一千円と決まっていた。
父は見知らぬ女の人と子どもだけの人たちに残ったお金を渡した。拝むようにして見送ってくれたあの人たち、その後日本へ帰れただろうか。
病人ばかりなので、船の上でも毎日のように死ぬ人が出た。でも船の上は日の丸の旗がひるがえり、船員さん達も日本人で黄海を日本へ日本へと二週間、海征かばの曲が流れ、死んだ人はカーキ色のコモに包まれ船の上から海へ投げ込まれ、三回その周りをまわり進む。
食糧は朝夕二回、間引きした大根葉が味噌汁のようなものに入っていると、大喜びしたものだった。コーリャンのような、本当におさじ何杯かのわりあてであった。

コレラ患者が出たという事で佐世保の沖に日本の山が見えるのに、又、二週間上陸できなかった。やっと上陸しもとの兵舎に集まり、その夜おじやが出た。初めておいしく食べるものを食べられたと思ったが、リュックの中を全部出して消毒が始まる。その間注射など色々あったが、苦労して持って帰ってきた父のリュックの中のラクダの下着が全部(一人三着分)なくなっていた。日本も食糧難と衣類も無く敗戦国だったのだ。

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2008/05/26

ある満州引揚げ者の手記(五)母の死

北満の人々の中に、牡丹江にいた母の親友田中さんは息子6歳を連れて我が家にたどりついた。他にお腹の大きな三十歳に満たない女の方も我が家でひと時落ち着いた。この女の人の名はおぼえていないが、明るいきれいな人だった。ご主人は出征していた。お腹の赤ちゃんを守りながら一人で何週間家にいたか、よく夕食を作ってくれた。お料理の上手な方だった。無事日本へたどりついたか、その後はわからない。
田中さん親子は一緒だった。田舎も一緒の佐賀だったし、父も一緒に引き揚げる様引き受けしたのだろう。だが我が家は病人二人寝込んでいて収入はなく、持っているものをみんな売り食いが始まっていた。病人へ飲ませるくすりもなく、同じ佐賀という知人の先生が毎日母の注射に来て下さった。
不安な毎日の中、零下二十度と下がるお正月を迎え、学校などに集団でいた人々は次々と飢えと寒さその上伝染病等で死んでいった。

女学校の担任だった新田先生のご主人は警護隊の隊長だったため、すぐ裏山の砲台山で銃殺された。当日私はその下で山を見上げ胸をつまらせ、役目だったとはいえ子供さんもない先生がどんな気持ちかと胸つまり涙が出た。戦争ってこんなものだとは知りつつも、敗けて初めて何のために?何がどうなるを感じ味わう三十二歳の未亡人となられた。
前から父は母がお医者様からがんと云われていたのだろう。おもちの好きな母に何も食べられなくなったのに、ストーブの上でグツグツとやわらかく飲める様に、凍ったおもちをとかして口へ入れてやり、「おいしいー」と母がニッコリした日は二月に入ってからだった。

それまで色々あった父がみんなにやさしいのはいいが、一緒に居る田中の小母さんも父にしがみついた毎日だった。母は寝込んでいるので女の感情と云うか嫉妬であったろう。子どもの私たちはその小母さんの存在を母に同情して食事を別にした。
そして母は亡くなった。どれだけ日本へ帰りたかったろう。日本人の渦巻きの死と生の中にまぎれこんでいった姿のようだった。
隣り近所、父の会社の知人寄りあってどう連絡されたのか、多くの人に見送られ雪の中ソリに乗せて、又砲台山で寒い夜木炭をつかってトタンの上で焼き、骨にする事が出来ただけでも幸せだった。
母のお骨も日本へ持って帰りたかったが、自分の身ひとつ帰れるか未だわからない日々の中、この山の端に南も北も東も見える所へ埋め石をおき、ここなら日本まできっと見えるよねと死んだ母へ語った。

第一戦で侵入してきたソ連兵は物あさりと言うか、日本人の家へドタドタ来て銃剣をつきつけ、時計、シューバーあらゆる貴重品があるものは取り上げていった。言葉は通せず身振り手振りで病人だ胸が悪いと父が云うのがわかったのか、口に手をあてて出て行った。あちこちの家も荒らされ、女の人たちもどれだけ犠牲になっていったかと後で知らされた。
集団の中での一日一日はソ連兵が去って八路が入って来た。それは中国軍との戦いのため、どちらの軍隊も日本兵の捕虜がつかわれていた。兄は若い二十代なのですぐ使役にどちらの軍からも引っ張り出され、トーチカ作り鉄橋作りこわしなど毎日毎日、収入などあるはずない、ただあの年で日本兵として日本の国のためと血をおどらし命をささげて往った若者の方が幸せだったと思う。
私たちの引き揚げは日本人最後となった。仲良くしていた友を見送りに出発の所まで行って別れたのに、後、逃げ出してその後中国兵と一緒に暮した人もいる。
八路軍はどんどん後退した。日本人の引揚げがすめば又進むと言い残していった人がいた。

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2008/05/25

ある満州引き揚げ者の手記(四)地獄

終戦、日本人の敗姿は地獄そのもので、下九台の方から逃げてきた人の話では満人たちに襲われて抵抗、人々たちは斧や鉈でたたき殺されたということである。
関東軍の兵隊さんたちがソ連の捕虜として貨物列車へつまれて北へ送られる時、私はどこであの姿を見たのか場所を記憶しないが、くやしくはぎしりし涙をこぼしながら軍服の襟章(軍隊の階級)をちぎりとってたたきつけた姿を、何とも云えない思いでみつめたものだった。この人たちどこへ連れていかれるのだろう殺されるのだろうかと見ていた。

そして毎日のように脱走兵が我が家にも逃げて来た。来る人の姿は泥沼の中をはいまわって来たような姿だった。目だけが光っていた。
母は父と兄二人の下着を買いだめというか、配給のものを大事に十枚づつ位あったようだ。
お風呂に入れてそのしまってある下着をタンスから出して全部着せ、上着も着せてごはんを食べさせた。頭を下げてお礼を言いながらどこかへ消えた人が何人だったろう。とにかく脱走兵を見つけるとすぐ殺されるので、かくまったりしてもみんながどんなになるかわからない状況だった。

次兄の病の上に母も倒れた。その頃吉林の町は、牡丹江の方より逃げてくる日本人の難民と表現した方がわかりやすい着のみ着のままの人、大切なものだけ持って逃げて来た人が多く、学校、映画館、色々な所へ集団で入った。
寒さも満州では九月中旬も終わりになると寒くなり、十月に入ると初雪が降る。
冬にむけて燃料食料と、日本人は街の中を動く時は満服を着て歩き、物がある人は品を売って食料を買った。ソ連兵が日本人の町に入ってくる時は女か物か、あらゆる所で日本人の男の姿も女の姿もそれぞれ地獄であった。

侵略者として入って来たとは言え、開拓団の人々義勇軍の少年達はせまい日本国よりもてはやされて、広々とした土地へ自分のものとなる大地へと、又女は開拓の花嫁としてみんな貧しい東北・中国地方の人々(長野、山梨)が多かった様に思う。
開墾してようやくものが作れる様になった土地を捨て、逃げて来た人たちは何とかなる、追われると子どもどころか一人逃げるのに精一杯の人もいた。
落ち着いて泣き狂う人、年頃の男は戦場へ出ていたのだから女老人子供の集団だった。村中で自決した所が多かったと聞く。吉林へ何十里何百里野宿しながら着く人々の姿は、日本人同士として着るもの食べるものを分け合ったが、戦時中配給配給だった生活なのだから続きはしない。

吉林満鉄道局に日本の旗が下ろされ中国の旗と変った。父はきびしい人だったが心のやさしい人だった。中国人を会社でも可愛がっていたのだろう、終戦後何かにつけて出入りして助けてくれた。
家ではよく古着や色々安く買いに来る満人のボロ買いの小父さんがいた。王さんと呼んでいて何時もニコニコした顔を思い出す。その王さんの子供さんが熱を出し肺炎となり、相談にきたのか私にはわからなかったが、父はその頃貴重なアスピリンを手に入れて来て分けて上げたのだ。熱は下がり命をとりとめた王さんの子供の様子に、大喜びした両親の姿を思い出す。その王さんが終戦になって引き揚げる日まで本当によくしてくれた。
新聞もなくラジオもなく人からデマばかり流れる毎日、コックリさんが流行した。「かえれるでしょうか、内地まで」?「かえれる」「かえれない」とか返事が文字の上にはしが動く。二人ではしを三本くくって軽くもって、五十音文字書いた紙の上に色々聞くと、返事ははしが文字の上に下がる。
何回か引き揚げだとデマがとぶ。その度に王さんは長期保存食のようなお菓子やお酒まで運んで来てくれた。

あちこちの学校、兵舎に日本人は固まって住んでいた。集団チフスで多くの人が死んでいった。
残された子ども達はまわりの人々で世話する。世話出来なくなると中国人に売って食糧を求める人も少なくなかった。百円二百円三百円など今犬を買う様なものだ。大切に育ててくれる人に買われた子どもは幸せだったろう。捨てられた子どもだって多く、両親兄妹逃げてしまって、それぞれ迷子で死んだ子もいただろうし、拾われた子どももいただろう。その子ども達が今日本人の血のつながりを求めて中国孤児四十歳前後の人々である。
我が家では次兄が肺結核で寝込んでいたし、母も引き揚げのリュックを家族五人分作って寝込んだまま起き上がる事が出来なくなった。

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2008/05/23

ある満州引き揚げ者の手記(三)終戦

戦争はますますひどくなりほとんど若き青年は少なくなり、出征出来ない兄はまわりから非国民とささやかれ、同年の青年達は次々と戦死、あまり外にも出ずハーモニカをふいていたさびしい姿が残っている。
昭和二十年夏、私たち三年生は陸軍に依頼され学校を陸軍病院(兵站病院)扱いとして、衛生兵従軍看護婦数人で私たち学生の看護教育が始まった。大量にインスタント看護婦を作り上げるのだ。授業は救急、止血、人体の構造から始まった。
軍医の講義も学校の講堂で若い二十五・六歳の将校だったが力んで講義する軍医、私たち女学生を何か悲しみに物思いするかの様に教える、軍医様様だった。
八月六日広島へ原爆が落ちても、遠く日本本土へ空襲くらいとしか想像してなく、長崎の原爆も又、まだまだ神の国だから大丈夫と、お互い励ましあっての毎日の訓練に、日々をおしげなく張り切っていた。

ソ連の宣戦で満州は一変した。関東軍は軍備うすく南方へまわされていて、残る兵は壕作りくらいで無防備に近かったと言える。
関東軍の姿は五味川純平さんの「戦争と人間」で知られている。なだれの如く広い北満一体の日本人は、打ち出される波の如く南へ南へと逃げ始めた。
逃げるといっても、今まで地べたへ頭を押し付けていたものが手がはずれた如く、満人達は日本人をおそい家の床板まで剥いで持っていく。子どもの着ているものまで剥いで持っていかれた人もいるという。

吉林も緊張状態になり私たちは看護婦隊を解散となった。それまで学校は、北満より送られてくる傷病兵二千人位収容したと記憶する。毎日担架で下ろしたり運んだりする事、又講義を受けていた講堂にいっぱい兵隊をねかせ、教室もいっぱいとなった。
炊き出し配給、そして苦しむ兵隊さんの「もう日本はおしまいだよ」というのを「何言うんですか、しっかりして」と励ましながら、今まわりの四・五人の語り合った兵隊さんを思い出すと、悲しい気持ちでいっぱいである。若い二十二・三才の人もいるし、四十歳過ぎの小父さんもいた。お国のためと勇んで出征した人たちなのだろうが、この敗戦後退しながらどこかで死んでしまう人たちが多かったろう。何人の人が日本までたどりついたろうか。

八月十五日終戦の日は、学校にいた傷兵たちはみんな南へむけて送り出した後だった。
学級にもどって学年で必勝祈願に吉林神社へ朝から参拝して解散となり、正午の報道は満鉄病院で聞いた。今日は特別放送があるらしいから聞いてみなければ、私たちは歩いて三十分かかるし間に合わず、四・五人の友人と天皇の敗戦御朗が流れるラジオの前で、ただ何か雑音まじりにこれが天皇のお声なのかと神の声として聞いた。戦いがただ終わった事だけはわかった。
「たえがたきをたえしのびがたきをしのび」悲しく重苦しく伝わるこの言葉で「終わった」という、体中から何かホッとした力がぬけた一つの感じがあった事はたしかだった。
家に帰ると父が会社から帰ってきていて、イライラとした表情で二時の放送を待った。

その頃は長兄は父の仕事と一緒の満鉄に入り家にいて、次兄も学校より動員され、軍服を作る工場で労働に倒れて帰されて寝ていた。軍服の布地もほこりの出るもので、裁断から縫いボタン付けまでオートメーション式に一日何十着と、大変な仕事だった話を聞いた。
今思えば何もかも命令で、野麦峠のあの織姫たちの悲しい結核で倒れて死んで行く姿を、男に変えた一つの物語と重なってくる。引揚げ後次兄の二十三歳の人生も悲しいものであった。

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2008/05/22

ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林

陽転して、私が胸を(肺浸潤)患って小学校三年生の終わりから四年生の秋まで安静療養のため、父はバター、ミルク、ドリンクと色々手に入らぬ食料を統制の中買い求めてきて、私に食べろ飲めと大変だった。
奉天は工業都市で空気は悪いからと希望転勤、水の都吉林へ行った。その頃兄は奉天鉄西酒造工場勤務、父は自分より給料がいいと我が子の就職を自慢していたし、次男は大連の学校に行っていたので二人の男の子と別居で、私と妹と四人で吉林に行ったのが昭和十五年十一月、冬を迎えての北満行きだった。紀元二千六百年と日本中が湧いていた時であった。

吉林はスキー場もあり、それまで学校の体育はスピードのスケートだけだったのが、初めて未だ滑った事の無いスキーがあった。一年近くもの休学は大変な重荷となって私はつらかった。特に少数分数代数とわけのわからない勉強に追われ、進学に追いつくのに担任の若い教師は放課後残して教えてくれた。一つ一つ個人で解いてくれた言葉は忘れない。
先生は文学青年でおとなしいあまり喜怒表現の薄い人に見えたが、とても忍耐強い人でもあった。クラス四十二・三人づつ朝日小学校学年男女別々で一クラスづつだった。

クラスメートの中には今作家として活躍しているSさんもいた。私と反対に彼女は健康優良児で幼い時から文学には進んでいたし担任を追い込んでいた。くいしばってがんばる人間は性格であったが、終戦後彼女はあらゆる生活の中で、そのがんばりが体をこわしてしまったのではないだろうか。心臓の二度の手術にむちうってがんばっている彼女の今の姿に、自分の事の様に嬉しくもあり心配でもある。
一緒に吉林高女へ進学した頃は大東亜戦争もたけなわ、南の島々へ日本軍は進んでいた。
ラジオの報道「敵の戦艦の撃沈、我が方の損害少なり」がとても気になり毎日耳を傾ける不安な世であった。
女と云えども銃を持てと教練の時間もあった。中学生は今考えて見れば一人一人敵は素手で攻めてくるはずないのに、藁で作った人形を一突きづつ、大声かけてさしころす練習ばかりであった。

二年三年と進学、軍需工場へ動員、開拓団では農業を手伝った。学校は運動場をつぶし畑をつくり、松花江の江岸へスコップかついで土を掘り起こしヒマやそばを作ったのがどう製造流れたのか、お国のためお国のためで飛行機のガソリンになるのだと、ヒマは多くまた張り切って作った。
十五歳の学生時代は髪は両方に分けくくり、ちぢれた髪やうすい人は苦労した。セーラー服はイギリス服と廃止され国民服となった。国防色といってベージュの濃いいやな色で、ズボンのズダ袋の様な姿の女学生であった。
軍歌軍歌の中にも音楽の先生は、クラシック行進曲(マーチ)を毎朝の朝礼集まりに私たちに聴かせてくれたので、今聞くとベートーベン・シューベルトの曲かわからなくとも、音楽リズムだけは身体の中になつかしく思い出す事が出来る。英語もだめで、あの時英語を教えておいてくれてたらこんな苦労は今ないだろう。横文字をみるとまるでめくらと同じでわからない。

戦争も敗戦になり始めた時はもう何もかも統制され、食料も着るものも日本人でさえ配給配給で並ぶこともあった。
満人には配給などあるはずなかった。学校へ行く途中、よく行き倒れというか冬は道べたに死んで凍った満人をよく見た。飢えて死んだのか寒さで死んだのか、今の中国では華麗な姿も見かけないが、その様なみじめな飢えもないという事だ。
男という男二十歳前後は勿論招集された。十五歳の男子から予科練生として、勉強をたち切って戦場へとかり出され始め、あれが教育されて特攻隊として一人一たま体あたりの教育があった。
我が家は兄は目が悪く徴兵乙となり甲種合格から落ちた。男に生まれ年頃の男の子として、こんなみじめな思いはなかったそうだ。二十一歳の徴兵検査の三ヶ月は明るく楽しく父や母に話していた顔、甘党数人で外出した時お汁粉やに入り、七杯八杯食べたとあの時の親子満足そのもの。親は目の悪い兄を心身ともに身に付けさせようと柔道を習わせ、青年学校で初段になったりした賞を部屋の上に額を並べていた。

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2008/05/21

ある満州引き揚げ者の手記(一)奉天

昭和九年、一家五人田舎の駅で(佐賀県藤津郡)親戚知人何人かの見送りを受けて、満州国奉天市へと日本をはなれた。四歳の私と兄二人を連れて両親はどんな夢を見ていたのだろう。今では大陸への侵略であったと言うが、当時は開拓進出と日本人が支配しなくては前進のない中国として支那へ支那へと送り込んだ。日本人は満人は下等な人間として見て扱ったことは、子供の私でも身をもって感じている。父は先に渡満していた奉天駅前果物店をだしている兄になる伯父を頼って居候した。

近所に住む久山さんという金物屋さんの協力で色々な夜店やまつりの有る所をめぐって色々売り、リヤカーで店を出しに行っていた。長男は中学生で友達に会うのがいやだと言いながら、夜は一生懸命親に手伝って車を引っぱったり押したりしていたのをおぼえている。次男と私は留守番が多かったが、時々夜は車の商品の下に入れられて夜店へ出ていた。ネオンのはなやかな春日通りや奉天神社の境内の様子、短い期間では有ったが強く記憶に残っている。
あの神社なども日本人が入って中国人を使って作り上げたものであったろう。仏教しかない又、それぞれの土地の伝説だけしかない満州に神の国が入って押しつけ、神様をつくり軍隊もまた教育も神であった。天皇は神の子孫であり神の国日本と神のためには死とたたえ、服従教育と云うかこの頃の日本政治の動きは昭和十二年二・二六事件などで想像する。

支那事変勃発の時妹が生まれた。私たちの一番大切な成長期は戦争で始まっている。戦争の勝ち進む事など見てはいなくても、父はその頃満鉄に入社していて、軍隊が進んでいく中国(支那)の方へ後ろに線路を引いていく慰安列車に乗っていた。残酷な日本軍が中国人家を焼き払った後や、分別なき虐殺などのあった後を行ったのかと思うと目をつぶりたくなる現在である。南京陥落など次々と勝ち進む度に、チョウチン行列でおまつりがあった。
父も十二年の暮には奉天満鉄社宅へ帰り本社へ勤めていた。そろそろ佐賀の田舎からも人が渡満してきて佐賀県人会などが出来て、なつかしく寄り合って会食するのが楽しみな母の顔も思い出す。

白菊町と云って、満鉄が土地を買い取って建てたのかとり上げて建てたのか、日本人街に作られた奉天市は広かった。満人たちはその頃、外へ外へと押し出され長屋バラックに貧しく暮す人々ばかりであった。日本人の満人への扱いは人によって違うであろうが、人間扱いではなかった事はたしかだろう。盗人が多かった。満鉄社宅へもよくどろぼうが入った。盗人市場(ショウトル)と言って城外の方で露店があり、そこに行けば盗まれた片方の靴まで売っていたと言う様なありさまであった。品物が安いのでみんな盗られたものをさがし買いに行くのだ。

一度父たちについて行き迷子になったのを経験している。迷子になるとさらわれて殺されるとよく話を聞いていたので、親戚の男の子が大声で泣くのを引っぱって、大声をあげて父をよぶのもこわくて、九才の小さな頭でどうしていいか必死で考えた事も強く残っている。
日本人が一人になると殺されるという恐怖が吹聴されていたが、それも日本人自身だったかもしれない。あまりにも日本軍のやる事がひどいので反日運動があちこちで起こっていたのだろう。
私は奉天葵小学校へ進学、我が家の幸せは3DKの門のある社宅に住んでいたこの頃が、絶頂の時ではなかったろうか。妹の出生は祝福につつまれベビー服やお人形にうまり、母は一番幸せな時ではなかったろうか。

父は世話好きで良く人を家につれてきて下宿させたり入社させたり、何時も誰か家族のほかに他人が一人か二人いた。
ただ今でも生きていてくれればと思う石田という学生がいた。父を満鉄に入社させてくれた人の甥御さんを預かったのだ。その人は北海道の人で父親は肺病で倒れ、母親は病の夫と子どもを残して出て行き祖母に育てられた。そのお祖母さんが亡くなり父親も亡くなり、叔父さんが引き取って満州へ来ていたのだが、その叔父さんが北支の方へ転勤となった。学校がもうすぐ卒業、高等二年(十四歳)というのにつれていかれなかったのか「叔母さんは自分の子供三人は連れて行ったのに、やっぱり自分は迷惑だったのだ」と言っていたのを私の両親は涙を流して聞いていた。母は一緒にお弁当を作り父・兄・私・その子四・五人分のお弁当を丸いお膳の上に並べて、朝は忙しく作っていた風景も一つの思い出である。

卒業してその子は軍属へ就職した。頭が良く私の家庭教師の様に勉強も教えてくれた。試験で九十点以上を取れば講談社の本を買ってくれた。よく読む時で、一冊一冊深く本の内容や絵を思い出す。
転勤となり我が家を出て行く事になった。「自分の家だと思って何時でも帰って来るんだぞ」と言う父や母に、両手をついて「御恩は一生忘れません」と挨拶したあの十五・六歳の男の子、今想像してもその時私には大人に見えていた。「今度来る時は長い剣をさして来ます」と休暇間に遊びに来た時は、父を喜ばせた言葉だった。その後父が面会に行っても会えず行方不明となった。軍属といっても内容は私にはわからなかった。

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2008/05/20

「ある満州引揚げ者の手記」掲載にあたり

次回より数回に分けて、「ある満州引揚げ者の手記」と題する記事を掲載しますが、その掲載にいたる経緯を説明したいと思います。
ご近所に佐藤浜さん(仮名・女性)という方が住んでおられますが、幼い頃父親の仕事の関係から一家揃って満州に渡り少女期を過ごしました。日本の敗戦の混乱の中でようやく祖国に帰還しますが、その前後に母親と兄を病気で失うという不幸に見舞われます。
佐藤さんは、いつか妹や子どものために読んで貰おうと思って、メモ用紙や広告の裏紙に手記を書いていました。しかし整理のつかぬまま高齢になり、このままだと手記も散逸してしまうということで、知り合いである私の妻に整理の依頼がありました。
妻がこれをワープロに打ち直したのですが、たまたま私がこの原稿を読んで、これを是非多くの方に見て欲しいと思い立ちました。
公表を前提としたものではないので、文意の取りづらい所分かりにくい所もありますが、戦前満州という地に渡り、終戦時の地獄のような混乱を生き抜いた一人の女性の記録として、大変貴重な資料だと考えます。何の飾りもない文章だけに、私はより感動しました。
佐藤浜さんご本人の了解が得られましたので、手記に書かれたままを掲載したいと思います。

掲載にあたり、留意した点は次の通りです。
(1)明らかな誤字、及び旧カナづかいを直した以外は、原文そのままを掲載する。
(2)差別的な用語や表現が含まれているが、そのままとする。
(3)個人が特定できる固有名詞については仮名とする。
(4)掲載にあたり整理の都合で表題と小見出し、段落は当方でつけた。

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