フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

2020/02/19

「赤穂事件(忠臣蔵)」余聞

先日、久々に神保町の古書店に行き、
竹内誠「元禄人間模様 変動の時代を生きる」(角川新書 平成12年1月30日初版)
を購入した。タイトルの通り、5代将軍徳川綱吉の時代に生きた人々について書かれた本で、その中の歌舞伎や落語に関する項目についていくつか紹介してみたい。
今回は「赤穂事件(忠臣蔵)」について理解を改めた点がいくつかあるのを採り上げる。

【勅使接待の御馳走役は浅野内匠頭だけ】
徳川幕府は毎年正月に将軍の名代を京都に派遣し、年頭の祝賀を申しのべるのが慣例だった。朝廷は3月に答礼として勅使と院使を江戸に派遣した。
元禄14年(1701年)正月には、高家筆頭吉良上野介が将軍の名代をして京都にのぼった。その答礼のため、東山天皇の勅使として2名、霊元上皇の院使として1名が江戸にくだった。一行は3月11日に江戸に到着した。
勅使接待の御馳走役には浅野内匠頭が、院使接待の御馳走役には伊達左京亮があたった。従来、勅使接待役として浅野と伊達二人があたったとしている資料があるが不正確のようだ。
なお、浅野内匠頭は18年前の天和3年(1683年)にも勅使御馳走役を勤めており、この時が2度目となっていた。
これは別の資料に書かれていたことだが、吉良は正月に京都にのぼり、急ぎ江戸に戻って3月11日の勅使接待の準備や打ち合わせという忙しい日程なので、経験のあった浅野を指名したものとある。

【松の廊下の刃傷事件の経緯】
勅使らの接待の最終日は3月14日で、この日は白書院において将軍が謝礼を勅使らに述べる儀式(勅答の儀)や、将軍と御台所から勅使らに贈り物を届ける予定が組まれていた。
儀式が始まる直前の大広間と白書院を結ぶ松の廊下は、慌ただしさと緊張感に包まれていた。御台所からの贈り物を届ける役だった梶川与惣兵衛が大広間から、吉良上野介が白書院からそれぞれ歩いてきて出会い、時刻のことを二言三言交わしていた所へ、突然吉良の背後から浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と大声をあげて切りかかってきた。
吉良が驚いて「これは」と振り向いた所を眉間に切りつけられ、慌てて梶川の方へ逃げようとした。その背中に浅野はまた斬りつけた。吉良はそのままうつぶせに倒れたが、梶川が浅野に飛び掛かって抱きすくめた。
浅野はその後、梶川や高家衆らに取り囲まれて連れて行かれたが、そのみちみち「この間中の意趣」があり吉良を斬ったと、興奮して何度も大声で叫んだ。ただ浅野は、遺恨の内容については、目付の取り調べでも語っていない。
吉良の傷は、眉の上の骨が切れるやや深傷で長さが3寸6分、背中の方は浅傷で長さは6寸だった。
大切なな儀式の日に、御馳走役という大事な役目を担った者が、事もあろうに殿中で刃傷事件を起こしたとあって将軍や重役が激怒したのは当然である。浅野内匠頭は切腹、お家断絶の処置が取られた。
吉良は一方的に斬りつけられ、抜刀もしてないので喧嘩両成敗は成り立たず、お構い無しの処置となったがこれも当然である。
浅野が吉良に遺恨があって討ち果たそうとしたなら、小刀を振り回しても意味はない。小刀は刺すものだ。
今風に言うならば、計画的犯行であったが、殺意は無かったということになろう。
しかし、浅野のこうした謎の多い行動が多くの憶測をよび、その後刃傷に至った原因について諸説が流布されて、巷間では次第に浅野に同情的な意見が増えていったのは皮肉である。

【赤穂の因縁話】
備中藩主・水谷(みずのや)勝宗が元禄2年五病没し、跡を継いだ勝美も4年後の没した。不幸は続き、養子の勝春も疱瘡で相次いで亡くなった。
その結果、水谷家はお家断絶、備中松山藩は収公となった。
この松山城の請け取りの使者役に、幕府は浅野内匠頭を任命した。元禄7年に赤穂家の家老・大石内蔵助は、松山藩士らの反抗に備えて、大勢の家臣を引き連れて要所要所に配置し、無事城明け渡しを終了した。この時の赤穂藩士の中には、後年吉良邸に討ち入りした者が数名含まれていた。
それから7年後に、今度は浅野家が同じ運命を辿ることになる。
また、浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺は、先の水谷勝宗の墓所でもあった。
両家の運命のいたずらか。

一時は討ち入りの一味同心の盟約を結びながら、直前に逃走した浪士に小山田庄左衛門がいる。他にも何名かいるのだが、小山田は同士の金を盗んで逃げたとあって、武士にあるまじき行為だ。
この小山田が、中島隆碩と名を変えて町医者になっていた。
処が、赤穂浪士切腹の18年後の享保6年(1721年)に、使用人の直助という男の殺害されてしまう。
因果応報というべきか。

2016/12/10

「忠臣蔵」ならぬ「吉良のご難」

12月14日が近づくと、毎年TV番組などで「忠臣蔵」関連の番組が組まれたり、ドラマや過去の映画が再放送されたりするのが慣わしとなっている。
今年は国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の通し公演が3か月にわたって行われ、同じく小劇場では文楽の人形浄瑠璃による通し公演が行われている。
しかし良く考えてみれば、「忠臣蔵」(以下「赤穂事件」と呼ぶ)ぐらい被害者と加害者が逆転して描かれ、加害者側が一方的に賛美されている事件というのは稀だろう。
フィクションと事実との境目がアイマイになり、フィクションがあたかも事実の様に受け取られている事件としても特徴的だ。
江戸の元禄年間に起きた「赤穂事件」とは、次の通りだ。

【刃傷】
元禄14年3月14日、江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。
幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。
内匠頭の弟で養子の浅野大学は閉門、赤穂藩の江戸藩邸と赤穂城は収公され、家臣は城下から退去となった。
【討ち入り】
翌年の元禄15年12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が、江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた。
今回の事件に対する幕府の裁定は、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。

以上が赤穂事件の事実である。
2件とも浅野側が吉良側を一方的に襲ったものであり、吉良は完全な被害者だ。しかも吉良はフィクションで悪者扱いされていて、まさに踏んだり蹴ったりである。
この事件の不可思議な点は、先ず発端の刃傷事件にある。
意外と思われるだろうが、吉良上野介が勅使接待の補佐役に浅野内匠頭を任命したのは二度目だった。この年に朝廷側との折衝で何かと多忙を極めていた吉良が、二度目で馴れているからと浅野を指名していた。従って勅使接待の作法を吉良が意地悪して浅野に教えなかったという風説には根拠がない。
勅使は3月11日に江戸城に来訪、3日間の行事を済ませて14日に帰るというその日に刃傷事件が起きる。

この事件では当事者の二人以外に至近距離から事件を目撃し、乱心する浅野を取り押さえた人物がいる。旗本の梶川与惣兵衛である。
梶川の当日の役目は、御台所(みだいどころ:将軍綱吉夫人)から勅使への贈り物の取り次ぎ係だった。
その日、梶川は同役から勅使の時間が早まったようだと聞かされる。そうなると全体スケジュールに影響するので、とにかく責任者である吉良上野介を探し事実を確認しようとした。
途中で浅野内匠頭とばったり会い、互いに挨拶を交わした。
その直後、松の廊下の中ほどで吉良と出会い二人で面対し、勅使の時間が早まったことを話し合っていた。
その時、吉良の背後から浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら、吉良の背中を斬りつけた。
振り返った吉良の額を浅野が斬りつけ、逃げようと再び梶川の方へ向かった吉良を浅野は背後から更に斬りかかる。
制止しようとした梶川の手が、浅野の持つ小刀の鍔にあたり、梶川はそのまま押し付けすくめた。
梶川は浅野の手を小刀もろとも離さず、駆けつけた他の者と共に浅野を別の部屋へ連行し、引き据えた。
吉良は軽傷だったため、治療を受けた後に帰宅した。

この「刃傷事件」の最大の謎は、浅野の動機が今日に至るまで不明であることだ。
取り調べにあたった多門伝八郎が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で、「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」と述べたという。
また浅野内匠頭は事情聴取に対し「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている。
一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている。
しかし、浅野はその「私的な遺恨」について具体的なことは最後まで語らなかった。
事件が浅野の一方的な刃傷であったとしても、原因が吉良の悪口雑言であったとしたら、それは刃傷の正当な理由になった。この場合には、吉良に対しても厳しい措置が取られたであろう。
事実、寛永4年の殿中刃傷事件では、口論が原因とされて加害者と同時に被害者側もお家断絶の処分になっている。
これでは浅野に対しては切腹を命じ、吉良にはお咎めなしという幕府の裁定は当然ではあるまいか。

もう一つの疑問は、浅野が取り調べで「上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ」と言っているが、果してそうだっただろうか。
浅野は無防備の吉良を2回斬りつけたにも拘らず、吉良のダメージは額を6針、背中は3針縫って治療は終わっている。吉良はそのあと、湯漬けご飯を2杯食べて元気を取り戻したと医者が記録している。
浅野は脇差しではなく礼式用の小刀を手挟んでいたが、もし小刀で相手を殺害しようとするなら、斬りつけるのではなく刺殺せねばならない。
吉良の背後から刺し、振り向いた所をさらに前面から刺していたら、高齢の吉良は致命傷を負っただろう。
さすれば事件もここで完結していた。

赤穂の浪士たちも幕府の裁定に不服なら、怒りの矛先は幕府に向かわねばならぬ筈で、吉良への復讐は筋違いだ。
幕府もそれを察し利用して、討入り後に吉良家に対して改めて重い処罰を下したのかも知れない。
短慮な大名の軽率な行動が大きな悲劇を生んでしまったが、それがフィクションとして書き換えられ、義士として賛美されて後世に名を残す結果になったのは、歴史の皮肉ということか。

2006/12/25

「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(下)

Ooishi元禄忠臣蔵の観劇記と並行して掲載してきた「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実も、今回が最終回です。
この事件の最大に謎は、吉良に対する浅野の刃傷事件が、最後まで原因が分からずに終わってしまったということです。
事件後の聴取で、浅野は「私的な遺恨」であることを繰り返し述べていますが、その具体的な内容は最後まで口をつぐんでいます。一方吉良は「恨みを受ける覚えがない」と主張しています。
加害者である浅野は処罰されるにしても、もし吉良により名誉を汚されたなどの事実があれば、吉良にも何らかの処罰が下された可能性があります。
従って、浅野内匠頭が一切口を閉ざした理由が、どうも理解し難いところです。
寛永4年の殿中刃傷事件では、口論(喧嘩)が原因とされて、被害者側もお家断絶の処分になっています。
浅野内匠頭の「一言の申し開きもない」という弁明が、この事件をややこしくしてしまいました。

内匠頭の血筋で一つ気になることがあります。
母方の伯父にあたる内藤忠勝という大名が、芝増上寺で行われた将軍家綱の法要の席で、大名永井信濃守を殺害する事件を起こしています。
この両事件には共通点が多いのです。
①幕府にとり重要な儀式の最中に起きている。
②加害者に強い殺意が認められる。
③被害者が立場上で上役にあたる。
④被害者が無抵抗であった。
⑤加害者は直ちに切腹となった。
まさか浅野内匠頭に、内藤忠勝のDNAが影響したというわけではないでしょうが。

大石内蔵助は討ち入りについて随分と迷いました。
最終的に決断したのは、浅野家の再興が不可能となったこと、浪士の中の脱落者が増えてきたことや経済上の理由などがありますが。私はもう一つ重要な要素に、幕府がこの仇討ちを認めるかどうかの判断があったのだと思います。
大石は当初から、自分達の行動が幕府に盾突くものではないことを強調してきました。しかし主君浅野内匠頭の仇として吉良を討てば、刃傷事件にあける幕府の裁定への抗議と受け取られかねない。
幕府がこの討ち入りを認めてくれるかどうか、そこを心配していたのでしょう。

これは私の推理ですが、刃傷事件の起きた年の9月に、吉良家の屋敷が呉服橋門内から本所に移し替えになりましたが、これで討ち入りを幕府が容認するとの感触を得たのではないかと思っています。
というのは、呉服橋門内は武家屋敷に囲まれていて、何といっても江戸城のお膝元ですから、非常に警備が厳重でした。この地区に近付くのも容易はなかったでしょう。
赤穂の浪人たちが密かに討ち入りの計画を練っているという情報は、幕府の上層部に届いていたでしょうから、警備を考えれば呉服橋の方が遥かに安全でした。
一方本所ですが、当時は「本所無縁寺うしろ」という地名(本所松坂町というのは後年つけられた地名)に表れているように、かなり寂しい地域でした。当然警備も手薄になります。
吉良家の屋敷が元の呉服橋門内にあったなら、討ち入りを成功させるのは非常に難しかったでしょう。
そこで本所への移転を、大石は幕府のGOサインと読んだのではないか、これが私の推理です。

討ち入り後、浪士の中の2名が大目付仙石伯耆守の屋敷に出頭し、「浅野内匠頭家来口上書」を差し出しています。討ち入りの届出を行ったわけです。
ここで仙石伯耆守は浪士たちの行動を誉め、感心したことは注目に値します。
既に討ち入りを予想していた幕府の上層部の中には、赤穂浪士たちの行動を支持する動きがあったのでしょう。
大石内蔵助としては、亡き主君の仇討ちを成功させると同時に、幕府に自分達の行為を認めさせたということで、全面勝利であったわけです。

哀れをとどめたのは吉良家でした。
刃傷事件と、討ち入りという2度の被害にあい、前の主君義央は殺害され、現主君の左兵衛は重傷を負ってお家は断絶、本人も他家にお預けとなり罪人と同様の扱いを受けた末、21歳の若さで死んでゆきます。
大石以下浪士46名に切腹に申し渡しがあったその当日、幕府は吉良方に先の厳しい処分を下しました。
かつての殿中刃傷事件の裁定とは、正に雲泥の差です。
この間に将軍及び幕府上層部にどのような心境の変化があったのか、これも謎です。

赤穂事件は、その後これを題材にした芝居「仮名手本忠臣蔵」が余りに大当たりし、日本人の心情にまで深く影響した結果、事実とフィクションとの境目がアイマイにされてきたきらいがあります。
そのため特に吉良上野介が一方的な悪者とされてきたことは、大変気の毒なことです。
一種の「風評被害」とも言えるでしょう。

2006/11/27

「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(中)

Matsunoroka「元禄忠臣蔵」11月公演が私の体調不良で観られなくなってしまい、予定が狂いました。
今月は観劇記なしで、この「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(中)だけを掲載することになります。

「赤穂事件(忠臣蔵)」の最大の謎は、刃傷事件が起きた原因が分からないという点にあります。
芝居やドラマでは適当な理由をつけていますが、全て後の時代に推理したもので、事件発生後の取調べでは、加害者である浅野内匠頭が最後まで理由を語らないまま切腹していますので、結局分からずじまいで終わっています。
もう一つ大きな疑問として、内匠頭に上野介に対して殺意があったのか無かったのか、この点を検討してみたいと思います。
現代風にいえば、この事件が殺人未遂事件なのか、それとも傷害事件なのかという検証です。

松の廊下の事件現場には、加害者と被害者以外に一人至近距離からこの事件の全てを目撃していた人物がいます。
旗本の梶川与惣兵衛です。芝居では内匠頭の背後から羽交い絞めにしている人ですね。
彼は単に目撃しただけではなく、浅野内匠頭の犯行を途中で制止し取り押さえたのですから、この人の証言が最も信用おけるわけです。
以下は梶川与惣兵衛の日記からです。

梶川の当日の役目は、御台所(みだいどころ:将軍綱吉夫人)から勅使への贈り物の取り次ぎ係でした。
その日同役から勅使の時間が早まったようだと聞かされます。そうなると全体スケジュールに影響しますから、とにかく責任者である吉良上野介を探し、事実を確認しようとしたわけです。
途中で浅野内匠頭とばったり会い、互いに挨拶を交わしました。
その直後、松の廊下の中ほどで吉良と出会い二人で面対し、勅使の時間が早まったことを話し合っていた、その時でした。
吉良の背後から浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら、吉良の背中を斬りつけます。
振り返った吉良の額を浅野が斬りつけ、逃げようと再び梶川の方へ向かった吉良を浅野は背後から更に斬りかかります。
その時、制止しようとした梶川の手が、浅野の持つ小刀の鍔にあたり、梶川はそのまま押し付けすくめました。
梶川は浅野の手を小刀もろとも離さず、駆けつけた他の者と共に浅野を別の部屋へ連行し、引き据えました。
以上が事件現場に立ち会った梶川の記録の概要です。

芝居や映画でお馴染のシーンでは、浅野内匠頭と吉良上野介が口論となり、内匠頭が逆上して斬りかかるという事になっていますが、事実は吉良と梶川が廊下で立ち話している最中に、吉良の背後から浅野が斬りつけています。

ここで問題です。
浅野が本当に吉良を殺すつもりであったなら、なぜ小刀で刺さなかったのか。小刀で斬ったって人は殺せない、こんな事は素人でも分かります。まして武芸の心得のある大名が、気がつかない筈はないでしょう。
1960年日比谷公会堂で行われた立会演説会で、壇上で演説中であった当時の社会党の浅沼委員長が、右翼の少年に短刀で刺殺されましたが、この模様の一部始終はTVカメラにおさめられ、ニュースで繰り返し放映されました。
少年は両脇を締めて短刀の柄を自分の脇腹にあてて、相手の身体に自分の身体をぶつけるようにして刺し、一撃で致命傷を与えていました。

事実、浅野は無防備の吉良を2回斬りつけたにも拘らず、吉良のダメージは額を6針、背中は3針縫って治療は終わっています。吉良はそのあと、湯漬けご飯を2杯食べて元気を取り戻したと医者が記録しています。
浅野が吉良を刺していたら、高齢の吉良は絶命していた可能性が高い。そうなれば、赤穂浪士の仇討ちは起きず、歴史は変わっていたわけです。

事件後の取調べで浅野内匠頭は、「上野介を討ち果たそうと刃傷におよんだ」と殺意があったことを認めています。
であれば、なぜ小刀で刺さずに袈裟がけに斬りつけたのか、この事件の出発点に大きな謎が残されています。

2006/10/24

「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(上)

Uchiiri今月から3ヶ月にわたり、国立劇場の「元禄忠臣蔵」を観劇する予定ですが、これに合わせていわゆる「赤穂事件」の謎と真実について、私見を述べてみたいと思います。
この事件は、一般に忠臣蔵と呼ばれるほど人口に膾炙され、それだけに事実と物語の世界がないまぜになり、フィクションがあたかも真実のように受け止められています。

史実としての赤穂事件とはどういうものだったのか確認して見ましょう。
【刃傷】
元禄14年(1701年)江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。
幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。
内匠頭の弟で養子の浅野大学は閉門、赤穂藩の江戸藩邸と赤穂城は収公され、家臣は城下から退去となった。
【討ち入り】
翌年の元禄15年(1702年)12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が、江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた。
今回の事件に対する幕府の裁定は、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。

以上が赤穂事件全体の概要であり、事実です。
何だかこうして事実だけ書くと、2つの事件ともに浅野家サイドが加害者、吉良家サイドは被害者であることが分かります。
しかも最初の刃傷事件は無抵抗の吉良を浅野が一方的に切りつけたものであり、後者は武装した旧浅野家家臣たちが、無防備の吉良家の主とその家臣たちを殺戮したものです。
処が、吉良家は前の事件ではお構いなしだったのに、後の事件では事実上のお取りつぶしにされたのですから、正にふんだりけったりで、被害者側から見ると不条理な裁きだったと思います。
赤穂事件は、「忠臣蔵」ではなく、「吉良家の災難」と呼ぶのが相応しいですね。

赤穂事件の最大の謎は、私は討ち入りにあると考えています。
江戸の市中は将軍のお膝元ですから警戒は厳重であり、街の治安も今より遥かに良かったでしょう。
では何故、完全武装した50人近くの集団が徒党を組み、大名屋敷に押し入るなどということが出来たのでしょうか。
夜中に押し入った後恐らく数時間は吉良邸内に留まり、かつ上野介の首級を掲げて、本所から高輪泉岳寺まで集団で行進できたというのは、いかにも不自然ではないでしょうか。江戸の治安部隊が出動しなかったのには、それなりの理由があったのでしょう。
赤穂浪人の討ち入りが、実は幕府首脳の暗黙の了解、黙認の下で行われたとしか、考えられない。

刃傷から討ち入りまでの1年数ヶ月の間に、恐らくは幕府上層部の方針に大きな変化があったのでしょう。
三権分立など無かった時代の政治事件への裁定は、100%トップの方針で左右された筈です。
この辺りは程度の差はありますが、現在も同じかも知れませんが。
吉良家サイドに過失があったとすれば、そうした幕府の動向に気付かず、藩邸のセキュリティを疎かにしたという点です。
時の最高権力はである柳沢吉保や、米沢上杉家との縁戚関係に頼り切って油断し過ぎたことが、吉良家の悲劇を生んだものと思われます。

地元では名君として慕われていたという上野介ですが、気の毒な最期を遂げたことになります。

2005/03/02

暴発

akaho2月27日中津川市で起きた一家5人殺人事件は、小さな赤ちゃんまで犠牲になる大変痛ましい事件でした。
未だ全容は明らかになっていませんが、今のところ父親である介護施設の事務長が、自分の血族である家族を皆殺しにし、自殺を図ったと見られています。しかも飼い犬まで殺すという徹底ぶりです。
この男性は、普段は温厚な性格で、警察犬の訓練士もしていて、人望を集めていたようです。
確かに写真や、以前撮影されたビデオで見ても、その人柄が偲ばれます。
動機の解明はこれからですが、一種の暴発であることは先ず間違いないでしょう。
暴発による事件は、少年や若者だけではなさそうです。

少し前に起きた寝屋川市の17歳少年による小学校教師殺傷事件も不可解なものでした。
小学校時代の担任教師2人を殺し、自殺するつもりだったと供述しているようですが、なぜそう思ったかは分からないと言っているようです。
恐らく、この容疑者二人とも犯行に及んだ動機が、自分でも説明がつかないと思われます。

話は飛びますが、元禄14年江戸城中で、赤穂藩主である浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ事件が起こりました。世に云う『赤穂浪士』あるいは『忠臣蔵』の発端ですね。
この事件も私は一種の暴発と見ています。
先ず、浅野が吉良の下で勅使接待役を勤めたのは2回目であったことです。しかもこの2回目のときは、吉良自身が浅野を指名したもので、むしろもう一人の初めて接待役を勤める大名に対する指導役を期待していたのです。
又、刃傷事件は勅使接待の最終日のしかも午後で、もう間も無く終了のベルがなる直前ですから、なぜあのタイミングで切りかかったのか、理解に苦しみます。
ですから事件後の幕府の取調べでも、浅野内匠頭は犯行の動機を説明していないのです。
これも暴発としか考えられません。

ただこの事件の場合、気の毒なのは吉良上野介です。
当時、将軍綱吉からの信頼も厚く、又地元領民からは名君として慕われていた人物です。
一方的に切り付けられ、しかも本来は加害者である浅野側の家来たちにより、これ又一方的に押し入られたうえ殺害され、さらに抵抗が不十分であったとの理由でお家も取り潰しにあい、正に踏んだり蹴ったりです。
挙句のはて、現在に至るまで悪人扱いされているのですから、吉良上野介は、一人の思慮を欠いた大名が起こした暴発事件の、最大の被害者と言って良いでしょう。