「赤穂事件(忠臣蔵)」余聞
先日、久々に神保町の古書店に行き、
竹内誠「元禄人間模様 変動の時代を生きる」(角川新書 平成12年1月30日初版)
を購入した。タイトルの通り、5代将軍徳川綱吉の時代に生きた人々について書かれた本で、その中の歌舞伎や落語に関する項目についていくつか紹介してみたい。
今回は「赤穂事件(忠臣蔵)」について理解を改めた点がいくつかあるのを採り上げる。
【勅使接待の御馳走役は浅野内匠頭だけ】
徳川幕府は毎年正月に将軍の名代を京都に派遣し、年頭の祝賀を申しのべるのが慣例だった。朝廷は3月に答礼として勅使と院使を江戸に派遣した。
元禄14年(1701年)正月には、高家筆頭吉良上野介が将軍の名代をして京都にのぼった。その答礼のため、東山天皇の勅使として2名、霊元上皇の院使として1名が江戸にくだった。一行は3月11日に江戸に到着した。
勅使接待の御馳走役には浅野内匠頭が、院使接待の御馳走役には伊達左京亮があたった。従来、勅使接待役として浅野と伊達二人があたったとしている資料があるが不正確のようだ。
なお、浅野内匠頭は18年前の天和3年(1683年)にも勅使御馳走役を勤めており、この時が2度目となっていた。
これは別の資料に書かれていたことだが、吉良は正月に京都にのぼり、急ぎ江戸に戻って3月11日の勅使接待の準備や打ち合わせという忙しい日程なので、経験のあった浅野を指名したものとある。
【松の廊下の刃傷事件の経緯】
勅使らの接待の最終日は3月14日で、この日は白書院において将軍が謝礼を勅使らに述べる儀式(勅答の儀)や、将軍と御台所から勅使らに贈り物を届ける予定が組まれていた。
儀式が始まる直前の大広間と白書院を結ぶ松の廊下は、慌ただしさと緊張感に包まれていた。御台所からの贈り物を届ける役だった梶川与惣兵衛が大広間から、吉良上野介が白書院からそれぞれ歩いてきて出会い、時刻のことを二言三言交わしていた所へ、突然吉良の背後から浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と大声をあげて切りかかってきた。
吉良が驚いて「これは」と振り向いた所を眉間に切りつけられ、慌てて梶川の方へ逃げようとした。その背中に浅野はまた斬りつけた。吉良はそのままうつぶせに倒れたが、梶川が浅野に飛び掛かって抱きすくめた。
浅野はその後、梶川や高家衆らに取り囲まれて連れて行かれたが、そのみちみち「この間中の意趣」があり吉良を斬ったと、興奮して何度も大声で叫んだ。ただ浅野は、遺恨の内容については、目付の取り調べでも語っていない。
吉良の傷は、眉の上の骨が切れるやや深傷で長さが3寸6分、背中の方は浅傷で長さは6寸だった。
大切なな儀式の日に、御馳走役という大事な役目を担った者が、事もあろうに殿中で刃傷事件を起こしたとあって将軍や重役が激怒したのは当然である。浅野内匠頭は切腹、お家断絶の処置が取られた。
吉良は一方的に斬りつけられ、抜刀もしてないので喧嘩両成敗は成り立たず、お構い無しの処置となったがこれも当然である。
浅野が吉良に遺恨があって討ち果たそうとしたなら、小刀を振り回しても意味はない。小刀は刺すものだ。
今風に言うならば、計画的犯行であったが、殺意は無かったということになろう。
しかし、浅野のこうした謎の多い行動が多くの憶測をよび、その後刃傷に至った原因について諸説が流布されて、巷間では次第に浅野に同情的な意見が増えていったのは皮肉である。
【赤穂の因縁話】
備中藩主・水谷(みずのや)勝宗が元禄2年五病没し、跡を継いだ勝美も4年後の没した。不幸は続き、養子の勝春も疱瘡で相次いで亡くなった。
その結果、水谷家はお家断絶、備中松山藩は収公となった。
この松山城の請け取りの使者役に、幕府は浅野内匠頭を任命した。元禄7年に赤穂家の家老・大石内蔵助は、松山藩士らの反抗に備えて、大勢の家臣を引き連れて要所要所に配置し、無事城明け渡しを終了した。この時の赤穂藩士の中には、後年吉良邸に討ち入りした者が数名含まれていた。
それから7年後に、今度は浅野家が同じ運命を辿ることになる。
また、浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺は、先の水谷勝宗の墓所でもあった。
両家の運命のいたずらか。
一時は討ち入りの一味同心の盟約を結びながら、直前に逃走した浪士に小山田庄左衛門がいる。他にも何名かいるのだが、小山田は同士の金を盗んで逃げたとあって、武士にあるまじき行為だ。
この小山田が、中島隆碩と名を変えて町医者になっていた。
処が、赤穂浪士切腹の18年後の享保6年(1721年)に、使用人の直助という男の殺害されてしまう。
因果応報というべきか。
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